そんな疑問に答えを出します。これまで世界でも類の無かった驚愕する事実がここにあります。
記紀や神話を超えて、真実の古代史に迫ります
「★荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の位置はHSCPによって事前に予測できた。」
を追加いたしました 。
★屋久島の不思議な神社配置
図-1 矢印で印した先が神社の位置です。神社間のほとんどは極めて 正確な直角 で結ぶことができます。
注;固定点の周辺にランダムに発生させた二点を取り、固定点から二点を結んだ線が直角になる大雑把な確率は角度精度が1%では100回に一回、0.1%の角度精度では1000回に一回程度になります。
日本最北端の礼文島でも規則正しい神社配列があります。
(エレキジャック サイエンス No.133P 図4 )礼文島の神社配置
もちろんこの例は「日本は神社が多いのでどこに線を引いても必ずどこかの神社に行き当たるのは当たり前だ」として、HSCPの存在を否定さけることのないように離島を例にしているだけで、規則正しい神社配列は日本全土に共通してあります。
エレキジャック サイエンス No.1(CQ出版社)
「なぜそこに神社が建てられたのか?」
電子地図から古代史の「謎」を解明する
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1.神社群はHSCP(二つの神社のペアが作る線の端末から直角方向に引いた線の多くが同一の収斂点を持つ規則)または直角収斂則と呼ぶ規則で配置されている。(このときの収斂点を神社群中心と呼ぶ)
2..神社群中心には神社が存在する場合が多いが、そこに神社がない場合があり、その代わりに遺跡(立石、いわくらを含む)、水源、尖った山の山頂、洞窟、滝などがある。(近年話題の多くなっているパワースポットと一致する場合もある)。
注;甑岳(宮崎県えびの市)のように、頂上が尖っていない山でも、神社群中心がある場合もある。
3.神社群の配列規則は北海道から沖縄まで同じ規則で配置されている。
4.神社群は互いにHSCP則を満足する線でチエーン状に結ばれていて、北海道から沖縄、島嶼まで切れ目なく結ばれている。
5.神社群は神社間を結んだ線が作る干字状パターンで古富士ポイントまたは野迫川ポイント(奈良県吉野郡野迫川村の山中にある)の一点を指している。富士山や野迫川ポイントを目視できない見通し外距離にある神社群でも同一規則を持つ。
6.神社群の位置を決める角度の精度は1度以下(実力は±0.2度)と高い精度を持っている。
★神社配列規則から得られた成果の一部
1.神社の配置からは、現存する神社のほとんどは縄文時代にその位置が決まっていたと考えざるを得ない。しかし、その位置に最初から現在のような神社があったとする証拠はまだ見つかっていない。
2.神社配置規則から見た歴史観は現在の常識的な歴史観から大きく乖離している。しかし、数学的に見ると全く矛盾はない。これはこれまでの文献や発掘による考古学的手法の限界を示している。
3.島根県の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡は神社群中心の位置にあり、古富士線も持つ。
4.日本全国にある鉱山位置の多くは神社配置規則の中に組み込まれている。神社配置は表面的に良く見える神社配置と、その裏に、巧みな神社配置によって鉱山位置も示す二面性を持っている。例えば、島根県の石見銀山大久保間歩の近傍にも神社群中心がある。
注;石見銀山にある神社群中心の位置は世界測地系で表すと(釜谷間歩に近い)
北緯 35度05分43秒8 東経132度26分33秒2
さらにここから1.75kmほど北側の寺院の位置も神社群中心である、その位置は
北緯 35度06分41秒17 東経132度26分30秒14
5.福岡県福岡市東区志賀島にある金印発光之碑から約50m南東の位置で現在は道路と海に挟まれた狭隘な場所に神社群中心がある。その位置を世界測地系で表示すると(下図の金印ポイントとして指している位置)
北緯 33度39分36秒44、 東経130度18分03秒08
掲示板に書いたように、このポイントは神社群中心であるだけでなく、周辺の古墳(下記の両帆立貝式古墳)と二等辺三角形を作るだけでなく、洞窟(水無鍾乳洞、御器伏)、メンヒル(蛤岳の蛤石)、山岳の山頂(御許山の大元神社奥宮、普賢岳山頂付近)などの位置にある神社群中心と驚嘆する精度で特異な幾何学的特徴を持つ。海岸に近い狭隘な場所であるが他に代わる場所がない特異的な位置であったことがわかる。
その一つが下図に示す帆立貝式古墳との距離関係である。日本全国の神社群が3千年以上前の古富士の位置を基準としていることは、神社の位置が決定されたのは縄文時代(そこに現在のような神社があったとする意味ではない)に決定されたものと考えられる。もちろん、金印ポイントも古富士の位置と珍しい幾何学的関係を持っている。古墳が金印ポイントの位置を意識して造られていることから見ると、もしかしたら、神社位置の配置規則はこの古墳がつくられた時期まではまだ伝承されていたのかも知れない。
図-2
★神社群の持つ基本法則
注;(地図の原点を金印ポイントとした表示)
金印ポイントから各古墳までの測地線長は下記です。金印ポイントと二つの古墳の作る二等辺三角形の辺の誤差は0.18%しかない。
小田茶臼塚古墳 (福岡県朝倉市小田、墳頂に神社) 45,292m
御塚・権現塚古墳 (福岡県久留米市大善寺町宮本) 45,212m
6.東日本にある石器時代住居跡と国から指定されている配石遺構のほとんどは神社群中心の位置にある。したがって、そこは住居跡ではなく古代の祭祀場か鉱山の位置を示す標識であったと断定できる。
例えば、水上石器時代住居跡(群馬県利根郡水上町大穴)にある二つの配石遺構の位置は、仮想神社群中心である稻荷穴(とうかな、群馬県吾妻郡中之条町)、風穴( 群馬県桐生市菱町1)の位置と強い幾何学的関係を持つだけでなく、現在でも自然金が採集されると言われている旧助川村にあった金山(現、茨城県日立市宮田町)の位置を指している。
7.神社群中心を互いに結ぶと正確な二等辺三角形パターンを形成する場合が多い。この規則から北海道と東北にある環状列石の位置の謎のほとんどを解くことができる。(下図はその一部を示す、これは古代人が方向だけでなく遠距離も正確に測定できた証拠である。)
参照;
礼文島神社群中心・朱円環状土籬・古富 士 に示す神社群中心知床稲荷神社と下図②のストーンサークル(神社群中心)を結ぶ線は、②の古富士線と直角を作る。
注;「地図の歴史」、東洋書林の26pにニップール(メソポタミアの宗教的中心地)から発見された粘土板に、「ギルガメッシュ(古代メソポタミア・ウルクの王、紀元前 2,600 頃とされている)のような神話上の英雄たちが訪れた七つの伝説の王国が入念に配置された二等辺三角形として書かれている。」 とあります。
図-3 北海道と東北にある縄文遺跡などが作る正確な二等辺三角形
頂点
底辺端点
測地線長(km)
誤差(m)
誤差(%)
①忍路環状列石
②ストーンサークル
321,663
-2,221
-0.69
③黒又山(山頂)
323,884
④キウス周堤墓群)
②ストーンサークル
269,455
269,5
0.37
⑤是川石器時代遺跡
268,449
⑥新下川廃坑
①忍路環状列石
185,906
-1,490
-0.8
⑦静川遺跡
187,397
③黒又山(山頂)
⑤是川石器時代遺跡
60,657
79
0.13
⑧湯舟沢環状列石
60,578
測地線長は地球を楕円体としたGRS80を用いた計算
注;縄文遺跡と廃坑跡を一緒に考えることを笑う人が多いに違いありません。しかし、この事実は新下川廃坑に限ったものではありません。このような例は全国にたくさんあります。もしかしたら、神社の位置は鉱山の位置を表す目的も持っていた可能性があります。続日本紀に書かれている秩父の和銅採掘跡にも神社群中心があります。「鉱山に新発見の場所はない・・・」とした山師の諺はその真実を伝えていたのです。
キウス周堤墓付近の神社群中心の位置は北緯42度52分56秒04、東経141度42分48秒.98、是川石器時代遺跡付近にある神社群中心の位置は北緯40度28分35秒16、東経141度29分27秒38、国土地理院の地図にある是川石器時代遺跡のマークから約235m北。(緯度、経度は世界測地系)
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★荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の位置はHSCPによって事前に予測できた。
荒神谷遺跡は、島根県出雲市斐川町神庭西谷で行われた、1984年~1985年の2ヵ年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土し、続いて1996年、道路工事中に島根県雲南市加茂町岩倉(現雲南市)で39口の銅鐸が発見されました。どちらの遺跡も驚く発見で大きな話題になりました。しかし、未だに謎を多く含み、その解明はなかなか進んでいないのが現状です。(2011.10.1から島根県簸川郡は島根県出雲市に変更)
ところが、この二つの遺跡の位置はHSCPによって事前に予測できたことがわかりました。この事実で、「HSCPが偶然の結果である」として、HSCPをこれまで認めようとしなかった人たちは狼狽し、今のところ何の反論も待ち合わせていません。この項は、そのような人達のお気持ちを考慮して、一気にその事実を書くことを遠慮しています。
しかし、この項を書き終わった時点で、誰でもその予測位置を地図上に描画できるだけでなく、未発見の同類遺跡を新たに予測できるようになることを確約いたします。(木次ポイントの例よりもはるかに進化した方法です)。また、突然に書くと驚くと思いますが、この事実は領土問題にも新たな認識を与えることになるはずです。
★神社と洞窟の関係
(ページの容量を減らす目的で別ページに移しました。1212.12.23)
★北海道の神社について
さて、これまで神社よりも洞窟が多く登場してきました。いよいよ、神社の登場です。それも北海道にある神社です。日本人の神社に関する知識は、実に多くの間違いがありながら、それをそのまま疑わずに信じていることがわかりました。北海道の神社となるとなおさらです。
試しに、北海道には神社はいくつあるか?と尋ねると、大抵の人は100社以下の数しかあげません。これだけでもとんでもない誤認です。こんな状態でありながら当人は北海道の神社については良くわかったつもりでいるので、とても困ってしまいます。実は、北海道の神社の数は国土地理院の地図に表示されているだけても二千社を超えているのです。
北海道の神社は明治の開拓時に原野を切り開き、その地に社殿を創建して本土から神社を勧請したことが始まりと常識的には考えられています。この認識が多くの誤解を生んでいるのではないでしょうか。文化功労者の谷川
健一氏ですら、日本の神々 12 で、「開拓時に木の根の位置を神社(根株神社)にした」ように書いています。例外的に、そのような神社があったことは否定しませんが、もし、そのようにして多くの神社位置が決まっていたとしたら、その位置が正確な配列規則を持つことなどはあり得ないことになります。
前置きが少し長くなってしまいましたが、エレキジャック サイエンス No.1の133ページ図-4に書いた①知床稲荷神社は、礼文島内にあるほとんどの神社間を直角の線で結んだ時に、その線の一端が一つの点に収斂するする神社群中心の位置にあります。いわば、礼文島の神社の総代のような神社です。ここで、①知床稲荷神社の位置について検討した結果を図-8に示します。礼文島の神社配置
図-8 知床稲荷神社と洞窟の関係
ここでも、下記のようにすばらしい精度の直角があります
①知床稲荷神社-②フゴッペ洞窟-③春採台地竪穴群
89.77度
①知床稲荷神社-④中頓別鍾乳洞-⑤苔の洞門
90.23度
計算の際、各ポイントの緯度・経度は電子国土の検索で表示された中心位置の値を使用
①知床稲荷神社(北海道釧路市)
②フゴッペ洞窟(北海道余市郡余市町)
③春採台地竪穴群(北海道釧路市)
④中頓別鐘乳洞(北海道枝幸郡中頓別町)
⑤苔の洞門(北海道千歳市)
ここで、各ポイントについての議論も必要ですが、これを書くとややこしくなるので、その議論は、とりあえず棚上げして話を進めて行きます。
図-8を見て一目瞭然に日本の最北端にある神社群も本土と同じように洞窟の位置を意識して配置されていることがわかったのではないかと考えています。現存している北海道の記録や、常識的な歴史観からはとても考えられない事実です。
専門家ほど、この事実を認めたくないお気持ちは良くわかります。しかし、このような配置が偶然では滅多に起きることがないことを数学的に数値で示すこともできるのです。権威者の説でもなく、捏造もできない真実で、誰でもそれを確かめることができます。
★縄文遺跡と神社位置の関係(一)
次は、さらに驚く事実を続いて書きます。縄文遺跡と神社の明確な幾何学的な相関関係です。エレキジャック サイエンス No.1の135ページ図-5は縄文遺跡の代表例であるストーンサークルと神社、さらに古富士との関係を示したものです。おそらく、専門家は眼もくれないか、鼻で笑ったに違いありません。しかし、次の事実を知ったら、おそらく顔色が変わるでしょう。
図-9はスト-ンサークルと洞窟の関係を示したものです。やはり、ここでもすばらしい精度の直角があります。しかも、諏訪大社本宮のときと同じように再びあの奇妙な景観を持つ桃洞滝 が登場してきます。桃洞滝の位置が重要視されていた証拠ではないかと考えています。
後に説明しますが、ストーンサークルの位置は北海道の神社の始まりではないかと思うような位置にあります。また、図-3に示したように、HSCPとは別の等距離の関係からも、ストーンサークルの位置はその基準点になっています。
注;ストーンサークルの位置を神社群中心として、HSCPとさらにもう二つの規則を入れて線引きをすると、北海道の神社のほとんどの位置をカバーできるだけでなく、東北の神社位置まで大きく左右していることまでわかります。しかし、ここで、神社の起源が北海道ではないかと早合点してはいけません。
ストーンサークルの位置は古富士を基本とした干字状バターンの中心端末でもあるのです。ここからは目視できない古富士の位置を参照しています。信じられないようなことですが、ここでも古富士の位置を基本としています。このような理由から、残念なことに、神社の発祥がどこにあるかについては、まだ決定的な証拠を持ち合わせていません。
注;2010年夏頃に、神社の発祥は最上位経王大菩薩(島根県出雲市十六島町252)ではないかとする考えが浮かんできました。この考えは2012年現在変わっていないどころか、確信にかわっています。この神社の位置は、出雲大社、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡などの位置を決める基準位置にもなっています。
先にあげた、二つの規則とは、HSCPの結線で、「①異常なほど遠方に伸びる線の端末は神社群中心になることが多い」「②HSCPで引いた、二本の線の端末が同一ポイントで一致する場合、その点が神社群中心になる。」の二つです、これは基本法則ではありませんが線引きの際にはとても重要です。)
⑥ストーンサークル-⑦不落の洞窟-⑧岩穴 90.76度
⑥ストーンサークル-⑨弁天洞窟-⑩桃洞滝 90.14度
⑥ストーンサークル(北海道斜里郡斜里町朱円西)
⑦不落の洞窟(北海道岩内郡岩内町)
⑧岩穴(岩手県宮古市和井内)
⑨弁天洞窟(北海道松前郡松前町)
⑩桃洞滝(秋田県北秋田市森吉 )
図-9の⑥ストーンサークルは朱円環状土籬とも呼ばれている縄文時代末期の墳墓遺跡(恐らく、この推定は間違いと考えています。背景にとても暗いものが隠されているのではないかと考えています)とされているものです。
注;ここでも、この遺跡の位置が図-9の⑦から⑩に示した洞窟の位置によって決められています。すなわち、図-8で示した神社群中心である知床稲荷神社と縄文遺跡であるストーンサークルの位置が全く同じ思想で決められていることになります。しかも、⑥のストーンサークルの位置は周辺の神社に対して見ると、HSCPの規則が成立し、礼文島にあった知床稲荷神社と同じように神社群中心の位置にあるだけでなく、知床稲荷神社からストーンサークルに引いた線は、後に説明する古富士線を中心とした、干字状パターンの上部左側の線に相当しているのです。
注;今のところ、東日本に見つかっているだけですが、縄文遺跡と神社、洞窟の幾何学的相関は、北海道だけでなく本土でも見ることができます。その代表例は、佐渡市小木金田新田123番の2にある長者ケ平遺跡 です、この遺跡の位置は本土にある神社群中心の干字状パターンの端末左下側にあたり、周辺の神社とHSCPが成立するだけでなく、本土にある複数の洞窟と直角のパターンを形成します。ここで、端末左上側は、佐渡市莚場813にある玉蔵寺ですが、現地で波豆総代と調査を行った結果、過去は神社であった証拠が見つかりました。
長者ケ平遺跡 の調査で団長として活躍された小林達雄國學院大學名誉教授もこの事実を知れば、発掘の経過に予想外なことがあった理由に思い当たるに違いありません。また、木柱列を持ち、年輪年代法でその造られた時期が紀元前約800年前と科学的に明確になっている真脇遺跡 (石川県鳳珠郡能登町)やチカモリ遺跡 (石川県金沢市)では、木柱列の中心位置が神社群中心であるたけでなく、洞窟との関係では諏訪大社本宮と同じように目を疑うような驚く結果が得られます。
小林先生のお言葉を借用すると、遺跡の位置は、第一の位置として、主に生活を場とした場所、第二の位置はHSCPで決められた場所で、主に祭祀を目的とした場所になります。これを区別して発掘すれば、発掘の能率も上がると考えています。なぜか、北海道の主要遺跡のほとんどは第二の位置にあります。これらは後に詳しく書く予定です。
生意気なことを言うようですが、谷川健一氏は北海道の神社を考える場合、重大なミスを犯しています。先に述べた同じ著書の中で、明治政府が「怪しい迷信に惑わされて小祠を信仰することを禁ずる」令を出し、その令を出した理由がわからないと書いています。言い換えると、開拓時の原野に、何らかの小祠がすでに存在していたことになるのです。
谷川健一氏はこの重大な事実を無視してしまったのです。当時、明治政府の禁令など、遠い北海道までは、まともに届かなかったか、仮に届いたとしても、そんなことは無視されたのです。逆に、小祠のあった場所を選んで、そこに新たな社殿を創建し、そこへ、本土から神社を勧請したに違いありません。その後、得体の知れない小祠は忘れられるか、意図的に隠され、社殿創建日や勧請した祭神と神社名だけが残ったのです。
注;
注;民族学者でもある谷川健一氏が、なぜ明治政府が禁令の対象とした小祠を無視されたのか、不思議でなりません。小祠の正体がわかると、万世一系に差し障りがあることを本能的にわかっていて、あえてその小祠を無視したのかも知れません。名著「青銅の神の足跡」を書かれた勢いをもってすれば、この小祠の謎を解いていたのではないか、と考えると残念でなりません。小屋根のついた小祠、祭神・天児屋根命、中東と日本にある縄掛突起のある屋根付き石棺、屋根付き小祠を巨大化し、それを倒したように見える石の宝殿などすべてが関係しているのではないでしょうか?
★大東諸島の神社配置の不思議
Hoshino
図-10 星野洞を神社群中心としたHSCPによる結線
これは北海道に限らず、離島にも言えることです。大東島や小笠原でも極めて正確にHSCPを満足している位置に神社が建てられています。図-10に大東島の例を示します。神社群中心が星野洞と呼ばれる鍾乳洞となった場合ですが、やはりここでも、すばらしい精度の直角があります。偶然にこのような精度で直角になる確率は数千分の一しかありません。 この神社も元を正せばを、北海道の神社と似たような経歴を持っているに違いありません。ただ、その時期が北海道に比べて古いために、社殿の創建日すら忘れられてしまっている神社も多いのです 。
①星野洞-②大東神社-③金比羅神社
89.88度
①星野洞-④秋葉神社-⑤大東宮
89.86度
①星野洞、②大東神社、③金比羅神社④秋葉神社は沖縄県島尻郡南大東村
⑤大東宮は沖縄県島尻郡北大東村
なお、星野洞の位置は図-10とは別に下記表のように来間島(沖縄宮古島)の来間不詳神社からも参照されています。掲示板 を参照願います。
玉泉洞-洞寺-来間不詳神社
90.52度
星野洞-沖大東島(不詳洞窟)-来間不詳神社
87.41度
注;残念ながら、南大東島史には、社殿創建についての記載はありますが、それ以前については何も書かれていません。
人が住むには無理と考えられる西之島(東京都小笠原村)旧島の位置が日本各地からHSCPで参照されているのです。ここから、石で造られた面が発見されています。 人が渡った記録の無い時期に、離島の位置を正確に把握していただけでなく、神社の起源に相当するものがあったり、何らかの祭祀まで行われていたりした証拠は神社の発祥に限らず、日本人とは何かを考える、重要な鍵を握っていると確信しています 。
本土の神社も元を正せば、北海道の神社と似たような経歴を持っているに違いありません。ただ、その時期が北海道に比べて古いために、社殿の創建日すら忘れられてしまっている神社も多いのです。
祭神も、創建日もわからなくなった神社は、適当な神社名と祭神を後に付けられ、東日本では坂上田村麻呂の伝承にあわせた創建日や、時代の新しい菅原道真(845-903年)を祭神にするなど、勝手な神社名と祭神が割り振られたのです。
「 勝手」と書きましたが、その多くを決めたのは地方の神主ではなく、京都の神官である吉田兼倶(よしだかねとも)やその末裔によって決められたのです 。その上、吉田兼倶等によって地方の神官は色々と規制を受け、例えば、世襲を強いられ、跡継ぎがいないために、それが不可能の場合は、わざわざ京都まで出向いてその許可を求める必要までありました。
注;
坂上田村麻呂(蝦夷討伐は801年とされている、804年に再び征夷大将軍に任命)は清水寺を創建した伝承があるくらいですから、寺院と対立していた神社を建てるわけはありません。東日本にある、大同年間(806年-810年)頃の神社創建日はほとんどが後にこじつけて創作されたものと考えています。神社の歴史はそんなに新しいものではありません。
注;
吉田兼倶(1435-1511) の時代には、すでに神社の配列規則の伝承は絶えていたようです。それどころか、延喜式が定められた時期(927年頃)でも神社配列の伝承はすでに失われていた様子です。延喜式内社と神社配列には、出雲大社や諏訪大社など特別な神社を除くと、ほとんど相関が認められません。
2011.9.26記、2011.9.30、2011.10.2、2011.10.5、2011.10.10、2010.10.15一部追加
★ストーンサークルの干字状パターン
次はストーンサークルの干字状パターンについて説明します。HSCPを認めようとしない人は、この干字状パターンを説明しようとしても、もうそれを聞く耳を持ちません。確かにHSCPですら古代人ができるわけがないと考えていれば、古代人が何百kmも離れた富士山の方向を知ることができるわけがないと考えるのは当たり前です。それよりも前に、室町時代にようやく和人が住んだと言われているこの地に、それよりもはるか昔に本土と共通のものがあったことは到底信じることができないことでしょう。
常識的に考えれは゛確かにその通りです。しかし、それは古代人の能力が現代人よりも劣っていたとする先入観からきているものと思っています。アンティキティラ島の機械 の例もあり、紀元前に作られたられたその機械に込められた技術は、現代の科学者を驚嘆させるもので、古代人の技術が極めて優れていたことを証明しています。
この例から封建社会では、科学技術が停滞するどころか、失われてしまうことを教えてくれました。干字状パターンの精度は、一般常識から考えると信じられない技術にみえますが、アンティキティラ島の機械 からみると、そんなに驚く精度ではありません。
アンティキティラ島の機械 を製造できるるような科学知識があれば、 世界中のどこまでも航海することができたと考えざるを得ません 。封建社会がそれらの技術を失ってしまっただけでなく、その伝承まで絶やしてしまったのでしょう。
注;アンティキティラ島の機械は航海に使う目的では作られていない様子です。
もう一つの大きな問題は、縄文時代の船泊遺跡 (礼文島)から出土したヒスイやタカラ貝のように、本土との交易を示すものもありますが、斜里町にある朱円環状土籬(国土地理院の地図上ではストーンサークル)は本土では全く見られないものです。その後の続縄文文化、擦文文化とオホーツク文化期どれを見ても、本土とは異なる歴史をたどったとされています。そこにある神社配置が本土や沖縄と同じであることは、絶対に認められないとした考えも良く理解できます。
北海道では、環状遺構の材料は石を使ったものと土を用いた土籬があります。その材料はその場所で入手しやすいものを使用したり。その規模もその周辺に住んでいた住民の人数に左右されているように見えます。本土の環状遺構を見ても、石川県のように半島の先端近くにあり、河川が未発達で河原石の入手が困難な場所では木柱を、青森県など河川の上流部では河原石を用いています。すなわち、材料や規模が異なっても、どちらも同じ思想で決められた第二の位置に環状遺構があります。これは現地人とは別の者がその位置を決めたと考えないと説明ができません。
これは、これまでまだ知られていない優れた技術を持った「まれ人」が介在したとすると 良く説明ができます。本土では、縄文時代に伊豆七島の神津島から大量の黒曜石が運ばれています。しかし、神津島から黒潮を遡って本土に到達できるような船は、縄文時代の遺跡からは未だに発見されていません。外洋を航海できるような構造船を作る技術がなかったのは明らかです。まして、南方から礼文島の船泊までタカラ貝を運ぶことなど到底不可能だったと考えます。しかし、この矛盾も、これまで知られていない「まれ人」の介在を考えると容易に説明することができます。
折口信夫が主張していながら、その実態が漠然としていた「まれ人(まれびと)」の存在です。折口信夫は、恩師の柳田国男に逆らって、 神は内からではなく、外から来たと主張を続けていました。上京して最初に同居した藤無染は中東や西欧の知識に詳しく、その薫陶を受けた折口は、他の学者とは異なる世界観を持っていたに違いありません。しかし、当時は万世一系に釘を差すような考えは危険思想とされていて 、具体的にそれを明確に表現できなかったものと考えています。
ここで、突然に飛躍した話になりますが、日本は黄金の国ジパングとも呼ばれたこともあるように、 原始の日本では自然金が大量に採集できたに違いありません 。 しかし、日本の縄文遺跡から金が全く発見されていません。 考古学者はなぜこれを不思議と考えないのでしょうか。どう見ても、縄文時代の金は誰かに厳しく管理されていて、それがどこかに持ち去られたとしか考えようがありません。先にも書いたように、 金山と配石遺構や神社の配置は明らかな幾何学的相関があるのです 。こちらも、後に証拠を上げて説明します。
注;昭和17年7月23日~8月5日に大湯環状列石を発掘したとき、現場から 金鉱石 も一緒に出土した記録があります。これは、 環状列石と金の関連を示す証拠でもあります 。 この金鉱石がどこの鉱山から産出したものかなど、分析した結果をお持ちの方はせひその詳細を教えてください。(参考 日本の環状列石 羽田正明著)
再び、前置きが長くなってしまいましたが、今度は、北海道と古富士の関係をストーンサークルを基準とした干字状パターンで説明します。その精度と思想には、やはり第三者の介在を考えないわけには行きません。
干字状パターンを書くには、
(南東方向156mのズレは経時的な地殻変動による) 。
①対象とする神社群中心A、(この場合はストーンサークル)から古富士ポイントに線を引く。この線を古富士線と呼ぶ。
②神社群中心Aの位置で古富線に直交する線を引き、その線上に乗る神社を見つける。ここでは一方が知床稲荷神社で、他方は勇留島にあるはず。
③各端点の位置が神社群中心であることをHSCPで確認する。
④神社群中心A側から古富士線に向かって線をたどり、その線上に神社がないかを調べる。ここでは岩手県下閉伊郡田野畑村島越にある神社に行き当たる。神社名が不詳なので島越不詳神社とする。
⑤④で行き当たった神社が神社群中心であるかをHSCPで確かめ、これを神社群中心Bとする。
⑥神社群中心Bの位置で古富士線に直交線を引き線上に乗る神社を見つける。一方は武甕槌神社(青森県西津軽郡深浦町広戸字家野上12)になる。他方は海域なのでありません。
⑦⑥で見つけた神社が神社群中心であることをHSCPで確かめる
⑧完成した干字状パターンの各端点や交点から洞窟に引いた線の直角方向の延長線上にさらに洞窟があるかを検証する。これが2例以上あることを確認する。
(注;図-11にある島越駅は今回の津波で駅舎まで流されてしまいました。)
2011.10.7.記 2011.10.10一部追加
HPの更新が大変遅れてしまい申し訳ございません。10月に入ってから新しい発見が相次いだ上に11月には再び鳥取、島根、広島、兵庫、12月は四国、一月早々には愛知県へと調査旅行に出かけるなど、とても忙しい日が続き、HPの更新をする暇がありませんでした。
さて、ストーンサークルの干字状パターンは理解していただけたでしょうか?
この干字状パターンのT字状部分を示したものがエレキジャック サイエンス No.1 135P 図5になります。
「古代人がそのような遠距離を測量できたことはとても信じることができない」と未だに考えている人も多いのではないかと危惧しています。しかし、常識をはるかに超えた驚愕する事実にもかかわらず、今のところ、誰も否定することができません。このHPを開設して皆様からご意見を求め、一年半以上経過していますが、未だに何の反論もありません。鼻で笑ってこのページを読もうともしない人が多くいることも良く知っています。そこで、HSCPに対して理論的な反論をいただいた方には礼金として500万円を差し上げることにしました。 ぜひ参加してください。もちろん、その反論は正しい理論的な裏付けが必要ですがどなたでも参加できます。(2012.2.13礼金を変更、2014.5.2礼金を10倍に変更)
反論をされる前に、例えば白皇神社(高知県宿毛市押ノ川)を神社群中心としたHSCPによる結線、さらに白皇神社から高手神社(高知県土佐清水市布)を経由して直角に伸ばした到達点の水神社(宮崎県延岡市愛宕山)を神社群中心とした結線を実際に書いてみることを希望します。(下記に、それぞれの神社位置を世界測地系で示しました)
注;後に書いた真脇遺跡を神社群中心とした結線がさらにHSCPの法則を理解できます。-->★縄文遺跡と神社位置の関係(三)
白皇神社 北緯 32度55分34秒08 東経 132度58分02秒31 高知県宿毛市押ノ川
高手神社 北緯 32度52分11秒98 東経 132度59分08秒55 高知県土佐清水市布
水神社 北緯 32度33分34秒63 東経 131度39分57秒39 宮崎県延岡市愛宕山
12月になってピギーバック配列と名前を付けた新しい神社の配列が見つかりました。この配列もHSCPの特異例であり、HSCPの理論は益々盤石になっています。驚いたことに、このピギーバック配列は先に説明した礼文島の知床稲荷神社とストーンサークル(朱円環状土籬、斜里町)でも成立することがわかりました。研究をはじめた頃はまだ何もわからず、試行錯誤の末に苦労してようやく求めていた神社群中心が、とても大きな意味を持っていたことが後になってわかってきました。
前記した白皇(しらおう)神社も比較的に線引きをしやすい神社群中心とした認識しか持っていませんでしたが、最上位経王大菩薩(出雲市十六町)と伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀)とピギーバック配列によって派生的に生じた神社群中心であることが最近になってわかりました。
白皇(しらおう)神社からは派生的に水神社(宮崎県延岡市愛宕山)の位置が定まり、さらに九州南部の神社群中心の位置が定まって行きます。九州の神社群中心の位置は水神社の位置だけでなく、金印ポイント(福岡市東区志賀島)、天満神社(愛媛県今治市玉川町桂、白皇神社もここから派生)などの位置から派生しますがそれらの神社の位置はすべて最上位経王大菩薩(出雲市十六町)を原点とするビギーバック配列に関係する位置にあります。
2012.1.12 記
「地図上で神社間に線を引いて意味のある線など引けるわけがない」。「そんな研究は何もならないのですぐに止めるべきだ」。「コンビニ間に線でも引いた方が面白いのではないか」など、これまで散々HSCPの研究を批判されてきました。残念なことに、未だにそのように考えている人は多いのです。
HSCPを鼻で笑っている人達はぜひここを読んでください。そのような人達はHSCPを地図で確かめるのも馬鹿らしいと考えているに違いありません。しかし、それは「月から戻ってきた宇宙飛行士に向かって月には兎がいるはずだ」と主張しているようなものです。
常識ではあっても、確かかどうかもはっきりしない話を頭から信じて意地を張っているよりも、ご自分で実際に線を引いて見てください。「日本は神社が多いので、どこに線を引いても必ずどこかの神社に行き当たるので、HSCPはその状況を勘違いしているのではないか?」などと早合点していることはありませんか?
確かに神社の密度が高い場所はそのように考えられる場所はありまが、そんなに多くはありません。それはご自分で実際に線を引いてみるとすぐにわかるはずです。先の白皇神社(高知県宿毛市押ノ川)の神社群中心はそれが良くわかる場所です。実際に線を引いて得られる直角はどれも直角定規ではその誤差を目視できないほど高い精度になっていて驚くはずです。
白皇神社から派生した神社群中心である水神社(宮崎県延岡市愛宕山)の周辺は神社の密度が低く、水神社からHSCPで周辺の神社に線引きした場合、神社間の距離はとても長くなります。しかし、その距離が長いにもかかわらず、すばらしい直角が得られることに驚嘆するに違いありません。s_list.pdf へのリンク
さらに驚くことがあります。水神社から出発し、野田神社(宮崎県延岡市野田町)を経由して直角で到達する神社は鬼丸神社(鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北)になります。鬼丸神社も神社群中心であり、この神社から出発して田代麓不詳神社(鹿児島県肝属郡錦江町田代麓)を経由して直角で到達する神社は矢筈嶽神社(別称八幡神社、鹿児島県熊毛郡屋久島町一湊)になります。矢筈嶽神社も図-1に示すように神社群中心です。
また、掲示板に伊弉諾神社の石碑について書きましたが、この記載に関してもピギーバック配列の発見によってさらに新しい知見を得ることができました。その一つは、伊弉諾神社の位置が、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の位置にもかかわることもわかってきました。さらに、記紀の国生み神話に登場する「幽宮」は、淡路島にある伊弉諾神社(兵庫県淡路市多賀740)を指していることがHSCPでも説明できることがわかってきました。
次に、内宮(皇大神宮)の旧位置がわかりました。これまで、内宮の位置はHSCPの法則が適用できない位置にあり、もしかしたら内宮は後世になってから創建されたのではないかとも考えていました。とろが、ピギーバック配列から、やはり古代からその付近に重要な神社があることがわかり、慎重に探索した結果、ついにその位置がわかりました。
その位置は世界測地系で
北緯 34度27分17秒1 東経 136度43分30秒5
の位置で現在の本殿の位置よりも西側にあったことがわかりました。(北側の芯柱から70m、南側芯柱から68m)
ちなみに、外宮(豊受大神宮)付近のHSCPによる収斂点は外宮の北側芯柱中心から真北15mの位置になります。
2012.2.13日記
全国の神社配置図を南から作成中です。ヒギーバック配列の発見によってその作業は順調に進んでいます。しかし、首都圏がどのようになっているか早く知りたいとのご希望が多くありました。
そのご希望に合わせ、ここで途中を飛ばして、首都圏の神社群中心を求め、その一部をリストにしました。
2012.4.25記
2012.5.2 神社群中心リスト更新
2012.5.14 神社群中心リスト更新。
2012.5.23 神社群中心リスト更新(石川県の神社群中心を追加)
石川県の神社群中心を追加しました。
★縄文遺跡と神社位置の関係(二)
能登半島にある神社群中心は縄文時代の遺跡である真脇遺跡(石川県鳳珠郡能登町)にある環状木柱列(ウッドサークル)の中心位置と、同じ縄文時代の遺跡である長者ヶ平遺跡(新潟県佐渡市)の位置で決まっています。
その位置は下の図に示すように古富士の位置を基準として配置されています。
真脇遺の環状木柱列 の中心位置も神社群中心の位置にあり、長者ヶ平遺跡の位置はその干字状パターンの一部になります。能登半島で最初に位置が決めらた神社はこの遺跡とHSCPの成立する神社群です。
長者ヶ平遺跡も神社群中心の位置にあり、周辺の神社とHSCPの法則を極めて正確に保つ位置にあります。先に、長者ヶ平遺跡の位置を第二の位置としたのはこの背景を知っていたからです。これが偶然と考えたり、古富士ポイントを疑問に思う人は、後に必ず後悔することになります。(更に驚くことがありますが、一挙にそれを書くことを遠慮しています。)
図-13 著名な2つの縄文遺跡の位置は古富士の位置と関係する
能登半島で古代最初に位置が決められたのは真脇遺跡の環状木柱列の位置です。次にこの位置と、長者ヶ平遺跡の位置から、大久保神社( 石川県珠洲市宝立町柏原)の位置が決められました。この位置は図-14に示すように真脇遺跡-大久保神社-長者ヶ平遺跡を結んだ線の内角が直角になる位置にあります(ヒギーバック配列)。
図-14 2つの縄文遺跡の位置から最初の神社(大久保神社)位置が定まる
大久保神社の周辺にある神社もHSCPが成立するように配置されています。次に知ることのできる神社群中心は、HSCPで引いた線が互いに交わる位置の(図-15では白山神社の位置で真脇遺跡から出た青色線が4本、大久保神社から出た赤色線が1本、計5本の線が交わる)白山神社(石川県珠洲市東山中町)が神社群中心になります。
注:これまでの経験ではこのように交わる線が2本以上あれば、その点が必ず神社群中心になります。
図-15 真脇遺跡から引いたHSCP線の交点から白山神社の神社群中心が見つかる
大久注;観音堂については能登漁火ユースホステル様 からの情報を利用させていただきました。
ここは現在日和山観音堂となっていて十一面観音があります。
同様にして、白山神社(石川県珠洲市東山中町)からもHSCPで線を引くと、その端末が大久保神社から引いた赤線と春日神社で一致します。
図-16はその実例で春日神社の神社中心が見つかった例です。
図-16 大久保神社と白山神社から引いたHSCP線の端末が春日神社で一致
以下同様にして周辺の神社群中心が次々と決まっていきます。神社群中心リスト でピンクの色で示した神社群中心はこの方法を継続して求めたものです。
まだ作業の途中で追加が予定されています。同様作業を続けると、神社群中心の求まる範囲は石川県を超え周辺の県にもどんどん広がって行きます。
注;このようにして求めた石川県にある神社群中心は、HSCPによる線の一部が必ず櫟原神社 (滑川神明、富山県滑川市神明町1177)に到達する奇妙な特徴があります。
ぜひ、ご自分でそれを確かめてください。古代人の優れた能力に驚嘆するはずです。(海を超える線は省略してもそれがわかります)。そして「日本は神社が多いから直角に線を引けば必ず神社に行き当たるのは当たり前だ」などと未だに言っている脳天気な人が滑稽に見えてくるはずです。
日本でも著名な歴史あるF古代史の会の幹部の多くがこのような簡単なことを全く理解できないか理解しようともしないのです。ちょうど、月から戻ってきた宇宙飛行士に向かって月には兎がいるはずだと主張しているようなものです。こんな人達が古代史の会を主催しているのです。ご自分で先の結線を試して見ると、それが良くわかります。必ず宇宙飛行士の気分になれるはずです。
2012.5.24 神社群中心リスト更新(石川県の一部神社群中心を追加)
★縄文遺跡と神社位置の関係(三)
図-13を見て偶然の出来事ではないかと本気で思った人は多いと思います。記紀の記載にすっかり毒されてしまったた方や、古代史とは「邪馬台国論争」であると勘違いしている方はこの不思議な事実を認めることができないと言うに決まっています。けれども、それは学問的に見ても、負け犬の遠吠えのようなものです。
「邪馬台国論争」は日本の長い歴史の中の一世紀にも満たない期間に関わる論争です。日本の歴史がこんなに短い期間で決まった訳ではありません。一度、この問題を棚に上げて、日本の真の歴史を考えてみましょう。神社の配置規則は文書のように捏造することはできません。この中に日本の古代史の真の姿が隠されていることは間違いありません。
図-17は縄文遺跡である真脇遺跡と神社の位置関係を示したものです。
その正確な値は
最上位経王大菩薩-田立建埋根命神社-伊弉諾神宮を結んだ内角は 89.90度
伊弉諾神宮-諏訪大社上社本宮-真脇遺跡(環状木柱列の中心)を結んだ内角は 89.83度
注;①から⑤までのポイントはすべて神社群中心となっていて、HSCPで引いた線の収斂点になっています。
となっていて、神様が決めたのではないかと思うほど正確な直角になっています。図-13とは全く別の視点から見たにもかかわらず、真脇遺跡の位置は私の主張通りになっています。古代、日本全国に渡って神社の位置を決めた優れた能力を持つ人達が実在していたことは間違いありません。
古代人が遠距離に渡って方向を精密に知ることができ、しかも日本中の神社が同一規則で配置されていることは疑いようがない事実です。にもかかわらず、三国志や記紀をどんなに研究しても、また遺跡の発掘をいくら続けても、このような事実を発見することはできないでしょう。
万世一系を推し進めた明治時代を経た後に、「邪馬台国は近畿だ、九州だ」などと狭い範囲で議論しているうちに日本の歴史の大局を見失ってしまったに違いありません。そのような経緯で出来上がってしまった、誤った歴史観からは想像もつかない現実がここにあります。
異論があるなら堂々と掲示板 議論をしましょう。明快な反論があった場合、ささやかですが、礼金も用意してあります。
注;このHPを開設して皆様からご意見を求め、一年半以上経過していますが、未だに何の反論もありません。鼻で笑ってこのページを読もうともしない人が多くいることも良く知っています。そこで、 HSCPに対して理論的な反論をいただいた方には礼金として500万円を差し上げることにしました。ぜひ参加してください。 もちろん、その反論は正しい理論的な裏付けが必要ですがどなたでも参加できます。(2012.2.13礼金を変更)
注;最上位経王大菩薩から伊弉諾神社に直角で到達する線は図-15に示す線以外にもあります。しかも、それらの線すべてにピギーバック配列が成立しています。その確率から、見てもそれが偶然ではないことを証明できます。
最上位経王大菩薩の位置は図-17の線で求めたのではありません。東北のアラハバキ神を祀る神社(八龍神社、宮城県伊具郡丸森町羽出庭)のある地名と同じ西日本の羽出庭にある神社群中心の大将軍神社(広島県三次市羽出庭)を検討しているときに、その干字状パターンから出雲大社の旧位置が求まりました。
その検討をしているときに、旧出雲大社よりも先に決まったと思われる神社群中心として発見したのが最上位経王大菩薩の位置です。図-17とは全く別の手法で求めたものです。
★神社の原点・最上位経王大菩薩
注;最上位経王大菩薩の位置を日本の神社の原点としていましが、佐渡の長者ヶ平遺跡がより上位の原点であることがわかり、最上位経王大菩薩を出雲地方における神社の原点とすることにしました。詳細は★神社のはじまり にあります。
図-17 最上位経王大菩薩から真脇遺跡までの経路とその角度
注;この図からwikipediaの記載伊弉諾神宮 に間違いがあることがわかります。
証拠のない歴史的事象では、権威者の意見など、そのようになるなことが多いと考えています。
今後、それがさらにはっきりとして行きます。そして、ますます、伊弉諾神宮の位置の特異
性に驚嘆せずにはいられなくなります。
同時に、日本の古代史の常識が小学生でも理解できる理由で崩れて行くことになります。
番号
ポイント名
住所
緯度・経度
(世界測地系
北緯
東経
①
最上位経王大菩薩
島根県出雲市十六島町252
352801.37
1324519.85
②
田立建埋根命神社
島根県邑智郡美郷町宮内338
345724.76
1323544.26
延喜式内社
③
伊弉諾神宮
兵庫県淡路市多賀740
342736.83
1345108.87
延喜式内社
④
諏訪大社上社本宮
長野県諏訪市中洲宮山1
355953.71
1380710.19
延喜式内社
⑤
真脇遺跡・環状木柱列 の中心
石川県鳳珠郡能登町真脇
371820.27
1371227.10
注;真脇遺跡に使われている木柱の伐採年代は年輪年代法により紀元前800年頃とされています。田立建埋根命神社は通称田立神社と呼ばれています。
①の最上位経王大菩薩 は十六島町(うっぷるいちょう)と呼ぶ奇妙な読みの町にあります。最上位経王大菩薩は写真-1にあるような外観の神社です。鳥居がなければただの物置小屋にしか見えません。しかし、HSCPで見ると、とても重要な位置にあります。
出雲市十六島町にある①の最上位経王大菩薩(島根県出雲市十六島町)はHSCPの結線から、私が日本の神社の原点であると主張する神社です。
まだこのHPでは説明をしていませんが、この神社の位置は青銅器が大量に発掘された、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の位置を決める重要な位置にあります。(出雲大社の旧位置も最上位経王大菩薩の位置を基準として定められています)
注;最上位経王大菩薩 の位置に許豆神社と表示した地図がありますがこれは間違いです。周辺には許豆神社がたくさんありますが、この神社は 過去にも許豆神社と呼ばれたことはないそうです 。注;最上位経王大菩薩 の位置に許豆神社と表示した地図がありますがこれは間違いです。周辺には許豆神社がたくさんありますが、この神社は 過去にも許豆神社と呼ばれたことはないそうです 。
図18 出雲大社と最上位経王大菩薩の位置
図-19 十六島町にある最上位経王大菩薩の位置
注;十六島町には出雲大社から海岸線沿えに十六島町へ通ずる道路がありますが、この道路は非常に危険です(23号線)。海岸線を通る道路は断崖絶壁を通り、落石もあり、しかも道幅も極端に狭く、車がすれ違うことは不可能です。不思議なことに、この道路は十六島町から来ると、出雲大社の境内に直接につながっています。人気のない山道を降りて来ると突然混雑した出雲大社の境内に到着して驚いてしまいました。十六島町への出入りは 275号線を利用したほうか安全で地域の人に迷惑をかけません。
写真-1 最上位経王大菩薩 写真-2 最上位経王大菩薩縁起
注;かつて、十六島町にある最上位経王大菩薩 の位置にあった神社は出雲大社が造られたときに廃社になったのではないでしょうか?
その時期は神話にある国譲りの時に相当するのかもしれません。
仏教が伝来した頃、過去の事情を知っている人がその近傍に妙本寺を建て、同時に廃社の位置に最上位経王大菩薩 を建てた?
妙本寺も度々火災に遭い、古い記録は全く残っていないとの事です。
現在の妙本寺 は最上位経王大菩薩のある岡の下にあり、普通の民家にしか見えない外観をしています。
最上位経王大菩薩の近傍には風力発電用の巨大な風車が回っていて、その対照がなんとも奇妙に見えます。
注;最上位経王大菩薩は妙本寺 に行き、その玄関先から鉄製の階段を登った上にあります。
2012.7.3 記
2012.6.3 神社群中心リスト更新(石川県の一部神社群中心を追加と白山神社の緯度・経度を訂正)
★図-17が出来過ぎと考えている方に、今度は海彦・山彦につながってきました。
図-20 海彦・山彦伝説のある白羽神社でも89.94度
図-20は伊弉諾神宮から 海彦・山彦伝説のある白羽神社 (静岡県御前崎市白羽3511 )を経由して諏訪大社本宮に線を引いて見ます。その時の内角は何と 89.94 度と完璧な直角になっています。まさに神業の精度です。もちろん、白羽神社の位置も周辺の神社とHSCPが成立し、偶然として決め付けられているレイラインの手法と全く違います。ここに登場する神社はすべて延喜式内社ですから、当然それよりも古い時代からその位置が決まっていたことになります。
ここで、創世神話にある伊弉諾神宮がHSCPで海彦・山彦伝説とつながってきました。これまでほとんど信用していなかった記紀の記載もまんざらでもないと思うようになってしまいます。
これも、古代人が精密に方向を知ることのできた決定的証拠と言えるでしょう。図-20や図-18のような方向精度は伊能忠敬も測ることができなかったのですから、これを信用できないと考えたい気持ちは良くわかりますが、これが紛れもない事実です。伊弉諾神宮から白羽神社までの距離は約154kmあります。こんな長い距離を!!と驚いてはいけません。まだまだ驚くことが続きます。
2010.6.8 記
★それでもやはり、神社と縄文遺跡は時代が違うと思う方へ。
邪那岐神宮と諏訪大社上社本宮の関係は曲りなりにも納得したにしても、「神社と縄文遺跡は時代が違うので、何としても納得できない」。常識的に考えれば、そのように考えるのは当たり前です。こんな事を書いた書物もどこにもありません。その予測すらした人はいなかったでしょう。
そんな訳もあり、図-18で真脇遺跡に伸びた線はやはり偶然ではないか?と考える人はまだ多いと思います。しかし、すでに、図-15でもその一部を示した通り、真脇遺跡は周辺の神社と正確なHSCPの関係を持っています。図-15にある諏訪大社上社本宮からの線がなくても、真脇遺跡と周辺の神社の位置は明確な関係を持っているのです。すでに、偶然の結果として知られているレイラインの手法とは全く異なっています。
さらに、別の方法でそれが確かなことを説明いたします。
ここで図-19を示します。
図-21式内社羽咋神社の位置も89.47度
図-20では伊弉諾神宮から諏訪大社上社本宮に引いた線が斜辺をとなる直角三角形を作るように白羽神社がありました。
これと同じ線がないかを調べると、諏訪大社上社本宮から真脇遺跡を引いた線が斜辺となる直角三角形を作るようにその屈曲点に式内社羽咋神社(はくいじんじゃ、石川県羽咋市川原町エ164)があります。これを図-21に示します。
その直角の角度も89.47度で極めて直角に近い値になっています。しかも、式内社羽咋神社神社もその名の通り、延喜式内社ですから図-18と同じ思想で神社が配置されていると考えられます。
しかし、ここで疑問があります。図-20の白羽神社は海彦・山彦伝説に関係し、国生み神話の頃に近い時期の話です。一方、式内社羽咋神社は垂仁天皇にゆかりのある神社で時代が違っています。
そこで、式内社羽咋神社の周辺を見ると約135m北東に少彦名神社があります。ここで、諏訪大社本宮-少彦名神社-真脇遺跡 の結線でできる内角は 89.54度
になり、先の式内社羽咋神社の場合よりも直角に近いことがわかりました。少彦名神社の祭神である少彦名命は国造りの時に大国主を助けたとされている神で、羽咋神社よりも時期が合います。しかし、少彦名神社は延喜式内社ではありません。
延喜式内社が定められたときは、すでにHSCPの伝承は絶えていたと考えられるので、延喜式内社を定めるときに本来の由来を知らず、間違えた可能性も否定できません。直角の精度から見ると、少彦名神社に軍配が上がるのです。元々、ここには少彦名神社に相当するものがあったところに、羽咋七塚・滝大塚古墳群ができ、少彦名神社は水大塚古墳の位置に、羽咋神社は大塚古墳の位置に分けて造られた可能性が高いと考えられます。
この件についてはまた後に書きたいと考えています。ここで、これまで書いたことをまとめると、図-22になります。
図-22 伊弉諾神宮-諏訪大社神社本宮-真脇遺跡の直角線に対するピギーバック配列
最上位経王図-22に示すように、伊弉諾神宮-諏訪大社神社本宮-真脇遺跡に引いた直角線の各線分を斜辺とするような神社配置列をピギーバック配列と呼ぶことにしました。
図-17に突然登場した最上位経王大菩薩は、これまで誰も注目したことのない神社です。恐らく、未だに信用していない人も多いのではないかと危惧しています。ここで、最上位経王大菩薩の位置も同じように検討してみます。もし、この位置も図-20と同じ思想で神社が配置されているとすると、理解が深まるのではないかと考えています。
果たしてその結果は?・・・・・
2012.6.10 記
それでは、次に図-17の左側、①最上位経王大菩薩-②田立建埋根命神社-③伊弉諾神宮に引いた直角線(図-23の青線)にも同じような幾何学特性があるかを調べて見ます。田立建埋根命神社は通称田立神社と呼ばれている神社です。
図-23 ①最上位経王大菩薩-②田立建埋根命神社-③伊弉諾神宮の直角線
その結果を図-23の赤線で示しました。ここでも図-22と同じようにピギーバック配列が成立しています。しかもそれが作る直角の精度も極めて高い精度になっています。ここで、それぞれのポイントの詳細は
番号
ポイント名
住所
北緯
東経
②
田立建埋根命神社 (たたちたけまりねのみことじんじゃ)
島根県邑智郡美郷町宮内338
345724.76
1323544.26
延喜式内社
④
山邊八代姫命神社
(やまべやしろひめのみことじんじゃ)
島根県大田市大代町新屋1703
350241.23
1322542.98
延喜式内社
⑤
周敷神社・藤原神社合殿
(しゅうしきじんじゃ・ふじわらじんじゃあいでん)
愛媛県西条市国安910
335436.16
1330428.92
延喜式内社
それで①の山邊八代姫命神社は延喜式神明帳の式内社・石見國迩摩郡 山邊八代姫命神社の論社となっていて、通称は山辺神社と呼ばれているようです。または式内社・伊豫國桑村郡 周敷神社に相当すると言われています。
現在は山邊八代姫命神社として島根県大田市久利町久利1499にある山邊八代姫命神社がありますが、この神社の位置は神社群中心に位置していることは確かですが、神社の配列から見ると意味付けの難しい位置にあります。
また、周敷神社の論社としては、保内八幡神社境内周敷神社( 愛媛県西条市円海寺172)、周敷神社(愛媛県西条市周布字本郷1532)などがあり、論争になっていましたが、それぞれの神社の位置が作る内角は前者が91.03度、後者は90.65度となり、図-23で示したように90.29度の周敷神社・藤原神社合殿(愛媛県西条市国安910)に軍配が上がることになります。
2012.6.27記
★図-23が偶然の結果とまだ考えている脳天気な方へ
①最上位経王大菩薩の位置に関する特異性をさらに示すために、図-24に①細上位経王大菩薩から佐受神社を経由して③伊弉諾神宮に到達する直角線(青線)とその線にピギーバック配列されて④大山神社と⑤の出雲神社が決められている状況を赤線示したものです。ここでもやはり「神様」が配置したのではないかと考えられるような高い精度の直角が存在します。
図-24 ①最上位経王大菩薩-②佐受神社-③伊弉諾神宮の直角線
番号
ポイント名
住所
北緯
東経
②
佐受神社(さずじんじゃ)
兵庫県美方郡香美町香住区米地417-2
353830.86
1344114.40
延喜式内社
④
大山神社
島根県隠岐郡西ノ島町美田174
360558.31
1330107.26
延喜式内社
⑤
出雲神社
京都府亀岡市本梅町井手西山6
350052.33
1352906.82
延喜式内社
もちろん、②佐受神社、④大山神社、⑥出雲神社それぞれの位置は神社群中心の位置にあり、周辺の神社の2つを結んだ線から出た直角線の収斂点になっています。くどいようですが、これらの位置は、偶然の結果とされているレイラインの手法による単純な点ではありません。統計的には桁違いに信頼度の高い位置になっているのです。
しかも、ここでも②佐受神社、④大山神社、⑤出雲神社はすべて延喜式内社とされている神社です。ここで、 京都にあって、場違いに見える「出雲神社」の名前も図-24から見ると出雲から出た線に強く関係しているので、それなりに納得できるのではないでしょうか。
最上位経王大菩と伊弉諾神宮との位置関係は非常に特異的で、ここでは省略しますがほかにも直角で結ばれる線があります。その中で、岩崎神社(広島県東広島市西条町上三永)を経由する直角線のピギーバック配列から得られる天満神社(愛媛県今治市玉川町桂)の位置は、四国で最大規模の神社群中心になります。
さらに最上位経王大菩の位置の特異性を別の観点から見てみます。図-25に示すように
最上位経王大菩薩-宇美神社-迩幣姫神社を結んだ線の内角は89.87度
となっていて、この角度も常識ではとても考えられない高い精度になっています。しかも、最上位経王大菩から伊弉諾神宮に引いた線は図-25に示すように宇美神社のほぼ真上を通っています。この事実は、最上位経王大菩から伊弉諾神宮までの距離は220km余もありますから、ここでも古代人が遠距離の方位を正確に知ることができたことを示しています。
このような 実例はここに限ったものではありません。日本全国いたるところにあります。そして、その事例は 神社群中心リスト更新の 中にも数字でたくさん表されています。しかし、常識にとらわれ過ぎて、新しく発見された事象に全く対応できないばかりか、拒否反応まで示すF会(東京にある古代史の会、この会のホームページには” 学問は「常識」を「疑ってみる」ことによって発展する )”と書かれていますが、会の幹部からはこのような考えを全く感ずることはできません、むしろ卑怯な方法でこのような考えを抹殺しているのです)この幹部のような傲慢で閉鎖的な人が未だにして居る現実を考慮して、まだ詳しい説明をしていないだけです。
図-25 最上位経王第菩薩-宇美神社-迩幣姫 姫神社の作る直角と伊弉諾神宮の方向
ポイント名
住所
北緯
東経
特徴
迩幣姫神社(にべひめじんじゃ)
島根県大田市三瓶町池田303
350733.24
1323544.89
式内・邇幣姫神社の論社
宇美神社(うみじんじゃ)
島根県出雲市平田町688-1
352612.64
1324907.30
延喜式内社
図-26最上位経王第菩薩-伊弉諾神宮を結んだ線は宇美神社の真上を通る
迩幣姫神社は浮布池(古くは浮沼池と呼ばれた)の南側湖畔に位置しています。ここには迩幣姫の悲恋伝説が残されています。これは箸墓古墳にまつわる話と似ているところがあります。
最上位経王大菩-宇美神社-迩幣姫神社(三瓶町)-伊邪那岐神宮の配置から見ると、もしかしたら、浮布池にある迩幣姫神社の位置が最上位経王大菩か、または伊弉諾神宮の位置を左右している可能性も考えられます。もしそうなら、三瓶町にある迩幣姫神社が真の延喜式内社となっていてもおかしくありません。
延喜式内社と比定されている迩幣姫神社神社は島根県大田市長久町土江1にあります。この位置も神社群中心となっていて、最上位経王大菩-迩幣姫神社(長久町)- 神野神社(延喜式内社、香川県丸亀市群家町八幡下2337)を結んだ内角が90.15度となっていて、何かを意味している可能性も否定できません。しかし、いまのところ、軍配は論社である迩幣姫神社 (三瓶町 )に上がるでしょう。
ちなみに、宇美神社は須佐之男の誕生地とする説もあります。また、
最上位経王大菩-迩幣姫神社(三瓶町)-総社宮( 岡山県岡山市中区祇園596)を結んだ内角は 89.48度
になっています。しかもこの位置は神社群中心の位置にあります。総社は古代の律令時代に分散していた神社をまとめた神社とされています。この総社宮は平安時代の初期頃に備前国の神社128社をまとめたとされています。ここからみても、この総社はそれ以前にあった、重要な神社の位置に新たに総社を建てたに違いありません。神社の創健とされる時期の意味は、全く新しくそこに神社を建てた時期ではなく、古くからあった神社の位置を流用して別の名前の神社を建てることがある実例と考えています。むしろ、明治神宮のように何もなかった場所に全く新しく神社を建てる例のほうが少ないと考えています。
ここで、最上位経王大菩が建てられている場所に関する位置の秘密の一部を納得していただいたと考えています。この位置の秘密はこれだけではありません。後に書くとお約束している「荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡 」では、さらに驚く結果が待っています 。
2012.7.3記
★古墳の位置と神社の位置の関係
これまで縄文遺跡と神社の関係を説明してきました。これまで説明したように、神社の多くは、縄文時代にその位置が決められたと考えることができます。しかし、律令の時代以降の記録からはその優れた技術の存在を見だすことはできません。 この事実は、縄文時代に存在したその優れた技術が縄文時代に絶えてしまって、伝承されなかったのでは?と考えた時もありました。
この予想に反して、その後の研究から、古墳の位置も神社と同じHSCPの配列規則を満足することが明らかになってきました。今のところ、その技術が古墳時代のいつ頃まで続いたかはまだ明らかにはなっていませんが、とりあえず発見した事実の一部をここに書くことにしました。
少し横道にそれますが、今年の6月18日の新聞に太宰府市の遺跡から7世紀末の戸籍木簡が出土したとする記事が多くの新聞に掲載されました。九州王朝説を唱える先生も早速現地に飛び、「自説」に自信を得られたようです。
しかし、ここでは大きな疑問が残ります。メモのような戸籍木簡が出たくらいでなぜそんなに騒ぐのでしょうか?。近畿では巨大な古墳がたくさんあります。その規模は世界一を誇る規模のものもあります。このような大規模のものを作るには、それ相応の組織と管理システム(政治を使った管理システムではなく信仰によるものか?)がなければできるものではありません。
この巨大古墳は宇宙人が作った物でもなく、九州から運んできたわけではありません。当然、多勢の作業者の管理も必要であったはずです。今回発見された戸籍木簡に相当するよりも、大規模な管理システムがその何世紀も前に近畿に存在したことは疑う余地がありません。巨大古墳がすでに実在しているので、そのシステムの物証があろうとなかろうとその考えが変わるわけがありません。その考えを全く無視して騒ぎ立て、九州王朝説にまでつなごうとする考えがわかりません。
こんなこともあり、近畿にある天皇陵と呼ばれている巨大古墳が縄文時代からあった神社配列規則を引き継ぎ、その優れた測量技術を使って巧妙に配置されていることを説明します。突然に、このような事を書いても大抵の人は眉に唾をつけるか、鼻で笑って読んでもくれないことを危惧しています。そこで、意図的に少し目立つ図面から先に書きます。(古墳のマークを大きくしているだけで、図面そのものは正確で間違いのないものです)
図-27 極めて正確な直線上に並ぶ天皇陵 (古墳名は国土地理院の地図に準じた)
> 図-27に示すように天皇陵は極めて高い精度で直線状に配置されていますが、この場合、直線上に一致する部分は古墳後円部頂上の位置になっています。ししかし、不思議なことに、ナガレ山古墳だけは別の位置になっていて、図-28の赤色十字線で示した位置がその線上にあります。
図-28 ナガレ山古墳
注;古墳が直線上に配置されれていることは加治木義博氏が13才のときに発見していたようです。しかし、この奇妙な事実はその後も注目されることはなかったようです。参考「誰が巨大古墳を造ったのか」加治木義博著
この奇妙な天皇陵の配置は一体何を物語っているのでしょう。このように遺跡が直線的に並ぶ現象では、その直線をレイライン と呼んでいます。wikipediaのレイライン には色々 と書かれていて、明確な結論は出していませんが、ランダムに配した点がなす直線 では、このような現象は確率から見ても偶然に起きることがあり得るとして、学問的には否定されています。図-27の場合も同じような考えで偶然とされ、誰も深く考えることがなかったに違いありません。
注;wikipediaのランダムに配した点がなす直線 の中にある「計算機シミュレーションによる検証 」の記載は非常ににいい加減で誤解されやすい表現になっています。また、「擬似乱数・・・」とした記載はプログラミングが全くわかっていないで書いているとしか考えられません。こんな問題は簡単に解決できるのです 。図-27の場合は線上からずれる値が小さいので、ここに記載されている説にはあてはまりません。
そこで、HSCPで検討して見ると、ナガレ山古墳の場合は赤色十字の位置、他の古墳は同一直線上にある後円頂上部分に仮想神社群中心(神社の存在しないHSCPで引いた線の収斂点)がありました。これは大変な驚きです。古墳だけてなく現在公園となっている大泉緑地にもその収斂点がありました。その位置は公園として円形に造作された部分の中心点で、
図-29で示した赤線の通る点になっています。盗掘されているかどうかは全くわかりませんが、この位置にも古墳があったと考えられます。
また、ただの山ではないかとの説のある武烈天皇陵の位置も神社群中心の条件を満足しているので、古墳であったことは間違いないと考えられます。
これまでの経験から、神社群中心から遠方に伸びる線は必ず神社群中心の位置に到着する規則があることがわかっています。これを考慮して線引したものが図-30です。
図-29 大泉緑地(赤線は古墳を結ぶ線)
崇神天皇陵から仁徳天皇陵を望んだ角度と崇神天皇陵から本宮神社を望んだ線の角度差は0.02゜
図-30 天皇陵を直線で結んだ線は、対馬の本宮神社に到着する
対馬には本宮神社(長崎県対馬市上対馬町鰐浦531、旧上対馬町鰐浦字在所陰531)の位置に代表的な神社群中心があります。ここに到着した線は92.25度で大地神社に到着します。大地神社に到着した線は90.75度の角度で伊弉諾神宮に到着します。この角度の直角からのずれは地殻変動による影響が主な原因と考えています。
(注;地殻変動の影響は、日本列島では南北の垂直方向のずれは非常に少なく、東西の水平方向のずれが無視できないほど大きくなります。この変動の様子は各地から引いた古富士線とその干字状パターンから知ることができます )
天皇陵から伸びた線の到着点である本宮神社の建っている鰐浦 には、日本では極めて局在した場所にしか自生していないヒトツバタゴ (檍、あはき)が自生していて、日本最大の自生地になっています。
記紀に下記記載のある小門の阿波岐原(檍原)はこの鰐浦である とした説があるようです。
竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原(古事記)、筑紫の日向の橘の小戸の檍原(日本 書紀)
注;ヒトツバタゴの自生地は九州本土や近畿にはありません。岐阜、愛知にはその自生地があって、その近傍にはどちらも神社群中心があります。住所名としては、宮崎県宮崎市にも阿波岐原町があり、ここにも、黄泉から帰還した伊邪那岐尊が禊を行った地であるとする説もあります。
ここで、崇神天皇陵から対馬の本宮神社まで、 580km余もあります。このような遠距離を古代人が方向を正確に知ることができるはずはないと考えたり、対馬の本宮神社は延喜式神名帳にも記載されていないだけでなく、これまで誰も注目したことのない神社です。対馬の神社間でHSCPによる結線をした人でもなければ、私が勝手に線引したのではないかと疑ったりする人も居ると考えます。
そこで、次に本宮神社の位置の特徴を説明いたします。
注;580kmの距離を驚いてはいけません。後に説明するように、本宮神社の位置は、小笠原の父島、母島にある神社の位置にも関係してきます。現在の常識的な歴史観が如何にいい加減であるかがここでも知ることができます。小笠原の神社も大東島の神社と同じように、人が渡った記録のある時期よりもはるか以前から神社に相当するものがあったことがわかります。
●本宮神社(祭神は神功皇后)と最上位経王大菩薩の関係
本宮神社が天皇稜の位置を決めるような大切な神社の位置なら、私が神社位置の原点と主張する最上位経王大菩薩大菩薩の位置と何かの関係があっても良いのではないか? とした疑問が生じます。
その疑問に答えるために図-31を用意いたしました。
図-31 ①最上位経王大菩薩-②香春神社-③本宮神社の位置関係
この図で青色の線で示したように
①最上位経王大菩薩-②香春神社-③本宮神社を結ぶ内角は89.2度となっています。
さらにこの直角を作る線に対して、ピンクの線で示したように
③本宮神社-⑤若御子神社-②香春神社を 結ぶ内角は89.81度
①最上位経王大菩薩-④高諸神社-②香春神社を結ぶ内角は89.17度
となってやはりすばらしい直角の精度でピギーバック配列が成立しています。また、①から⑤のポイントはすべて神社群中心の条件を満足しています。
番号
ポイント名
住所
北緯
東経
①
本宮神社
長崎県対馬市上対馬町鰐浦字在所陰531
344123.86
1292627.71
②
香春神社 (かわらじんじゃ)
福岡県田川郡香春町大字香春733
353830.86
1344114.40
延喜式内社
④
高諸神社 (たかもろじんじゃ)
広島県福山市駅家町上山守1183
360558.31
1330107.26
延喜式内社
⑤
若御子神社
長崎県対馬市厳原町下原
350052.33
1352906.82
ここで②香春神社、④高諸神社は延喜式内社で、特に 香春神社は豊前国の一宮と言われた時代もあり 、宇佐八幡宮と同格またはそれ以上に扱われたこともあったようです。香春神社がなぜそんなに格が高かったか謎とされていますが、 その秘密は、この神社と最上位経王大菩薩、本宮神社の位置関係にあったものと考えます 。その証拠に、本宮神社と伊弉諾神宮の位置関係をみると、香春神社に代わる位置に三大稲荷の一つである祐徳稲荷が登場してきます。
注;香春神社の由緒については歴史の陰に秦氏あり・・・ などに記載されています。(ここに書かれていることを肯定する意味ではありません)
また、⑤の若御子神社は延喜式内社に該当しないばかりか、神社庁にも登録されていない神社です。しかし、厳原(いづはら)町には論社を含めると式内社が16社もあり、もしかしたら式内社の比定が間違っているのかも知れません。後に説明しますが、⑤若御子神社の位置は古富士線もある完璧な神社群中心であり、古代は間違いなく重要なポイントであったと確信しています。
注;若御子神社の位置は下原簡易郵便 局北西190mにあり、佐須乃若御子神社( 対馬市厳原町下原401番地)とは別の神社です。
>●本宮神社(祭神は 神功皇后 ) と伊弉諾神宮の関係
常識的な歴史観しか持っていない人は図-31が偶然の結果か私の恣意的な結線によるもので、古代人が意図したものではないと未だに考えて居るに違いありません。ここまで来ると、確率論で図-31を論じても、もう信じてくれないどころか、さらに疑いを深めてしまう非科学的な考えをお持ちの人も多いのです。そこで、今度は本宮神社と伊弉諾神社の関係も同じように見てみます。
図-32で青色の線で示したように
①本宮神社-②祐徳稲荷-③伊弉諾神宮を結ぶ内角は88.21度
この角度における直角からのずれは地殻変動による影響によるものです。図31よりも水平方向の距離が長くなるので誤差も増えます。(地殻変動の影響は垂直方向に引いた線では影響が少なく、水平方向に引いた線では無視できない値になります。)
図-32 本宮神社-有徳稲荷-伊弉諾神宮の位置関係
また、ここでも、図-31と同じようにピギーバック配列になっています。もちろん、①から⑤の各ポイントはすべて神社群中心の位置にあります
①本宮神社-④琴平神社-②祐徳稲荷を 結ぶ内角は90.14度
③伊弉諾神宮-⑤下大野神社-②祐徳稲荷を結ぶ内角は88.80度
となっています。また、各ポイントの詳細を下記に示します。
番号
ポイント名
住所
北緯
東経
②
祐徳稲荷
佐賀県鹿島市大字古枝乙1855
330425.96
1300627.18
三大稲荷
④
琴平神社
長崎県西海市大島町百合岳7956
330225.59
1293635.50
百合岳山頂
⑤
下大野神社
熊本県八代市二見下大野町2411
322429.35
1303329.28
F2S(後記)
有徳稲荷 は日本三大稲荷の一つとされていて、九州では天満宮に次ぐ参拝者が訪れる神社です。この神社の由緒には、それなりの理由が書かれています、すでにわかっているように、神社の起源は、その神社の創建時期や勧請してきた時期よりもはるか以前にそこに神社に相当するものがあったことになります。この神社が古くから崇敬されてきた理由も元は伊弉諾神宮と本宮神社との位置関係によるものと考えています。
このように、本宮神社の位置は非常に特異的な位置にあることがわかっていただけたと思っています。近畿にある古墳の位置が対馬の神社の位置に関係しているとした驚く事実がここにありました。 しかし、まだまだ驚く事実があります。 本宮神社の位置から、その位置を決めていた人達が驚くほどダイナミックな地理観を持っていた証拠が見つかりました 。次回はそれを説明いたします。
と書きましたが、下大野神社について、何も説明を書かなかったことが気になっていました。 (琴平神社については後に説明をいたします。この位置は古富士ポイントと関係する驚く結果が待っています)。 下大野神社はこれまでのように延喜式内社でもなく、特別に注目されている神社でもなさそうです。そこで、Webで検索すると、
熊本県の観光サイト なごみ紀行 SEARCH観光情報検索
に
「 長野の諏訪大社の御祭神が現在の田浦町の井牟田海岸から山道を越えて当地 に到着した際 、当時の有志が出迎え、直会の儀を行ったと言われます。その儀式は今でも、氏子のご多幸と五穀豊穣を祈念する祭として継承されています。」
とした奇妙な記載がありました。長野の諏訪大社上社本宮から800km余も離れた場所に、なぜこのような儀式が継承されているのか疑問になりました。そこで、試みに長野の諏訪大社本宮から下大野神社に線を引いてみました。
これが図-33です。
図-33 諏訪大社上社本宮から下大野神社に引いた線は伊弉諾神宮のほぼ真上を通る
これは大変な驚きです。井牟田海岸は下大野神社から見て南西の方向にあり、方向が逆になっていますが、元は 「伊弉諾神宮と諏訪大社上社本宮が下大野神社から見て同一方向にある」 としたことに通ずる何らかの伝承が、長い期間の間に変化して継承されたのではないでしょうか?。図-33から連想できるように、古代の下大野神社は諏訪大社や伊弉諾神宮のように崇敬されていたものと考えます。これが忘れられてしまったのは、この地が、異なる考えを持つ者達に蹂躙され、その伝承を持っている人達の多くが失われた過去があるのかも知れません 。
(下大野神社神社に限らず、例えば対馬の本宮神社にも例が見られるように、他の地域と比較し、九州ではHSCPで見ると重要な位置にある神社が神社名もわからないような小社になっている例が多くあります。)
次回はさらに驚くことがあります。2012.7.26記
●本宮神社の古富士線と干字状パターン
古富士線については、これまで断片的な記載しかしていませんでした。常識的な歴史観にこだわる人は、この古富士線を認めようとしない人が多く、その詳細を書くタイミングを待っていました。
確かに、このような線が日本全国にあり、富士山を可視できない場所からもそのような線が引けることはとても不思議でもあり、これまでの常識では考えられないなことです。しかし、それは紛れもない事実であり、天皇陵を直線でつないだ線の終着点である本宮神社にもそれがあります。
注;任意の点から古富士ポイントまで例外なく線が引けるのは当たり前です。しかし、このような線は古富士線と呼びません。この線に干字状パターンが存在して初めて古富士線と呼ぶことにしています。 )
図-34は古富士線とその線に直交する線で造られる干字状パターンを示しました。ここでは干字状パターンの北側半分は海域になっているので省略されています。
(省略のない古富士線については卑弥呼の墓とも言われている倭迹迹日百襲媛命の墓で説明する予定です)
ここで驚くことは、図-34の①-②の線は図-32の①-④線と共通になっていることです 。琴平神社の位置は自然物である百合岳の頂上にあるので、本宮神社の位置は古富士ポイントと百合岳(長崎県西海市大島町百合岳7956 )の位置によって決まっていることになります。言い換えると、 天皇陵の位置は、古富士ポイントと百合岳の位置に左右されていることになります 。 図-32を見て、さらに言い換えれば、 古富士ポイントと百合岳の位置は有徳稲荷や香原神社の位置にも影響を与えている ことになります。
図-34 本宮神社の干字状パターン(北方向は海域でそのポイントが欠損)
番号
ポイント名
住所
北緯
東経
②
琴平神社
長崎県西海市大島町百合岳7956
330225.59
1293635.50
図-32④と共通
③
金毘羅神社
島根県浜田市熱田町493付近
345227.05
1320340.49
④
ハンドウ島ポイント
山口県柳井市
334644.40
1321017.90
ハンドウ島10mのピーク
注;①~④のポイントはすべて神社群中心の位置にあります。ハンドウ島は70m✕30mほどの楕円形をした小島で、平群島(へいぐんとう、山口県柳井市)沖合3km付近にある無人島です。国土地理院の地図で見る限り、この島に神社はありません。しかし、HSCPで見ると周辺の神社から引いた直角線の収斂点になっている仮想神社群中心になっています。この島には、ほぼ中心に海抜10mほどのピークがあり、この位置を角度の計算に使っています 。 しかし、線引きして求めた収斂点の分解能から見ると、収斂点がその島のどこにあるかは明確ではありません。 ハンドウの意味はわかりませんが、倭のしまのもの語り に水を入れる胴長の焼き物であると書かれています。新潟県の方言では石で作った水貯めを「ハンド」と呼びます。ご参考に田上町の方言 があります。
本宮神社から古富士ポイントまでの距離は測地線長で852kmもの距離があります
②琴平神社-①本宮神社-古富士ポイントまでの角度は 92.67度(地殻変動の影響を含む)
金毘羅神社の位置を用いて、古富士から②金毘羅神社までの地殻変動を取り除くと
②琴平神社-①本宮神社-金毘羅神社までの角度は 90.69度(地殻変動の影響は本宮神社-金毘羅神社間)となります。
また
④ハンドウ島ポイント-③金毘羅神社-古富士ポイントまでの角度は 92.06度(地殻変動の影響を含む)
金毘羅神社の位置を用いて、古富士から②金毘羅神社までの地殻変動の影響を取り除いた場合は
④ハンドウ島ポイント-③金毘羅神社-①本宮神社 として 90.69度になります。
図-35 ③金毘羅神社付近の拡大図 (地殻変動を含む誤差を示す)
干字状パターンの引き方は図-11ですでに説明しています。図-35に金毘羅神社付近の拡大図を示します。ここでは、古富士線により近い大元神社ではなく、金毘羅神社を選んでいる理由は、地殻変動の影響を考慮すると、真のポイントは古富士線の下側に来ることを経験的に知っているからです。
(かつて、私の主張 する地殻変動の方向が、GPSや超長基線電波干渉法 (VLBI)で測定した地殻変動の方向と合っていないとした指摘を受けたことがあります。その理由は、前記の機器による観測期間はせいぜい10年単位で短く、長期の地殻変動の様子と異なるからだと主張していました。その後、地殻変動は時間の経過に対して一様ではなく、尺取虫のような変動をしていることがわかってきました。大地震の起きる度に地殻は大きく変動し、その後に変動が収まる方向に動いている様子が東北地方太平洋沖地震でも観測されています。この地殻変動の長期間の平均値を神社の位置は語っていることになります。)
図-35に示すように、地殻変動などによるずれは200mです。金毘羅神社から古富士ポイントまでの測地線長は611kmもありますから、200mでは0.03%になります。これが、地殻変動も含む誤差ですから、地殻変動の影響を除くと更に少ない誤差になります。まさに神業の精度としか言いようがありません。
疑い深い人は、これを私が数多くある神社から金毘羅神社を恣意的に選んだ結果によるものと思う人がいるに違いありません。そこで、本宮神社の比較的近傍にある神社群中心の曽根崎神社(妙剱神社、長崎県対馬市上対馬町唐舟志381)で干字状パターンを見てみます。両者のパターンを見ればその疑念は払拭されるはずです。
2012.7.31 記
次は曽根崎神社(妙剱神社、長崎県対馬市上対馬町唐舟志381)にある神社群中心の古富士線 干字状パターンを見てみると図-36になります。
図-36 神社群中心曽根崎神社の干字状パターン
番号
ポイント名
住所
北緯
東経
①
曽根崎神社(妙剱神社)
長崎県対馬市上対馬町唐舟志381
343705.12
1292842.98
②
菅尾神社
鹿児島県鹿児島郡三島村黒島
305001.71
1295423.48
③
櫟田原神社 (いちいだはら)
島根県浜田市櫟田原町
344910.59
1320312.00
④
ハンドウ島ポイント
山口県柳井市
334644.40
1321017.90
図-34④と共通
注;①~④はすべて神社群中心の位置にあります。 図-32
曽根崎神社 から古富士ポイントまでの距離は測地線長で815kmもの距離があります
②菅尾神社-①曽根崎神社-古富士ポイントまでの角度は 92.56度(地殻変動の影響を含む)
櫟田原神社 の位置を用いて、古富士から②櫟田原神社 までの地殻変動を取り除くと
②菅尾神社 -①曽根崎神社 -櫟田原神社までの角度は 90.57度(地殻変動の影響は本宮神社-櫟田原神 社間)となります。また
④ハンドウ島ポイント-③櫟田原神社 -古富士ポイントまでの角度は 92.01度(地殻変動の影響を含む)
櫟田原神社 の位置を用いて、古富士から②櫟田原神社 までの地殻変動の影響を取り除いた場合は
④ハンドウ島ポイント-③櫟田原神社 -①曽根崎神社 として 90.74度になります。
図-37 ③櫟田原神社付近の拡大図
(地殻変動を含む誤差を示す)
図-37に示すように、地殻変動などによるずれは228mです。櫟田原神社 から古富士ポイントまでの測地線長は823kmもありますから、228mでは0.027%になります。これが、地殻変動も含む誤差ですから、地殻変動の影響を除くと更に少ない誤差になります。こちらも、まさに神業の精度としか言いようがありません。図-34と図-34の場合を比較すると、角度誤差も地殻変動の影響と思われる数値も良く似ています。対馬には他にも神社群中心がありますが、そのどこでも似た傾向を示します。
金毘羅神社と櫟田原神社付近を図-38に示します。この付近は比較的神社の分布密度が低い場所です。本宮神社、曽根崎神社二つの異なるポイントから古富士ポイントへ引いた線に直交する線が同一ポイントのハンドウ島ポイントで交わるだけでなく、各ポイントがすべて神社群中心の条件を満足するとした珍しい事象は、確率から見ても偶然に起きることは滅多にないことがわかっていただけると考えています。
図-38異なるポイントに引いた古富士線の直交線が同一のハンドウ島ポイントで交わっている
2012.8.6記
★下大野神社の干字状パターンについて
図-32、図-33で下大野神社について説明し、かつては下大野神社が伊弉諾神宮や諏訪大社本宮と同じように崇敬さ れていたに違いないのではないかと書きました。しかし、そのような予想は間違いではないかと疑問に思う人もいるに違いありません。まずその第一の理由は伊弉諾神宮の正面付近にある石碑の記載です。それを写真-3で示します。
写真-3 淡路島の伊弉諾神宮にある石碑
ここには、諏訪大社-伊弉諾神宮-高千穂神社、天岩戸神社を結んだ線が書かれていて、下大野神社の名前はどこにも見当たりません。残念なことに、この図の持つ幾何学的な精度は低く、これまでHSCPで見てきた古代人の測量精度からは外れていて、はたして古代人が意図していた通りの図であるかどうかは判定できません。この図を信ずるか、私の主張を信ずるかは皆様におまかせします。
注;写真-3にある石碑の説明は神道文化十八号に伊弉諾神宮宮司本名考至氏の寄稿とした「淡路島と国産み傳承雑考」にあります。また、伊弉諾神宮ではそれを抜粋した小刷誌を無料で配布しています。
第二の理由は、図-32にある、②祐徳稲荷、⑤下大野神社、④琴平神社の位置は単なる恣意的な作図の結果であって、古代人の意図したものではないのではないか? とする疑問です。ここでは、それらの疑問を晴らす目的で、下大野神社の干字状バターンを見てみます。この結果を見れば、それらの疑問が解消するはずです。
図-39 獅子島神社の干字状パターン(⑤下大野神社はそのクロス部分に位置する)
番号
ポイント名
住所
北緯
東経
①
若御子神社
長崎県対馬市厳原町下原
350052.33
1352906.82
図-31⑤と共通
②
獅子島神社
鹿児島県出水郡長島町獅子島3162
321734.41
1301415.03
③
天女ヶ倉(あまめかくら)神社
鹿児島県西之表市
304436.10
1310312.80
図-32②のF2TRと共通
④
本宮神社
長崎県対馬市上対馬町唐舟志381
343705.12
1292842.98
図-32、図-34①と共通
⑤
下大野神社
熊本県八代市二見下大野町2411
322429.35
1303329.28
⑥
熊野座神社
熊本県球磨郡球磨村
321808.59
1303632.78
石灰洞窟
⑦
清龍神社
鹿児島県湧水町中津川前平
320106.62
1304452.08
⑧
中沖 不詳神社
鹿児島県曽於郡大崎町菱田3146付近
312734.53
1310116.59
筒羽野村(日向国)
⑨
古富士ポイント
静岡県御殿場市
352100.84
1384425.36
注;①から⑨野市はすべて神社群中心。⑥、⑦、⑧は同一線上にあります、③の天女ヶ倉(あまめかくら)神社は種子島の最高峰(天女ヶ倉237.9m)にあります。
下大野神社の位置は、天皇陵を結んだ線の終着点である本宮神社の位置と伊弉諾神宮の位置に対するピギーバック配列から求めたもので、古富士の位置とは無関係にして求めたものです。したがって、古富士とは無関係の位置にあるはずの下大野神社の位置を利用して、その 古富士線の作る干字状パターンを見たところ、その端末に、①若獅子神社(最上位経王大菩薩と本宮神社とのピギーバック配列から求めた位置)、④の本宮神社が再び出現してきたのです 。これも大変驚く結果となりました。
全く別の次元から検討したにもかかわらず、再び同じ神社が登場してきました。このような事象は決して偶然に起きることはありません。また、神社群中心が古富士線を持つ例は特別ではなく、沖縄から北海道まで全国にわたって、共通した規則で多数出現してきます。
注;
あまりにも常識を超えた現象で、すぐには信じてもらえないと考えて、これまで説明を省いてきましたが 、神社群中心リスト更新 には同様な干字状パターン(F2に関係する端末の多くは省かれています)の実例がたくさん記載してあります。この表の記号を図-33に対応させると
記号
記号に対応する図-33の神社名
F1S
②獅子島神社 (干字状パターンT字状中心)
F2S
⑤下大野神社 (干字状パターンクロス部分)
F1TL
①若獅子神社 (干字状パターンT字状左端末)
F1TR
③天女ヶ倉神社 (干字状パターンT字右端末)
F2TL
④本宮神社 (干字状パターンクロス部左端末)
F2TR
⑧不詳神社 (干字状パターンクロス部右端末)
表の端末右、端末左は古富士に向かう左右の方向で決めています 。
図-39では①若御子神社から③ 天女ヶ倉神社、または①若獅子神社から ⑧不詳神社まで引いた線は無造作に引いたように見えるかも知れません。しかし、図-40、図-41に示すようにその精度はすばらしく、②の獅子島神社における誤差は130m、⑤下大野神社における誤差は82mしかありません。この誤差は
①若獅子神社 -③天女ヶ倉神社間 の距離約420kmに対して 0.03%
④本宮神社 -⑧不詳神社 間の距離約330kmに対して 0.025%
しかありません。この値も、地殻変動の影響を含んだ値ですから、アンティキティラ島の機械 から推測される精度には及ばないにしても、まさに、神業としかしか考えられないような方向精度になっていることがわかります。 注;この誤差の主な要因は古代人の方向精度からきているものではなく、ほとんどが地殻変動によることがわかっています。
ちなみに、 曲尺(差し金)の精度は500mmで0.5mmの狂い、言い換えれば0.1%以内の精度を持つようにJISで定めら れています。ここから見ても、古代人の遠距離に渡る方向精度のすばらしさには驚嘆せずにはいられないでしょう 。
図-40 ②獅子島神社付近
(誤差は地殻変動の影響を含んで0.03%)
図-41 ⑤下大野神社付近
(誤差は地殻変動の影響を含んで0.025%)
ここでも、常識にとらわれて、古代人の能力を過小評価する人は、離島の種子島にある③天女ヶ倉(あまめかくら)神社の位置などは、単なる恣意的な作図の結果にしか過ぎないと考えているかも知れません。しかし、 「天女ヶ倉神社の位置が図-32の②有徳稲荷のF2TR(F1Sは聖眞子大権現)と共通である。 」とした驚く事実を知れば、当然考えを変えざるを得なくなるはずです。 注;聖眞子大権現(しょうしんしだいごんげん、長崎県西海市西彼町亀浦郷 )
この事実を見て、未だに古富士線の存在を認めようとしない人達は何を考えるでしょうか? これでも、偶然の出来事であるとか、恣意的な作図の結果によるものと未だに考えている人が居るとしたら、よほど脳天気な人でしょう。
★ 海の正倉・院沖ノ島(福岡県宗像市)と天皇陵の終着点本宮神社(上対馬町)
脳天気な人の一人に、玄界灘に浮かぶ島である沖ノ島(福岡県宗像市)を特別に重視している人がいます。この島は縄文や弥生時代の豊富な遺物が出土していて、海の正倉院とも呼ばれています。
島は、全体が宗像大社の神領になっていて、厳しい上陸の制限があり、一般人が勝手に研究をすることもできません。しかし、島には沖津宮があり、地図さえあればHSCPで検討することが可能です。この検討結果を見て、ぜひこれまでの考えを変えてもらいたいと希望しています。
天皇陵や沖ノ島のように、立ち入りが制限されている場所を一般人が研究するには、HSCP以外に方法が無いことにぜひ気付いてもらいたいものです。そして、世界でも類のない巧妙な神社配列のすばらしさに感動しましょう。その時は、一般常識にとらわれ過ぎて、無益な強情を長いあいだ張っていたことを反省するに違いありません。
それでは、天皇陵を結んだ線の終着点である本宮神社から、玄界灘の孤島、沖ノ島にある沖津宮に線を引きます。次に、そこから直角に線を伸ばすと爾自神社(長崎県壱岐市郷ノ浦町有安触997、延喜式内社)に行き当たります。爾自神社(にじじんじゃ)の位置は、神社群中心として壱岐の中では代表的な存在となっていて、古富士線が存在します。この古富士線の干字状パターンを見れば、今度は古富士線の存在を認めざるを得ないはずです。
2012.8.20記
図-42 本宮神社から沖津宮を経由した爾自神社の到着点と古富士線
先に書いた線の角度を精密に計算して、図-42に示すと、①本宮神社を出た線は②沖津宮を経由して89.28度の直角で爾自神社に到着しています。 注;図-42の()内の角度は地殻変動の影響をすべて含んだ値。図-34の角度に準じた意味を持っています。
更に到着点の③爾自神社から古富士に線を引くと、この角度は87.25度の直角に近い値を示します。もしかしたらこの線は干字状バターンの一部かも知れません。そこで、③爾自神社から古富士ポイントの方向へ結んだ線をたどって行くと、線から約190m南側(山口県下関市一の宮本町1付近)に一の宮不詳神社があり、神社群中心の位置にあります。またその先、直角方向の神ノ島に市杵島神社があり、同様に神社群中心の位置になっています。
一方、①本宮神社-爾自神社の延長線上に神社があるかを見ます。この延長線上にはいくつか候補になる神社がありますが、図-39の場合の地殻変動変動を考慮すると、長崎県佐世保市新替町256に上宮神社行き当たります。この神社も神社群中心の位置にあります。
図-43 爾自神社の干字状パターン
番号
ポイント名
住所
北緯
東経
①
本宮神社
長崎県対馬市上対馬町唐舟志381
343705.12
1292842.98
対馬
②
沖津宮
福岡県宗像市大島沖ノ島
341430.14
1300615.38
沖ノ島
③
爾自(にじ)神社
長崎県壱岐市郷ノ浦町有安触997
334702.10
1293958.00
延喜式内社
④
上宮神社
長崎県佐世保市新替町256
330842.90
1294925.00
⑤
一の宮不詳神社
山口県下関市一の宮本町
340016.11
1305714.14
神社名不詳
⑥
市杵島神社
福岡県京都郡苅田町新浜町
334725.82
1310025.34
神ノ島(こうのしま)
⑦
古富士ポイント
静岡県御殿場市
352100.84
1384425.36
図-44 ⑤一の宮不詳神社付近の拡大図
この干字状パターンを図-43に示します。ここでも干字状パターンのF2TRに相当する部分の神社が島にあります。また、⑤不詳神社付近の拡大図を図-44に示します。この図は図-35、図-37と同じ傾向を示しています。なぜか、対馬に関係する干字状パターンでは、F2TRの位置が島にある例が多く、その線の長さが極端に短い特徴があります。また、F2TLに相当する神社は海域になっていてここでも省略されています。
また、③爾自神社-④上宮神社を結ぶ線にもピギーバックに相当する神社が八幡神社(長崎県平戸市飯良町855)と天満宮(福岡県糸島市二丈松末下松末)の2つがあり、④上宮神社の確かさを高めています。 この2つの神社を神社群中心としてHSCPで線を引くと、非常に広範囲で興味ある地域まで広がっていますがここでは省略します。
図-42からわかるように、 対馬にある爾自神社の位置は、本宮神社、沖津宮、古富士の位置によって決められている ことがわかっていただけたと思っています。いつまでも意地を張って古富士線を認めなかった脳天気な人も、これらのことからそれを認めない理由はどこにも無くなってしまったはずです。
2012.8.24記
★天皇陵を結んだ線の終着点から伸びた直交線が示す古代人の驚くべき地理観
図-45 天皇陵を結んだ線の終着点から伸びる直交線は父島からの直角線と一致
図-45のXMLファイルです
図-46 小笠原の母島と父島付近
注;国土地理院の地図では、小笠原諸島には上記⑥、⑦。⑧の3つの神社しかありません。
図-46のXMLファイルです
地図が表示されたら画面下部の「決定」をクリックすると小笠原付近が拡大されます。正確な角度を見るには画面上部の「計測と新原点で再計算」をクリックします。縮尺はマウスのホイールを回すと変えることができます。
今回は図面だけにしました。この図だけでも古代人の能力に驚嘆するはずです。しかも、母島にある月ヶ岡神社は神社群中心として干字状パターンを持ちます(海域は省略)、干字状パターンのクロスポイントに相当するS2は伊豆の河津町にある延喜式内社の奈疑知命神社と比定されている子安神社になります。
説明は次回になります。
2012.9.23 記
9月末に書いて以来、だいぶ間が開いてしまいました。少し違った内容の研究にどっぷりと漬かっていました。日本人のほとんどすべての人に関係するものです。いずれ、その成果も機会を見て発表したいと考えています。
9月の記載を読まれて、天皇陵と小笠原が関係している?こんな話はこれまで聞いたこともない!!。こんなとんでもないことを書いているサイトはトンデモ本と同じ内容に違いない、と考えた方も多かったと思います。
しかし、そんなことはありません、ここに書かれている結線や数値はすべて科学的に裏付けされたものしか取り上げていていません。歴史の権威者や先生方の書いた文学小説に近い内容のものや、それを真似た多くの歴史書とは全く違う内容になっています。
注;私が知っている限り、日本には歴史学博士や考古学博士は存在していません。関係した研究で学位を取るときは文学博士で学位を取っているのです。文学はその内容が真実であろうと、想像でしか無いものであったり、嘘をデッチあげあげたものであろうと関係なく、人々を感動させればそれで良いのです。
それで は、図-45に書いた天皇陵や小笠原から出発した線の到着点である、奄美群島付近のHSCPによる結線図をお見せします 。
図-47 奄美群島付近の神社群中心を示すHSCP結線図
注;手々不詳神社=豊穀神社
図-47は奄美群島付近のHSCPによる結線図です。奄美群島間だけでなく、対馬や五島列島などから東シナ海を超えて多くの線が到着しています。
図-48 阿室釜不詳神社付近(神社名やその詳細を求めています)
図-49 豊穀神社付近
先に、崇神天皇陵、ナガレ山古墳、武烈天皇陵、応神天皇陵、大泉緑地の中心を陵とする不詳天皇陵、仁徳天皇陵それぞれに存在する仮想神社郡中心を結んだ正確な直線が対馬鰐浦にある本宮神社に到達することを説明しました。
図-45で示すように、各天皇陵を結んだ延長線は対馬・鰐浦にある本宮神社に到着し、そこから直角(91.53度) に伸びた線は奄美大島の阿室釜(図-47鹿児島県大島郡瀬戸内町阿室釜)にある不詳神社に到達します。 (直角からの角度のずれは主に崇神天皇陵-本宮神社間の地殻変動によるものです。)
この神社は 図-47に示すように、神社群中心の位置にあります。以下この神社名のわかっていない不詳神社を阿室不詳神社と呼びます
一方、小笠原母島にある月が岡神社を出発した線が父島の小笠原神社を通り、そこから直角(93.28度)に伸びた線も阿室釜不詳神社に到着します。
小笠原群島には父島に二社、母島に一社と全部で三社の神社しかありません。図-1、図-3に示すように、母島の月が岡神社を出発した線は残りの神社である大神山神社から直角(92.93度)で徳之島にある神社群中心の豊穀神社 (鹿児島県大島郡徳之島町手々)に到達します。
ここでは、到着点はどちらも神社群中心となっています。(ここが、偶然の結果であると言われているレイラインの単なる点から点に線を引く手法と異なっていて、桁違いに信頼度の上がる手法となっています。)
また、図-45では古代に重要であったと思われる神社群中心の位置にある神社のほとんどが、現在は名前もない小社になっていて、これらの神社の位置が決められた時期の古さを物語っています。更に驚くことがあります。今回記載した線の重要な部分は、ピギーバック配列が成立したり、古富士線を持つ点があったりします。今のところ、その説明を省略しています。
それぞれの角度を再度整理すると、
⑧月が丘神社(小笠原母島)-⑥小笠原神社(小笠原父島)-④阿室釜不詳神社 93.28度
⑧月が丘神社(小笠原母島)-⑥大神山神社(小笠原父島)-④豊穀神社 93.93度
となります。どちらも直角から少しずれていますが、同じ傾向を示しています。
⑥小笠原神社(小笠原父島)-④阿室釜不詳神社間の測地線長は 1,279Km
⑥大神山神社(小笠原父島)-④豊穀神社 間の測地線長は 1,312 Km
もあります。しかも、この線は水平成分が多く、地殻変動の影響を受けやすい経路を通っています。地殻変動の影響を取り除くとさらに高い角度精度になることは間違いないでしょう。
小笠原群島は、東京から約千kmも離れた離島で、現在も父島へ行くには船便だけで、飛行機の便はありません。小笠原が日本へ復帰した直後に行った時は片道、46時間もかかりました。知られている歴史では、3千6百年前頃から、千2百年前頃に使用されたと考えている円筒形石斧が発掘されているので、この時代には人が住んでいたことは確かです。
円筒石斧はその由来が日本本土ではなく、ミクロネシアやフィリピンなどの南方地域とされている石器です。その後無人時代が千年ほど続いたために「無人」の意味のあるボーニンアイランドと呼ばれていたと言われています。
その後、難破した捕鯨船が漂着した形跡や、日本の捕鯨線が漂着した記録などがあります。1830年にはハワイから西欧人、ハワイ人、ポリネシア人など25名ほどが移り住み、再び有人の島になったことになっています。
注;後藤明 海から見た日本人
このような島でいつ神社の位置が定まったのか実に不思議です。図-10にも示したように、かつては無人島とされていた南大東島、北大東島にある神社やさらに離れた絶海の孤島にある無人島のラサ島(沖大東島)の洞窟位置も正確な神社配置規則の中にあります。
過去に人が渡った記録のない時期に、誰かがそこに渡り、現在の神社がある位置に何かの目印を置いたものが現在の神社になったことは間違いありません。また、この事実を巨大古墳を造った人達が知っていたことも確かです。この奇妙な事実も、日本民族の起源を語る重要な鍵を握っていると考えています。
本当かどうかが確かでもない、古代史の常識しか信じない方々は。ここから先は読まない方が良いかも知れません。特に古代史が専門の方は以後に書く事実を知ったらご自分の専門の中でとんでもない認識不足があったことを知り、驚愕するに違いありません。ふん生意気な、素人が何を馬鹿げたことを言っている!!小笠原と天皇陵が関係しているなどまさにトンデモ本の内容だ。などと思った人は次に書く、箸墓古墳の説明を読むうちに気絶するかも知れません。
2012.12.19 記
さてお待たせいたしました。いよいよ箸墓古墳 の謎に迫ることにします。この古墳は卑弥呼の墓の可能性が高いとして注目されている墓です。古墳の呼び名は色々あり、箸中山古墳、倭迹迹日百襲媛墓、倭迹迹日百襲媛命大市墓などとも呼ばれています。
なぜか、国土地理院の地図では2012年現在、この古墳名が消えて名無しの墓になっています。邪馬台国論争に持ち込まれないように、かつて倭姫墓または倭迹迹日百襲媛墓と書かれていたものを消したのかも知れません。ここでは、便宜的に短い名前の「箸墓古墳」とすることにします。
箸墓古墳についてはたくさんの書物にすでに書かれているので、それは割愛して、HSCPに関係することだけ書かせてもらいます。
HSCPで見ると、箸墓古墳の後円中心部が仮想神社群中心(神社はないがHSCPで結線するとその線が収斂する点)になっています。これは明らかに縄文時代からあった神社配列規則(当時、現在の神社に相当するものがあったかどうかはわからない)をそのまま引き継いでいることです。その証拠をHSCPによる結線でお見せしたいところですが、知識人と自認したり、されている人のほとんどは、この結線を嫌う人が多いので、はじめはなるべく線を少なくして説明をします。
図-50 箸墓古墳と古富士ポイントの方向
その前にnew様から掲示板 でご質問のありました古墳の傾きについて書かせていただきます。図-50を見ると、ご質問にありましたように、古墳はたしかに富士山を向いているように見えます。しかし、それは正確に言うと富士山頂上ではなく、古富士ポイント(約3,000年前富士山が大噴火する前の位置かも知れません) を向いていると考えています。その証拠はここで明らかにして行きます。
こんなことを書くと古代史の先生から 叱られそうですが、この件については絶対に間違いありません。かつて九州王朝説を主張される先生の著書で「日本書紀や古事記には富士山が全く登場してこない」ので、記紀は富士山を知らない九州王朝が書いたとする説を読んだことがあります。その真偽についてはわかりませんが、確かに記紀には富士山にかかわる記載は全くありません。しかし、古代人が北海道の北端、小笠原母島、九州からもその方向(古富士ポイント)がわかっていた確かな証拠があります。
次に、私が神社の原点とかねてから主張している最上位経王大菩薩(島根県出雲市十六島 町)との位置関係を見ます。もし、箸墓古墳が卑弥呼の墓のような大切な墓ならば何らかの関係があるかも知れません。
図-51 最上経王大菩薩-久武八幡神社-箸墓古墳の直角
驚くことに、箸墓古墳とほぼ同じ緯度にあって 神社群中心の条件を満足する 久武八幡神社(広島県東広島市福富町久芳5196)を通して、 箸墓古墳と最上位経王大菩薩の二つを結ぶと、ほぼ完全な直角(89.39度、地殻変動の影響を含んだ値)になっていることがわかります。しかし、 HSCPに懐疑的な人は、神社は多いので、その多い中から適当な神社を選んだだけで、そんなことは驚くに当たらないと言うでしょう。この後に、そんな考えを払拭する事実を書く予定です。その前に、すでに紹介しているピギーバック配列の実例をもう一度見なおしていただけるとさらに理解が深まると考えています。もちろん、図-51だけではなく、さらに驚く証拠も数多く用意してあります。
「古代人が見通しもきかない遠距離の方向を知ることがでるわけがない!!」。「神社間に線を引いて何がわかるか?、そんな暇があったらコンビニ間に線を引いたほうが面白い」、「縄文遺跡と神社が関係するなどとんでもない」、「学者が認めない珍説はトンデモ本に書かれている内容に等しい」などと言ってHSCPに目もくれなかった人も、いやおうなしでそれが暴言であったことに気がつくに違いありません。そして、 HSCPを利用しない限り、真の古代史がわからなかったり、日本をピンチに落とし入れている領土問題も解決できないことを知るでしょう。専門家も含む、ほとんどの日本人が常識と思っている誤った歴史観そのものがこの問題の解決を遅らせているのです。
2012.12.23記
ここで、 久武八幡神社と最上位経王大菩薩の付近を図-52と図-53に示します。ここで両者を比較すると 、 両者の神社の脇にはどちらもほぼ40mの同じ距離と位置に「妙養寺」と「妙本寺」があります 。しかも、そのどちらも岡山の最上稲荷 (最上稲荷山 「妙教寺」、岡山県岡山市北区高松稲荷712)の分神所となっています(現在のところ、岡山の最上稲荷と箸墓古墳の関係はまだ詳しく検討していません)。
妙養寺 の説明では、久武八幡神社 は十数件の氏子しかいないとのことです。先に説明した十六町の最上位経王大菩薩も驚くほど小規模です。先に説明した対馬・鰐浦にある本宮神社は、今後箸墓古墳に強くかかわってくる神社ですがやはり小規模で延喜式神名帳にも記載されていません。
「妙養寺」と「妙本寺」を建てた人は箸墓古墳の謎を知っていた可能性があります。写真-1の後で最上位経王大菩 に関わる「注」でも書いたように、「最上位経王大菩薩 」と「久武八幡神社 」は国譲りの頃、初代の出雲大社が建てられた後、意図的に廃社または規模の縮小があったのではないかと考えています。もしそうなら、現在最上稲荷の分身所となっている「妙養寺」と「妙本寺」は、最初は鎮魂の意味を持って建てられた寺院だったのかも知れません。
図-52 久武八幡神社の脇に最上稲荷妙養寺 がある
図-53 最上位経王大菩薩の脇に最上稲荷 妙本寺がある
注;岡山にある最上稲荷山妙教寺は神社群中心の位置にあるので、過去は神社であったはずです。その証拠に、この寺院には鳥居があります。このような寺院は「神仏習合」と言う言葉でお茶を濁していますが、古来神社であったものが、その後寺院に改宗した名残と考えています。日本各地で神社群中心の位置に寺院がある場合があり、このように鳥居などがあって過去が神社であった証拠を残している場合もありますが、大抵はその証拠もなく、縁起の中に何も書かれていない場合が多く、寺院の縁起は頼りにならないのです。
HSCPによって神社の位置が寺院の位置よりもはるかに古くから決まっていた事実が明らかになったので、例えば、義江彰夫氏の神仏習合についての考えが間違いであることがすぐに分かるはずです。たまたま、神宮寺に関わる資料が見つかったとしても、それが日本全体の歴史の流れを示すものであるとする証拠はどこにもありません。 神社の位置は勝手には決められなかったのです。神社の近くに寺院が建てられた例はたくさんありますが、HSCPの伝承が途絶えた後の寺院の位置は何の配列規則もなく、まさにランダムの位置にあります。このようなランダムに決まった寺院の位置に神社の位置が左右される例は非常に少なく、それを見つけることすら困難です。神宮寺はきわめて特別の例であり、神社がそのまま寺院に変わってしまった例は全国いたるところで見ることができます。この件については箸墓古墳の説明でさらに明確にします。
もう一つの注意点は、創建の時代が新しいからと言ってその神社の始まりもそこからだと考えることはほとんどが間違いです。その神社が建つ前に、その位置には、はるか昔から何らかの神社があったことをHSCPで知ることができます。そして、菅原道真を祭神とする神社、その他武士などの人名の付いた神社、坂上田村麻呂の事蹟に合わせた時期に創建を伝える神社などのほとんどはその前からあった神社の位置を借りて建てられ、新たな神社名と創健日が決められたのです。いつか大学の先生が「秋葉神社」は江戸時代に建てられた新しい神社であると言っていました。これは全く新しい何もなかった場所に新たに江戸時代に神社が創建されたと勘違いしているのです。大抵はその位置に何らかの神社がすでにあり、その神社の建屋や場所を借用したものです。
次は、諏訪大社上社本宮(長野県諏訪市)や古富士ポイントが驚く形で登場してきます。箸墓古墳の傾きもここではっきりとしてきます。これまで古富士ポイントを認めようとしなかった脳天気な人達は絶句するに違いありません 。
2012.12.27記
先に箸墓古墳の向きが古富士ポイントを向いているのではないかと説明しました。恐らく、常識的な歴史観から来る固定観念しかお持ちでない方々は、とても信用することはできないと言っていたに違いありません。 不明確な記録や、何の証拠もない権威者の意見はすぐに信じても、科学的に確かな根拠はなかなか信じてくれない脳天気な人がとても多いことを承知しているので、いくつかの例をあげてここで説明いたします。
◎箸墓古墳から古富士ポイントを参照していた証拠 1
図-54 箸墓古墳-久武八幡神社を結ぶ線のピギーバ゜ック配列にある金比羅社と諏訪大社の関係
図-54は図-51の箸墓古墳-久武八幡神社-最上位経王大菩薩の直角線で、箸墓古墳-久武八幡神社を結ぶ線のピギーバック配列として金刀比羅神社 を示したものです。また同時に箸墓古墳-古富士ポイントを結んだ線に対してピギーバック配列にある諏訪大社上社本宮の位置を同時に示したものです。
図を見れば一目瞭然に、久武八幡神社と金刀比羅神社の位置は箸墓古墳を原点として古富士ポイントと諏訪大社本宮の位置が点対称になっていることがわかります。このような配列が偶然にして起きることは滅多にないので、箸墓古墳の方向が古富士ポイントの方向を向いて造られている証拠になります。
注;金刀比羅神社 (島根県松江市東出雲町上意東畑719)は金刀比羅宮、出 雲金刀比羅宮とも呼ばれている神社で毛利元就が建立したとされていますが、神社群中心の位置にあることから、古代からそこには何らかの神社があり、諏訪大社並に崇敬された時期があった可能性があります。この神社も意図的にその歴史が抹殺された可能性を持っているのではないでしょうか。
証拠の列挙はまだ続きます。次回は古富士ポイントに関して更に驚くことがあります。能天気な人達が今度は観念するのではないかと考えています。
2013.1.10 記
図-54を見て、「フン!そんな図は意味がない、ピギーバックなどと聞きなれない言葉と極めて著名な諏訪大社上社本宮の名前を使って箸墓古墳がいかにも関係があるように見せているに過ぎない。大体、近畿に王朝があったとしても、それが信州や出雲にまで及んでいるなどとんでもない。しかも、図-54からは物置小屋のようなわけのわからない神社(最上位経王大菩薩)は脇に追いやられているではないか。図-54はその神社を正当化するトリックではないか」。
相変わらず、未だにピギーバック配列の重要性にも気づかず、いつまでも脳天気なままでいる人から、そんな声(科学的に正当なものを正当でないように言う詭弁)が聞こえたので、箸墓古墳が古富士ポイントを向いている決定的証拠を書く前に、もう一度その物置小屋のようにしか見えない最上位経王大菩薩を登場させることにしました。それが図-53です。
図-55 箸墓古墳から伸びた線の端末から直角(89.39゜と89.26゜)に伸ばした線の到達点
図-55から、一目瞭然に最上位経王大菩薩の位置が、能生白山神社 (延喜式内社・奴奈川神社)と同じ思想で配置されていることがわかります。HSCPで見る限り、誰が何と言おうと、最上位経王大菩薩は重要な位置にあるのです。 それはまだ書いていない「荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の位置はHSCPによって事前に予測できた」の項でさらに明確にする予定です。ここでも最上位経王大菩薩の位置が最も重要な鍵になります。
最上位経王大菩薩の位置にある神社が物置小屋のようになってしまったのは、伝承にある「度重なる火災」だけではなく、過去にこの神社の価値を下げるような大事件があったことを暗示しています。この時期を、国譲りの時期として、最初の出雲大社が建てられときと考えると合点がいくのではないでしょうか。
さらに付け加えると、久武八幡神社と最上位経王大菩薩の関係は完璧に一致する寺院との位置関係(図-52、図-53)だけでなく、もう一つの特異な特徴があります。それは、図-53に示すように久武八幡神社-最上位経王大菩薩間、古富士ポイント-能生白山神社間を結んだそれぞれの線上に王院山 (554.2m)、小黒姫 (御巣鷹山2,046m、黒姫山の中央火口)のピークがあり、しかもそのピークの位置はどちらも仮想神社群中心(神社のない、周辺の神社間に引いた直角線の収斂点)の条件を満足していることです。それぞれのピーク付近の詳細を示すと図-56、図-57になります。
図-56 王院山頂上付近
図-57 小黒姫頂上付近
図 -56、図-57のの右下にある青色バーの中にあるスケールは100mです。最上位経王大菩薩-久武八幡神社間は
約100km、古富士ポイント-能生白山神社までは約200kmあります。それにもかかわらず、二点間を結んだ線は、ほぼそのピークの真上を通っています。古代人はこのように遠い距離の方向を正確に知ることができ、二つのポイントを結んだ線が図-54や図-55に示すように、それぞれのピークがピッタリと一致するように神社を配置することができたことを示しています。 (垂直方向の線は地殻変動の影響を受けにくいことがすでに知られています。図のピークからのずれはその地殻変動の影響も含んだ結果を示しています)
注 :概算ではなく正確な距離では、最上位経王大菩薩-久武八幡神社間は102.36km 、古富士ポイント-能生白山神社までは205.88km となっていて、その比は2.01倍で2に極めて近い値になっています。古代人がこの比を意図して神社の位置を決めたのか、偶然の結果であるかは今のところわかりません。もしこれが意図した結果であるとすると、古代人は見通しの効かない遠方の距離を0.5%の精度で知ることができたことになります。
2013.1.14記
次は箸墓古墳の干字状パターンを図-58
に示します 。
図-58 箸墓古墳の干字状パターン (この結線が古代人が意図したものである決定的証拠が得られました)
番号
ポイント名
住所
北緯
東経
①
恵比寿神社
都府南丹市美山町長谷湯ヶ谷
353227.06
1354307.85
神社群中心
②
箸墓古墳(後円頂上)
奈良県桜井市箸中
343221.01
1355028.35
神社群中心
③
木本神社
三重県熊野市木本町95
395330.50
1360624.04
神社群中心
④
廣峰神社
福井県小浜市堅海
353227.07
1354307.88
神社群中心
⑤
箕曲神社
三重県名張市箕曲中村 821
343632.66
1360531.97
神社群中心
⑥
定神社
三重県大台町若山
341654.14
1361325.06
神社群中心
⑦
古富士ポイント
静岡県御殿場市
352100.84
1384425.36
神社群中心
長谷区史にある恵比寿神社。
注; ①恵比寿神社の情報は 民宿みやま 武田様からいただきました。
図-58で示した干字状パターンの端点にある神社は、どれもあまり知られていない神社ばかりです。特に①の恵比寿神社は神社名すらわからず 民宿みやま 武田様から教えてもらってようやくわかりました。卑弥呼の墓またはそれに相当する重要な墓であれば、その干字状パターンに関係する神社も著名な神社ではないかとする期待は完全に裏切られました。この理由は神社の名前が決められたとき、すでに干字状パターンの存在を知る人がいないか、あるいは意図的にその存在を掩蔽したことが考えられます。
干字状パターンの端点にある神社名をうまく説明ができないことは、「干字状パターンなど存在するはずはない」とする脳天気な人達を元気付ける理由になりそうです。しかし、事実は正直です、神社名ではすっかり裏切られましたが、HSCPで見ると、万人が驚く事実があったのです。この事実は、干字状パターンの実在をさらに確実とする決定打になるはずです。
どうやら、古代人が重要と思われるポイント間には、同じ規則で神社を配置したのではないかとするヒントが得られ、このヒントから長者ヶ平遺跡(佐渡)の干字状パターンも同様の神社配置であることがわかりました。ここから長者ヶ平遺跡が日本の神社の原点であることや、箸墓古墳と特異的な関係があることがわかってきたのです。
この説明の資料を作っている最中ですが、とても、とても手間のかかる作業が必要です。ようやく、基本的な作業が終わりました。それは、万人があっと驚くものになりました。そして、これまで誰も予想しなかったであろうし、私も予想していなかった長者ヶ平遺跡 が神社の原点であることを必ず納得するであろうと共に、干字状パターンの存在をいやおうなしに認めざるを得なくなるはずです。
2013.2.4 記
宮内庁が13日に歴史学系15の研究者団体に箸墓古墳とともに立ち入 り調査を許可したと発表した手白香皇女衾田陵(奈良県天理市、別名は 西殿塚古墳、国土地理院の地図の表記は衾田陵) について両者を比較する目的で急遽追加することにしました。この古墳は、宮内庁によって継体天皇の后である手白香皇女(たしらかのひめみこ)の陵墓とされ、衾田陵(ふすまだりょう) と呼ばれています。
しかし、この古墳はその形式や出土した土器から箸墓古墳と同時代に造られたとする説が有力とされています。HSCPで見てもこの古墳は箸墓古墳と非常に良く似ている部分があります。しかも、図-57に示すように干字状パターンの④が赤塚と呼ばれる倭姫(天智天皇皇后)の墓と伝承されている前方後円墳の後円頂部にあり、通称赤塚の明神と呼ばれている神社であることです。しかも、箸墓古墳と同じように干字状パターンの各端点は驚くほど似た幾何学特性をもつと共に、最上位経王大菩薩(出雲市)と異常と思えるほどの関係を持っています。
注;④の位置も後に示すように干字状バターンを持ちます。
図-59 衾田陵(西殿塚古墳) の干字状バターン
番号
ポイント名
住所
北緯
東経
①
鳴生神社
京都府舞鶴市成生38-6
353447.41
1352650.15
神社群中心
②
衾田陵(西殿塚古墳)
奈良県天理市中山町493
343407.50
1355104.15
神社群中心
③
芝神社
三重県熊野市大泊町245
335414.79
1360700.91
神社群中心
④
倭神社
滋賀県大津市滋賀里3
350249.32
1355132.99
式内社、神社群中心
⑤
新宮神社
奈良県宇陀市室生上笠間48
343655.63
1360136.90
神社群中心
⑥
相賀神社
三重県北牟婁郡紀北町海山区相賀868
340640.19
1361324.42
神社群中心
⑦
古富士ポイント
静岡県御殿場市
352100.84
1384425.36
神社群中心
注;④の倭神社は延喜式神名帳で「倭神社 近江国 滋賀郡鎮座」と比定されている神社です。
2013.2.14記
★ 衾田陵(ふすまだりょう)(西殿塚古墳)
順序が逆になりましたが箸墓古墳と同じように、衾田陵についても最上位経王大菩薩と諏訪大社上社本宮との関係を図に しました。
図-60 衾田陵(ふすまだりょう)(西殿塚古墳)と最上位経王大菩薩、諏訪大社の関係その1
まだ書いていませんが、図-58にビギーバック配列を適用すると、とてもとても驚く結果になります。
図-61 衾田陵(ふすまだりょう)(西殿塚古墳)と最上位経王大菩薩、諏訪大社の関係その2
円野神社 まどのじんじゃ、扁額は的野正八幡宮、宮崎県都城市山之口町富吉1412)は祭神を神功皇后、応神天皇、玉依姫命とする神社で古代文字?のあることで知られています。
話は変わりますが、衾田陵の向きはどこを向いているのでしょうか?この向きもHSCPで求めることが可能になります。その向きは鞍馬山(584m)の東方向約1.1kmにある525mのピーク(戸谷峰、二等三角点)を向いています 。突然にこのような話が出ると、また疑いを持つ人が多いと思っています。しかし、衾田陵からこのピークまで線を引き、ここから直角に線を延長すると古富士ポイントに到達することを知ったら驚くでしょう。これだけで驚いてはいけません、まだ話は続くのです。さらに納得できる証拠を後に示します。
同じ方法で箸墓古墳を調べるとその点は鞍馬山(584m、京都府京都市左京区)になります。それにもかかわらず、古墳の向きは古富士を向いているのです。これが、箸墓古墳と衾田陵の最も大きな違いになります。もしかしたら、箸墓古墳では、古墳の方向は古富士を向いていても、墓室の方向は鞍馬山を向いているのではないでしょうか。残念なことに、今回の公開は発掘を許可されたわけではないので、それを確かめることができません。
注;(箸墓古墳と鞍馬山の位置から福井県小浜にある龍谷寺の過去が神社であったとする意外な事実がわかります)
2013.2.18記
この項は書きかけです。後は続きになります。
事前公開 長者ヶ平遺跡を原点とした御蔵堂と天ノ逆鉾への到着図 ← 図面追加 2013.2.8
先のリンク先 長者ヶ平遺跡を原点とした御蔵堂と天ノ逆鉾への到着図 に
長者ヶ平遺跡の干字状パターンを追加いたします。2013.2.12
後は、続きになります。更に驚くことがまだまだ続きます。
★巨大古墳仁徳天皇陵の向きと氷室
回答 を書きました。この回答は九州王朝説に対して疑問を呈する回答となってしまいました。
2013.2.25記
ご質問にお答えする目的で長者ヶ平遺跡を原点とした御蔵堂と天ノ逆鉾への到着図 をアップロードしました。詳細説明はしばらくお待ちください。
2013.1.31記
長者ヶ平遺跡を原点とした御蔵堂と天ノ逆鉾への到着図 ←図面を追加 しました。
2013.2.8 記
★神社のはじまり 2013.3.30 に追加しました。
伊佐須美神社(福島県)社伝の謎に迫る
★長者ヶ平遺跡と諏訪大社上社本宮の関係
★天孫降臨の地とシュメールの関係? 2013.3.30 に追加しました。
★忠生遺跡は古代の祭祀場 NEW (香取神宮の位置を初めて解明)
を2013.4.28に追加しました。
さらに一宮との関係を追加しました。2013.5.15更新
★神社のはじまりその2 NEW 2103.6.19 更新
★一宮の位置からも説明ができる天孫降臨の地 2013.7.20更新 NEW
★山岳経由の直角線でさらに意味付けられた最上位経王大菩薩の位置 2013.7.31 更新
★神社配置が鉱山の位置を示している証拠 2013.9.18更新
★石の宝殿、益田岩船とウッドサークル・ストーンサークルとの驚く関係 2013.12.10更新
反論はいつでも受け付けます。HSCPに対する合理的な反論には500万円の礼金を用意しています。専門家、研究機関などの制限もございません。
メールでの連絡は下記メールアドレスにお願いいたします。
(スパム防止の目的で、メールアドレスはイメージ画像で表示されています。テキストコピーはできません。 )
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●電子国土のデザイン変更について
ここのところ、重要な発見が相次いで、そちらに時間を取られ、HPの更新がおろそかになってしまい、申し訳ございませんでした。久しぶりに電子国土を見て大変驚いてしまいました。電子国土はWeb.NEXTとなって公開されていますが、すっかりデザインが変わってしまい、とても使いにくくなっただけでなく、使用 するデータの形式まで変わってしまい、XMLファイルからKMLファイルに変更されました。さらにプラグイン版は何とか動作するにしても非プラグイン版は今のところうまく動作しません。
管理人は国土地理院の特別の計らいもあり、自分で使いやすいようにカスタマイズした専用のソフトを使っていますから、研究には支障がありませんが、ここで使っているXMLファイルを提供して、それを簡単に見てもらうことができなくなってしまいました。現在は従来どおりのプラグイン版 を使うことも可能ですが、25年秋頃には閉鎖される予定になっていました。
その後、幸いなことに、閉鎖は下記のように中止されました。
(2013年2月20日修正)
電子国土WebシステムAPIの後方互換性機能は正式サポートしないことといたしました。そのため、既にVer.2、Ver.3で構築されているサイトの背景地図が自動的に新仕様の背景地図に切り替わることはありません。
平成25年秋以降は、Ver.2、Ver.3の背景地図は更新を行いません。
なお、地図は更新されませんが、Ver.2、Ver.3のシステムは当面そのままお使いになれます。
参考;電子国土Webシステムの開発や運用の予定について
当面の間地理情報活用研究会 の提供するフリーソフトを改変し、そこで地図と結線図を提供する予定です。これまで、電子国土のプラグイン版は、使用できるOSやブラウザに制限がありましたが、その問題はかなり改善されると考えています。例えば、プラウザとしてSafariを使っているIpadでも表示が可能になるはずです。しかし、地図をスクロールして使用する場合、非インストール版は地図と上乗せ情報がずれてしまう問題が残っています。できたら、プラウザはIEを使用し、電子国土Webシステム(プラグイン版) Version 1.2.0 をインストールすることを推奨いたします。
ここで早速そのテストを行います。 テストファイル を用意いたしました。
画面に地図が表示されたら、上部ツールバー左から4番目のアイコン「計測と新原点で再計算」をクリックすると、地図の原点を画面中央にして再表示をします。画面に書いてあるように、二つの円と直線が同一点で交わればokです。ついでに、直線の角度が45度になっているかどうかもも確かめます。両者がokなら今後の説明でも支障がないことになります。近々に驚くファイルが提供できる予定になっています。
2012.9.18 記
メールでの連絡は下記メールアドレスにお願いいたします。
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----以下順次追加して行きます。------
このページよりも、掲示板の方が情報が早い場合もあります。
縄文遺跡と神社の関係については更に驚く決定的証拠があります。常識的な判断しかできない、脳天気な方をあまり驚かさないように、その証拠を小出しにしています 。 楽しみにしてお待ちください。
その後は東北の有名な縄文遺跡、大湯環状列石に移ります。大湯環状列石には万座と野中堂の2つがありますが、その両方がそれぞれ神社群中心になっています。
この神社群中心は、それぞれ典型的な古富士線を持ち、その干字状パターンから合計12個の神社群中心を作っています。さらに、その神社群中心から出た線がさらに派生的な神社群中心を形成し、東北の多くの神社の位置を決めています。
その次に、お約束の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の説明をする予定をしています。その間、随時神社群中心リストを更新して行きます。
注;このHPで使用した地図は国土地理院の電子国土から閲覧できる電子国土基本図を利用しています。また航空写真は同じ基本図のオルソ画像を利用させていただきました。角度、測地線長の計算は国土地理院の距離と方位角の計算 を利用させていただいています。
◎電子国土・プラグイン版をお使いになる 場合の注意
注意;2011年夏までに解消されるはずの電子国土・プラグイン版の不具合はまだ続いています。電子国土・プラグイン版で表示された直角の角度を定規で確認する場合、次の操作が必要です。(2012.1.15現在・プラグイン版の更新はしない予定になっているとのことです。)
1.画面下部にある、「□自動追尾」で□内の自動追尾を外します。また、「□再描画しない」では□内にチエックを入れます。
(このボタンは2012年4月の更新で廃止されてしまいました。)
2.下部、左端緑色枠「座標」をクリックします。
3.マウスで角度を計測しようとする屈曲点をクリックします。
4.ジャンプをクリックします。
5.画面右上にある「計測」をクリックします。
6.前の操作で表示された「距離・面積」のサブウインドウの「閉じる」をクリック、サブウインドウを閉じます。
(不具合が解消された場合は5.、6.の操作は不要になります。)
この操作にょつて、希望する屈曲点を原点とした地図を描画することができます。(地球上で原点に立って、二点間の方向を見た場合と同じ角度になります。地図を持っていなかったと思われる、古代人の見た値と同じになるのです。
一般的な地図は、球を平面に投影したことによって、必ず歪が起き、地図上で見る距離や角度は正しい値を示しません。歪みに関係なく、屈曲点の角度を正確に測るには、その点を原点とした地図が必要になります。
この問題に対する考慮を欠いて、単なる一般的な地図上で論じた諸説は信頼性が大きく欠けていることになります。
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