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★九州にあった巨大前方後円墳(卑弥呼の墓の可能性)

  掲示板のNo240からNo232の説明で、論争の続いていた天孫降臨の地が霧島峯(天ノ逆鉾)であるとして、この論争に終止符を打つことができました。これはHSCPによって得られた最大の快挙と考えています(
ネットに発表してから半年以上を経過していますが、未だに反論は皆無です)。続いて、古代史の最大の難関である卑弥呼の墓についての論争に終止符を打つべく検討をはじめました。卑弥呼の墓については、これまで多くの論争があり、現在もその争いが続います。

 その中でもっともらしい意見として、奈良県桜井市箸中にある古墳を卑弥呼の墓とする意見があります。この墓の呼び名は、国土地理院の地図では倭迹迹日百襲姫命の墓としていたときもありました。この古墳が宮内庁によって、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命・大市墓であると治定していることから付けられた呼び名です。しかし、この墓が卑弥呼の墓ではないかとする意見が強くなってきたので、争いを避けるためか現在は国土地理院の地図では無名になっています。ここでは便宜的に「箸墓古墳」と呼ぶことにしました。

 三国志によると、卑弥呼の死亡した時期は古墳時代の中頃、西暦の247年か248年とされています。古墳時代の始まりが三世紀後半の280年頃と考えられていたときは、卑弥呼の死亡時期はまだ古墳時代以前となるので、箸墓古墳が卑弥呼の墓とされることはありませんでした。

 しかし、周濠の改修工事の際に行った事前調査で、宮内庁の陵墓指定外にある周濠の底から引き上げられた土器に付着した炭化物の年代がC14年代測定法で240年から260年とされてから、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとする意見が強くなってきました(注1)。その後、C14年代測定法では測定誤差によって、古墳時代の中期と後期を正確に区別できない可能性があることや、陵墓指定範囲外である周濠の底から発見された土器がはたして箸墓古墳が作られた時期と一致しているとした証拠も確かではなく、箸墓古墳が卑弥呼の墓であると断定するには無理があるのが現状です。
(注1;古墳出現期の炭素14年代測定 春成秀爾(国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学名誉教授など)

 遺跡から出土した木材の年輪から、その木材の年代を測定する年代年輪法によってC14年代測定の誤差を補正する方法も試されていますが、箸墓古墳は宮内庁の管轄にあり、定期的な巡視等以外では何人も立ち入らせないという方針が貫かれていて古墳本体の中にある埋蔵物を採集することが不可能です。

 このような状況下で、福岡県赤村に巨大な前方後円墳があるとする記事が2018年3月20日の西日本新聞に掲載されました。その内容のすべてを次の項に書きました。もしこの記事にある謎の丘陵が前方後円墳であるとすると、邪馬台国が九州にあったことになり、箸墓古墳の年代を明らかにするまでもなく、邪馬台国畿内説は崩壊し、同時に箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとした説も否定されることになります。ここで、福岡県赤村にある丘陵は単なる自然丘陵か、それとも前方後円墳であるかをHSCPによって検討することにしました。
 

★西日本新聞2018/03/20付 西日本新聞朝刊の記事
 まず、その新聞記事の全文を以下に示します。

 「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル 福岡県赤村 福岡県赤村に巨大な前方後円墳-。

 
 写真A1 新聞に掲載された謎の丘陵の写真

 
  こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。
地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

 丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

  また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。=2018/03/20付 西日本新聞








★福岡県赤村にある謎の丘陵は前方後円墳か?
  さて、福岡県赤村にある謎の丘陵は果たして前方後円墳でしょうか?謎の丘陵(写真A2、全長450m)と箸墓古墳(写真A3、全長278m)を同一縮尺で示しました。形は少し異なっていますが、どちらも撥形をした典型的な古墳の形をしていて、
くびれ付近が部分的に膨らむ造り出しがない最古級の古墳に見られる形状をしています。このように並べて見ると謎の丘陵は誰が見ても古墳に見えます。しかも謎の丘陵の方がかなり大形になっています。先の新聞の記事には田川地域の文化財担当者は「自然の地形」として前方後円墳を否定していると書かれていますが、その理由は書かれていません。もしこの丘陵が古墳だとしたら、日本の古代史は根底から崩れることになるので、まさかそんなに大それたものが、自分の生まれた場所にあるなどとても考えられない、としていることが古墳であることを否定する第一の理由なのではないでしょうか?。

  この記事を書いた記者自身も最初から古墳ではないと考えているようです。それを記事にしたのは、おそらく新聞紙面に書く記事が不足していたので、それを埋める目的に書いた記事でしょう。新聞記者が「記事のないときは動物園に行け」と先輩から教わったと書いてある記事を見た記憶があります。おそらく、記者自身も動物園の記事と同じように考えてこの記事を書いたのでしょう。その証拠に、赤村の丘陵は古墳の可能性が高いと簡単な説明を書いて西日本新聞社にメールをしましたが、未だに何の反応もありません。書いた記者自身も信じていないことを読者が信ずるわけはありません。

   
 写真A2 福岡県赤村にある謎の丘陵(反時計10度回転)  写真A3 
箸墓古墳(反時計70度回転)

  ついでに、謎の丘陵の大きさを見ると、先の記事では 「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさと書いてありますが、これは少しオーバーな書き方です。謎の丘陵と大山(だいせん)古墳を比較する目的で大仙古墳の上に謎の丘陵を同一縮尺で載せて写真A4に示しました。大仙古墳は仁徳天皇陵とも呼ばれていた大阪府堺市堺区大仙町にある古墳で墳丘長525mもある日本最大の大きさの古墳です。このようにして比べるとやはり大仙古墳は大きいです。

 日本で二番目に大きい古墳は応神天皇陵とも言われていた誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大阪府羽曳野市誉田にある墳丘長425mの古墳で謎の丘陵はこの二番目の「誉田山古墳を超える」と書いた方が適切な表現になります。それにしても、これまで九州最大の古墳は石人山古墳で福岡県八女郡広川町にある全長107mの前方後円墳でした。もし謎の丘陵が前方後円墳とすると、その大きさは4倍近くになって、九州ではとんでもない大きさになり、この丘陵が古墳であることを疑う人が多いのは当然かも知れません。

 
 写真A4 大仙古墳と謎の丘陵
(大きい方が大仙古墳)

  三国志の魏書三十、東夷傅には「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步。狥葬者奴婢百餘人。」とあります。徑百餘步とは卑弥呼の墓の大きさでしょう。この大きさは魏代の「歩」を1.35m(長里の値、三国志は長里と短里の二つを時代に応じて使い分けているとする説を取った)とすると、径135m余となります。この値は謎の丘陵の円形部分の直径約150mとほぼ合致しています。これに対して、徑百餘步とは円墳を指すもので、前方後円墳であればこのような表現をしないとした意見もあります。しかし、中国には前方後円墳のような複雑な形状の墓は存在せず、円墳が当たり前の形状と認識されていたので、やむなくこのように表現にしたとも考えられないこともありません。何はともあれ、謎の丘陵は前方後円墳とすると、九州ではとてつもなく大きいことには変わりがないのです。むしろ、常識を超えた大きさそのものが古墳と認定する障害になっているのです。



注;写真 A2~A4はNTT情報空間
より



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★驚く位置にあった謎の丘陵


  その大きさゆえに古墳と考えられていない赤村の謎の丘陵は果たしてどのような位置にあるのでしょうか?この丘陵が前方後円墳であるとすると、その後円部分の中心位置を航空写真から求めて見ました。その位置は
北緯33度38墳21秒22  東経130度53墳30秒54
この位置を赤村後円中心と名付けます。①古富士ポイントから②赤村後円中心を経由すると直角線(補正内角)がぴったりと鵜戸神宮に到着します。はじめて線を引いた私も本当に驚きました。

 
 図A1 ①古富士ポイントから②赤村後円中心を経由した線は90.00度で③鵜戸新宮に到着
(図の角度は地図の歪で実際の角度を表していない)

 鵜戸神宮は宮崎県日南市にある神社で、かつては新婚旅行のメッカとして人気のあった神社です。写真A5のように日向灘に面した断崖の中腹にある海蝕洞の洞窟内に建てられた神社です。創立時期は不明で、日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと、神武天皇の父であり山幸彦の子)を主祭神としていて、他に

  大日孁貴(おおひるめのむち、天照大神)
  天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと、勾玉を譲り受けた天照の子)、
  彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと、邇邇芸命)
  彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと、火遠理命)
  神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと、神武天皇)

  と、どれも日本神話に登場する重要な祭神が祀られています。海山彦と豊玉姫との間にできた子供が鵜の羽で産屋の屋根を葺き終わらないうちに生まれたので、子供は鵜草葺不合命と名前を付けられたことになっています。

  そんなことから、鵜戸神宮は縁結びや子授け、安産などの御利益で人々の信仰を集めてきました。しかし、日本神話の中から卑弥呼につながる場面は見られず、鵜戸神宮の関係する神話から卑弥呼を連想することはできません(天照大神=卑弥呼とする説もある)。

  これまで、古富士ポイントと関係する神社は古富士ポイントとの間に干字状パターンを作ること度々説明してきました。もしかしたら、鵜戸神宮も干字状パターンの中にあることが予想されます。そこで、干字状パターンの中のT字状パターンがないかを調べて見ました。もし、T字状パターンがあるとしたら、図A1の③鵜戸神宮から②赤村後円中心に引いた線の延長線上にも神社群中心があるはずです。
しかし、その延長線上には神社がなく、その線は神社に行き当たらないまま玄界灘に行ってしまいます。これは例外的にT字状パターンがないのかとあきらめかけたとき、国土地理院の地図に記載されていない神社の正一位稲荷大明神が福岡県北九州市若松区百合野町3-1
にあることがわかりました。

 
 写真 A5鵜戸神宮
https://www.kankou-nichinan.jp/tourisms/209

  ここで、鵜戸神宮から正一位稲荷大明神に線を引くと、その線は赤村後円中心のほぼ真上を通ることがわかりました。この線を電子国土のタイルを利用した地図上で見ると、そのずれは7m以内とした僅かな距離です。

 
 写真 A6 正一位稲荷大明神(福岡県北九州市若松区百合野町3-1

  そうです、やはりT字状パターンは存在していたのです。しかもその後の確認で、④正一位稲荷大明神の建てられている位置は周囲の神社から引いた直角線の収斂点である神社群中心の特性を持っていることがわかりました。ここで、④正一位稲荷大明神の位置を入れてT字状バターンを書くと図A2となり、その直角精度はまるで神が決めたようなすばらしい直角精度になっています。このような直角精度は偶然で起きることは滅多になく、赤村の後円中心の位置は計画的になされたと考える以外にありません。赤村後円中心が自然にできた丘陵であるとすると、このような幾何学的に意味のある位置に偶然にあることはとても考えられません。この事実から、赤村の丘陵が計画的に位置の決められた前方後円墳であることを如実に証明していることになります。

 
 図A2  赤村後円中心を含むT字状パターン
(図の角度は地図の歪で実際の角度を表していない)





 
 図A3 T字状パターン線分②赤村後円中心-④正一位稲荷大明神のビギーバック点
(図の角度は地図の歪で実際の角度を表していない)

  図A2のような精度の直角精度は偶然では滅多に起きることがないにしても、決して当たらないような確率の宝くじでも誰かが当たるとした偶然を引き合いにして、やはり偶然ではないかと疑う人もいるでしょう。またT字状パターンの一方である③鵜戸神宮はよく知られた神社なのに、他方の④正一位稲荷大明神は国土地理院の地図にも載っていないような知られていない神社であるのはおかしいと疑う人もいる可能性があります。

 
ポイント名 住所 経度度・分・秒
緯度度・分・秒
10進緯度,経度
内角度
出発④ 正一位稲荷大明神 福岡県北九州市若松区百合野町3-1 335349.46 1304701.33 33.897071,130.783702 -
経由⑤ 貴船社 福岡県京都郡苅田町神田町2丁目15 334732.17 1305844.18 33.792269,130.978940 89.78
経由⑥ 浮殿神社 福岡県京都郡苅田町富久町1丁目19-2 334630.78 1305848.59 33.775217,130.980164 90.16
経由⑦ 白庭神社 福岡県京都郡苅田町与原(大字)753-2 334530.21 1305850.65 33.758391,130.980737 89.86
経由⑧ 貴船神社 福岡県行橋市行事5丁目8-1 334400.78 1305826.20
33.733550,130.973944 90.63
経由⑨ 正八幡宮 福岡県行橋市神田町8 334330.62 1305820.66 33.725171,130.972406 89.73
経由⑩ 五社神社 福岡県行橋市寺畔86 334224.06 1305748.16 33.706683,130.963377 89.40
経由⑪ 津積不詳神社 福岡県行橋市津積 334029.08 1305554.05 33.674745,130.931680 90.83
経由⑫ 飯嶽大神 福岡県京都郡みやこ町犀川大坂772 333915.75 1305403.44 33.654374,130.900955 90.08
経由⑬ 天降神社 福岡県飯塚市庄内元吉305 333948.50
1304344.50
33.663472,130.729028 90.40
経由⑭ 金比羅宮 福岡県鞍手郡小竹町新多 334143.70
1304121.60
33.695472,130.689334 89.37
経由⑮ 厳島神社 福岡県宮若市上大隈438 334311.02 1304023.96 33.719728,130.673323 89.12
経由⑯ 六嶽神社 福岡県鞍手郡鞍手町室木893 334522.85 1303950.36 33.756348,130.663989 89.56
経由⑰ 八剣神社? 福岡県鞍手郡鞍手町新延553付近 334701.73 1303957.15 33.783814,130.665876 90.17
経由⑱ 剣神社 福岡県鞍手郡鞍手町新延1998 334721.67 1303951.92 33.789353,130.664423 89.27
経由⑲ 八剣神社 福岡県中間市中底井野492 334913.62 1304039.61 33.820451,130.677670 90.33
経由⑳ 老良神社 福岡県遠賀郡遠賀町老良67 335002.12 1304112.21 33.833923,130.686725 90.85
経由㉑ 荒祭神社 福岡県遠賀郡水巻町伊左座5丁目83 335025.06 1304124.03 33.840296,130.690008 90.28
経由㉒ 菅原神社 福岡県北九州市八幡西区堀川町8-10 335143.54 1304238.92 33.862096,130.710811 60.26
経由㉓ 日吉神社 福岡県北九州市若松区東二島2丁目16-6 335321.42 1304522.44 33.889284,130.756232 89.28
到着② 赤村後円中心 福岡県赤村大字内田 333827.73 1305141.87 33.641035,130.861630 -
 図A4 T字状パターンの線分②-④のピギーバック点(図A3)の詳細

  そこで、線分②赤村後円中心-③正一位稲荷大明神に対してピギーバックが成立する神社があるかどうかを試して見ました。すると図A4に示すように、直角精度が±1度(1/100の確率で偶然に起きる精度)以内のものを選ぶと19本ものピギーバック線を引くことができました。これまで何度も書いたように、古代に重要な線分には必ずビギーバック点があり、その線分の外から両端を望む角度が直角になる点に神社が実在するとした規則があることです。ここでは19点ものピギーバック点があり、その点に神社が存在します、その中で⑥、⑦、⑫、⑰の4本の線の直角精度は±0.2度以内の極めて精度の高い直角線になっています。もし神社に規則性がないとすると、偶然にこのような精度の直角線が引ける大雑把な確率は1/500です、図A3の該当エリアにある神社の数は約300社です。ここで±0.2度以内の精度で4本、±1度の精度で19本ものピギーバック線を引けるのは神社が計画的に配列されている証拠になります。

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★赤村後円中心-鵜戸神宮のピギーバック線

  T字状パターンの上部、線分②赤村後円中心-④第一位稲荷大明神には合計19本のピギーバック線がありました。図A5は、T字状パターン下段の②赤村後円中心-③鵜戸神宮の線分には直角精度が±1度以内の線を選別すると134本ものピギーバック線が成立します。この選別作業は非常に手間のかかる作業で、選別が終わるまで猛烈な作業時間がかかりました。慎重に作業を行ったつもりですが、まだこれ以外に該当する線が残っている可能性もあります。
 
  ここで、0.2度以内の直角精度を持つ線の数は20本もあります。何度も書きますがこのような精度の直角線が偶然に起きる大雑把な確率は500回に一回です。
 
  この様子を図A6に示します、もし神社の分布が一般に言われているように、ランダムに分布しているとすると、決してこのようなことは起きません。言い換えれば、神社が計画的に配列されている証拠になります。前回の上段の線分と合わせ、赤村後円中心としたT字状パターンにこのような特異な現象が起きることは、赤村の丘陵がただの自然丘陵ではなく、計画的に円墳の位置を合わせた前方後円墳である可能性を示していることになります。

  苦労して作った大作ですが、②赤村後円中心-③鵜戸神宮の線分が持つ134本のビギーバック線を図示したものが図A5です。ここで、ビギーバック線のすべてをリストで示すと膨大な量になるので、0.2度の直角精度を持つピギーバック点を選別した結果を図A6に示します。

 図A5 134本の②赤村後円中心-③鵜戸神宮間のピギーバック線(±1度以内)その中の20本が±0.2度の精度を持つ


 
 
神社名 住所 緯度,経度(十進) 補正内角(度)
秋葉神社 大分県豊後高田市小畑333 33.62394,131.52735 90.09
六所神社 大分県豊後高田市夷1028 33.61818,131.55718 89.84
山神社 大分県国東市国東町成仏437 33.59256,131.63383 89.95
初八阪神社 大分県国東市国東町原918 33.56560,131.69711 90.17
大玉神社 鹿児島県霧島市福山町福山3587 31.65763,130.82442 89.99
熊野神社 鹿児島県薩摩川内市入来町副田6155 31.82408,130.43780 90.17
霧嶋神宮 鹿児島県薩摩川内市東郷町南瀬1929-イ 31.85807,130.38454 90.06
紫尾神社 鹿児島県薩摩川内市東郷町鳥丸2142 31.89346,130.33571 89.98
軍神社 鹿児島県薩摩川内市東郷町宍野1194 31.89530,130.32931 89.82
菅原神社 鹿児島県阿久根市波留1636 32.01668,130.20189 89.97
十五社 熊本県天草市久玉町 32.24304,130.05024 90.13
氷川神社 長崎県大村市田下町1554-2 32.95319,130.00490 90.16
春日大明神 佐賀県嬉野市嬉野町大字吉田乙 33.04065,130.03956 89.96
味島神社 佐賀県嬉野市塩田町大字谷所甲 33.10278,130.07060 89.89
五ノ宮神社 佐賀県鹿島市森1385 33.12425,130.08585 90.01
熊野新宮社 佐賀県杵島郡白石町辺田1300 33.16599,130.11310 89.99
図A6  ±0.2度以内(補正内角)の直角精度を持つピギーバック点

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2018.12.17記

★HSCPを用いない赤村後円の位置の検証
 
 これまで、赤村の丘陵が自然丘陵ではなく、前方後円墳であるとした証拠をHSCPで説明してきました。しかしいくら説明をしても、九州にある巨大な古墳をなかなか現実として捉える人が少ないのが現状です。特にHSCPはなじみのない人が多く、はったりで線を引くレイラインの手法と同じように考えて、なかなか本気で興味を引いてくれない人もいます。中には、HSCPやピギーバックなど訳のわからない言葉を使って大勢を煙に巻いているなどと悪口をたたいている人もいます。

  そこで、今度はHSCPを使用しないで、赤村後円中心の位置が、きわめて計画的に決められていたことを説明します。卑弥呼の没年には皆既日食があり、その翌年のも皆既日食があるとした極めて特異な天体現象があったことが知られています。天照大神が天之岩戸に隠れたのも日食を表しているとの説もあります。どうやら、日本の古代史には天文現象が密接に関係しているようです。とすると、常識を超えた大きさを持つ赤村の前方後円墳も、歴史的に重要な年度と何らかの天文現象が関係していることが考えられます。赤村の後円中心の東側には名前が不明ですが323mのPeakが見えます。このピークと赤村後円中心の位置を示したものが図A7です。

 
 図A7   赤村後円中心と323mPeakの地図上の位置

  このとき、赤村後円中心の位置は  北緯 33度38分21秒22 東経 130度53分30秒54
323mPeakの位置は 北緯 33度38分27秒26 東経 130度51分41秒75となっています。
323mPeakの住所は
 福岡県みやこ町犀川大坂で福岡県赤村大字内田との境界線の近傍にあります。

  ここで、赤村後円中心から323mpeakを見た方位角は出発点を赤村後円中心、到着点を323mPeakとして
国土地理院の「距離と方位角の計算」
https://vldb.gsi.go.jp/sokuchi/surveycalc/surveycalc/bl2stf.html
で計算すると下記の結果が得られます。

測地線長

2,809.706(m)

方位角

出発点到着点

273°48′21.45″

到着点出発点

93°47′21.19″

  この計算から、出発点である赤村後円中心から323mPeakを望んだ方位角は

273度48分21秒45(10進で273.806度)になります。

  ここで、試みとして赤村後円中心から見た日の出がどのように出るかステラナビゲータ10によってシミュレーションをしてみます。まず、直近の様子として今年の春分の日を見てみます。

 図A8   2018年3月21日(春分) 6時 47分18秒に赤村後円中心から見た日の出
(図の中にある赤点は真東の位置を示す「東」のマーク)

  驚くことに、赤村後円中心から見た323mピーク点付近から日の出が出ていることがわかります。このとき太陽を見た方位角は287.076度(十進で 287度04分33.6秒)と約13度323mPeakから北側にずれています。

  前回も書いたように、春分の日の出は太陽と地球の軌道の関係から、毎回同じ場所から出るはずです。しかし、他の惑星の影響や、地球の歳差運動などで、その位置は微妙に変化します。もしかしたら、古代にはちょうどピークの点から日の出が出ていた可能性が考えられます。そこで、いつ頃323mPeakから日の出が出るかを検討して見ることにしました。

  先にも書いたように、これだけ巨大な前方後円墳であれば、歴史的に重要なときに、ちょうど323mPaekから日の出が出るように後円の位置が設定されていた可能性が考えられます。丘陵の位置が計画的に設定された前方後円墳だとすれば、当然歴史上に良く知られた人物に関わる重要な年度であるに違いありません。ここで、まず思い当たる人物として卑弥呼が浮かびます。

  卑弥呼は良く知られた人物ですが、記紀はおろか、日本のあらゆる文献にも全く登場しない謎の人物です。しかし、中国の歴史書三国志の中にある魏書三十、東夷傅(魏志倭人伝とする書物は存在しない、三国志の当該部分を仮称したもの)、先のリンクを開き、「正始元年」で検索した付近に「247年、卑弥呼は、帯方郡に使者を派遣し、狗奴国の男王との交戦の状況を説明させる。」とあり、さらに「248年卑弥呼の墓として直径100歩余りの塚を作り、100人余りの奴隷を殉葬する。」とした内容が書かれています。このように、卑弥呼が死亡した日が直接書かれていないので、その没した年代が247年と248年の二つの解釈があります。しかし、後に説明する日食と天岩戸伝説の関連から247年に死亡したとする説の方が正しいように考えられます。

 そこで、赤村後円中心から見た247年の春分の日における日の出をシミュレーションした結果を図A9で示します。

 
 図A9 卑弥呼の没年247年3月21日(春分) 6時 50分43秒に赤村後円中心から見た日の出
方位角273.806度(323mPeakの真上、ズレ0度)、太陽高度5.424度

  図A9では323mPeakのほぼ真上から太陽が昇っていることがわかります。このときの太陽の方位は273.806度のときの様子です。この方位は先に、

「赤村後円中心から323mPeakを望んだ方位角は273度48分21秒45(10進で273.806度)になります。」と書いてあるように、十進で示した方位角と同じ値でその誤差は0度です。

  図A9では太陽の位置が少し北側にずれ、また太陽が山頂から離れているように見えますが、これはシミュレータに使用した地形図のデータが荒くて、323mPeakの位置を正確に表示できていないことが原因です。(精密な地形図による描写は図A14を参照)。とは言うものの、このときの太陽高度は5.424度です、この高度については問題が残りますが後に説明します。

 以上、シミュレータから得た結論は卑弥呼の没年である247年の春分の日、赤村後円中心から見た日の出は323mPeakの真上から日が昇るとした驚く事実を示すことになります。このようなことが偶然に起きることは滅多にありません。これは、赤村の丘陵が単なる山ではなく、計画的に後円中心の位置を決めた前方後円墳であることの決定的な証拠になります。しかも、日の出がぴったりと赤村後円中心から昇る年度が卑弥呼の没年と一致していることから、このこの前方後円墳が卑弥呼の墓である可能性を非常に高くするものです。

  疑い深い人達は、そんなに簡単に卑弥呼の謎が解けるとはとても考えられないと思うに違いありません。そこで卑弥呼の没年の前後の赤村後円から見た日の出がどのようになるかをシミュレータで見てみます。まず、卑弥呼の没年の翌年である248年の赤村後円中心から見た日の出をシミュレーションした結果が図A10です。

 
 図A10 248年3月21日(春分) 6時 48分41秒に赤村後円中心から見た日の出
(方位273.448度、Peakからのズレ -0.358度、太陽高度5.425度)

  図A9では太陽の高度が5.424度のときですが、図A10でもその高度が5.425の場合を示しています。本来はその高度は日の出が出たちょうどそのタイミングに太陽を見た角度が正確な値になります。

  現在は太陽の上端と地平線が重なった瞬間を日の出・日の入りと定義していますが、古代はそのタイミングを、太陽が頭を出した瞬間、太陽の中心が見えた瞬間、太陽全部が見えた瞬間など、どの瞬間を捉えたものかは全くわかっていません。

  太陽の半径は目で見た高度の角度で見ると16分(0.27度)ですから、どの瞬間を捉えるかによって0.27度の差が出ます。さらに、水平線の付近では大気の屈折でおよそ50分(0.83度)高く見えますが、大気の状態によってこの値も変化します。そこで、日の出の瞬間を太陽高度が5.424度になった瞬間を日の出と仮に定義して話を進めます。(太陽高度が図A9では5.424度、図A10では5.425、図A11では5.423)とわずか異なっていますが、この値は本来同じ5.424度に固定するべきですが、ステラナビゲータの時間設定の最小値が1秒で、そのステップでは高度の最小ステップの最小桁の値が2から3の飛々の値を取るために、このようなわずかの差が出ています。しかし、この差は話を進める上ではほとんど問題にならない値です。

 図A10では太陽高度を図A9の247年の場合と同じにすると、春分の日に太陽を赤村後円中心から見た方位が173.448度になることを示しています。ここで、図A10を見ただけでも図A9と比較して北側にずれていることがわかり、そのずれは0.358度になります。

 
 図A11 246年3月21日(春分) 6時50分21秒に赤村後円中心から見た日の出
(方位273.690度、Peakからのズレ -0.116度、太陽高度5.423度)

  図A11は卑弥呼の没年の前年246年春分の出で、これまでの太陽高度と同じ高さのときの状態を示したものです。見た目では卑弥呼の没年である図A9との違いはあまりはっきりしませんが、その方位は273.690度でその差は0.116度北側にずれています。
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★極めて特異な卑弥呼の没年の247年

  先の図A11で246年の日の出の方位が0.116度しかずれていないことで、大した違いはないと考える人や、図A6で日の出の太陽高度をちょうど赤村後円中心から323mPeakを望んだ方位角と一致するように選んだことに疑問を感じる人も多いと考えます。それは、これまで書いたことを良く理解すればするほどその可能性が高まることを危惧しています。ここで、卑弥呼の没年である日の出の方位角が極めて特異であることを説明し、その疑問を解消したいと考えています。
 先に、卑弥呼没年の前後一年の日の出の様子を説明しましたが、これをもっと長い期間について説明します。図A6は赤村後円中心から見た春分の日の年度別方位角です。このときの太陽の高度を323mPeakの真上に来る5.424度(先に説明した理由で±0.001度のばらつきがある)に設定してシミュレーションをした結果です。また、ここで図A12の値をグラフにしたものが図A13です。

年度   方位(度) 高度(度) 春分
227   273.404 5.423 3月22日
228   273.520 5.424 3月21日
229   273.634 5.424 3月21日
230   273.747 5.423 3月21日
231   273.863 5.423 3月22日
232   273.504 5.422 3月21日
233   273.623 5.423 3月21日
234   273.736 5.423 3月21日
235   273.848 5.423 3月21日
236   273.492 5.423 3月21日
237   273.606 5.425 3月21日
238   273.719 5.423 3月21日
239   273.835 5.425 3月21日
240   273.474 5.423 3月21日
241   273.591 5.424 3月21日
242   273.705 5.425 3月21日
243   273.819 5.425 3月21日
244   273.463 5.423 3月21日
245   273.578 5.424 3月21日
246   273.690 5.423 3月21日
247 卑弥呼の没年  273.806 5.424 3月21日
 
     
年度   方位(度) 高度(度) 春分
248 臺與の即位年  273.448 5.425 3月21日
249   273.563 5.424 3月21日
250   273.676 5.423 3月21日
251   273.789 5.424 3月21日
252   273.432 5.424 3月21日
253   273.546 5.425 3月21日
254   273.659 5.425 3月21日
255   273.776 5.423 3月21日
256   273.417 5.423 3月21日
257   273.536 5.425 3月21日
258   273.649 5.424 3月21日
259   273.760 5.423 3月21日
260   273.405 5.424 3月21日
261   273.520 5.425 3月21日
262   273.631 5.423 3月21日
263   273.746 5.423 3月21日
264   273.861 5.425 3月20日
265   273.502 5.423 3月21日
266   273.617 5.423 3月21日
267   273.730 5.424 3月21日
268   273.848 5.423 3月20日
 
   図A12 赤村後円中心から見た春分の日の出の年度別方位角
 
 図A13 春分に赤村後円中心から見た日の出の年度別方位角(横軸が年度、247年は卑弥呼の没年)

  ここで、図A13を見ると日の出の方位角は非常に複雑な変化をしていることがわかります。この中で約5年周期の変化があります。例えば卑弥呼の没した年度を含む一つの周期は244年、245年、246年、247年、248年で一つの周期を作っています。この中で卑弥呼の没した年度は方位が273.806度と日の出の方位角が最大になる年度に当たっています。この方位角が最大になることは、この周期の中で最も南側から日の出の出る年度にあることを意味します。この特異性は、先に仮定した日の出と定義した瞬間の太陽の高度を多少変えても変化することがありません。ここで、この項のはじめに書いたように、方位角が0.116度ずれた246年を選んでも大して違いがないとする考えは間違いであることがわかります。 

  また、卑弥呼の没年に合わせて赤村後円中心の位置が決定されていると仮定する限り、248年の日の出である図A10の日の出は図A13からもわかるように、日の出の太陽の位置が最も北側にずれる位置でもあるので、その考えは間違いであることがわかります。このように、247年の日の出は極めて特異なことがわかるでしょう。
 
  図A14は精密地形図を利用できるカシバート(カシミールに付属)を利用して図A9の太陽と323mPeakの関係を描写したものです。ここでは、精密地形図を利用して図A9と同じ条件で太陽と323mPeakの関係が明確にわかるように描写したもので、太陽が323mPeakの真上にあることがわかります。カシミールは古い時代の天体の位置はシミュレーションできないので、描写可能の年代の中から方位と高度が同じ条件になる日時を探し、その日時でカシバードに描写させたものです。
(実際は1976年3月20日6時50分10秒で、このときの方位は273.801度、高度5.423度になっていて、非常に高い精度で247年春分の日の出を模写しています。ちなみに、この年も3月20日が春分で、4月29日には中部大西洋、北西アフリカ、地中海、ユーラシア南部に金環食がありました。)
 

 
 図A14 カシバードの精密地形図による323Peakと太陽の関係(247年春分の日の出)

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 ★卑弥呼没年とキリスト受難年の日の出の様子は一致している

  さらに驚く事実があります。紀元32年の春分は3月22日です。このとき、赤村後円中心から見た日の出の方位角が273.806度になった瞬間の太陽高度は5.484度です。これは卑弥呼の没年247年の日の出の方位角が同じになった瞬間の太陽高度5.424度からわずか0.06度しかずれていません。紀元32年はキリストが受難を受けた年です。太陽の半径は高度に換算すると約0.3度ですから誤差の範囲で一致しています。参照ダニエル書9:25

 言い換えると、
赤村後円中心から見た春分の日の出の様子が卑弥呼の没した年とキリストが受難した年に同じに見えるように赤村後円中心の位置が決められていることになります。キリスト受難年と卑弥呼没年の日の出の様子を一致させるように計画的に位置を決めた赤村の丘陵はやはり卑弥呼の墓に違いありません。キリストも聖徳太子も厩で生まれた不思議な一致がありますが、卑弥呼までキリストと無関係ではないことになります。
 
このような場面でキリストを出すと、全くの場違いと考える人がほとんどでしょう。しかし、日ユ同祖論を真っ向から否定することもできない現在、この事実は極めて興味のあることです。

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★赤村後円中心から見た卑弥呼没年、臺與即位年の日食

  これまで説明したように、卑弥呼の没年とされる247年春分の日には赤村後円中心から見た日の出がちょうど323mPeakの真上から昇る特異な現象がありましたが、この年は3月24日に皆既日食もありました。ここで、さらに驚く現象が翌年に続いて起きます。248年9月5日にも日食があったのでのです。

   
 太陽が欠けながら落日する (卑弥呼の没年)
図A15
247年3月24日赤村後円中心から見た落日
 欠けた日の出が昇るに連れて戻る(臺與の即位年)
図A16 2489月5日赤村後円中心から見た日の出

  図A15は、赤村後円中心から247年3月24日18時14分55秒のときに太陽が欠けたまま落日する様子を示したものです。このときの日食は皆既日食でしたが、赤村後円中心から見た落日は皆既日食にはなりません。図にあるように日食で三日月状になった太陽がどんどんと食を進めながら落日して行きます。また図A16は赤村後円中心から見た248年9月5日6時17分22秒の日の出の様子です。ここでは日の出が日食で大きく欠けた状況で日が出ます、しかし日が昇るにつれてその欠けは少なくなり6時45分頃には欠けがなくなり、完全に復帰します。

  言い換えると、卑弥呼の没年である247年の日食は、太陽が欠けながら落日していくので、当時の人達はこの世が終わってしまうのではないかと考えた人も多かったと考えます。次の年の248年の日食は欠けた状態の日の出となり、それが昇るにつれて欠けが少なくなり、そのうちに完全な太陽の姿に戻るので、欠けた太陽が再生するように見えたでしょう。
赤村後円中心の位置はこの二つの日食の太陽が247年には欠けながら落日し、248年には欠けたまま日の出となる特異な位置でもあるのです。

  古事記や日本書紀では、須佐之男が乱暴を働いたので、天照大神が怒って天之磐戸に籠ると、国中が暗闇となってしまった。ここで、天鈿女命がはだか同然で踊ると、その様子を見ようと磐戸を開けて天照大神が窺ったとき、手力雄神が天照大神の手を取って磐戸から引き出すと、日神の光が国中に満ち溢れた、とあります。一方、先にも書いたように、三国志の中にある「魏書」の部分には247年に卑弥呼が没し、世の中が乱れてしまったが、248年に卑弥呼の血縁の臺與という13歳の少女を王にすると世の中が治まったとした意味が書かれています。

 この二つの記載は、太陽が没するような日食のときに卑弥呼が没し、翌年は欠けた太陽が再生するように日の出の出た年に臺與が即位して世の中が治まった状況をヒントに書かれたとすると、かなり納得できる部分があります。このように、卑弥呼の時代は太陽の動きを敏感に感じていたことが推測できます。
ここから見ても、太陽の細かな動きを精密にとらえ、その位置が決定された赤村の丘陵は、やはり前方後円墳であり、しかも卑弥呼の墓である可能性が非常に高いと考えざるを得ません。
2018.12.19 記

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★卑弥呼の没年の春分、日の出の真下に見える323mPeakの大きな秘密

  これまで、卑弥呼の没年248年である春分の日に323mPeakの真上から日の出が出ることを説明しました。
古代人が太陽を精密に観測していたことは卑弥呼の時代以前の縄文時代からあったことはすでに良く知られています。参考;縄文ランドスケープ 小林 達雄

 ここで求めた323mPeakの位置はHSCPを全く使わずに求めたことに注目してください。
この位置は、国土地理院の計算式とステラナビゲータがあれば誰でも同じ答えが得られます。この結果を得るにはHSCPの知識は全く不要であることに注目してください。

  HSCPを何の理由もなく、頭から毛嫌いして10年以上も無視するだけでなく、執拗に発表まで妨害し続けた、東京にあるT**会と呼ぶ古代史の会の旧幹部連中も今度は無視できないでしょう。先の説明を無視することは学問を完全に無視していることになります。もしそうでなければ、この会は、ひとりの個人を崇拝する集まりで、学問とは全く無縁の会に成り下がってしまいます。
    
  さて、次はT**会が組織的に毛嫌いしてきたHSCPによる323mPeakの秘密をHSCPで説明して行きます。これまで、古代史の中で最も難関とされた天孫降臨の地が高千穂峰(天逆鉾)であることをHSCPによって結論を出しました。この結論に対して未だに何の反論もありません。   

参照
  Re^4: 天孫降臨の地は天の逆鉾 (なぜか、ここで参照したリンク
はその後切られてしまいました、関係者に堂々と議論する気など全くない、とても卑怯な人たちがいる証拠です。
  No231 天孫降臨の地は天の逆鉾
 これらのリンクもいつのまにか全部切られてしまいました。 2019.3.4 追記
 
  卑弥呼が没した年の春分に323mPeakの位置から日の出が出るとした結論は、そう簡単に崩すことはできないでしょう。計算で用いた地図は国土地理院が作った公式の地図です。ステラナビゲータの計算部分はNASAの研究に基づいたプログラムを使用しています。しかし、ここから導いた323mPeakの位置は地図上では323mの高さしかない無名の丘です。こんな場所が古代史を根底から揺るがすような重要なポイントであるとは誰も考えないでしょう。

  ところが、このポイントは古代史を根底から揺るがすほどの、重要なポイントであることがわかってきました。この理由は実に科学的で、先に書いた切られてしまつたリンク先にあった

【従来の学者、さらには宮崎・鹿児島両県の地元の人々から大きな非難がおこるかもしれない。しかし、どのようにはげしい罵声を浴びようとも、わたしのなすべきことは一つ。自己の解読のルールを守ることだけだ。】 

などと、誤りにもかかわらず、いかにもまともに聞こえるような、誇大な修飾の文を使わずに、それを納得してもらえるものと考えています。

 ます゛、驚くことに単なる無名の丘でしかない323mPeakの位置が神社群中心(周辺の神社から引いた多くの直角線の収斂点)であることです。これまで書いてきたように、このような神社も存在しない無名の丘が神社群中心であったことはこれまでありません。このような平凡な丘は神社がそこになければとても研究対象になりません。かりに、それを研究しようとすれば、そのような丘はどこにもあり、まじめにそれを対象にしたところで手間がかかりすぎ、己の寿命が尽きてしまいます。そのような中で、この323mPeakに出会ったのは幸運と言うしかありません。

 前置きが長くなってしまいましたが、このように興奮しながら書くほど、この323mPeakは重要なポイントであることが次々とわかって来ました。その理由はこれから明らかになって行きます。今回は図A17、と図A18を示し、その説明は後にします。

2019.2.3記

  図A17はすでに掲示板のNo291に書いたのを図にしたものです。何度も同じことを書きますが、図で表示している角度は地図の歪のため、実際の角度を表していません。(以前の電子国土のタイルを使用した場合はもっと正しく表示されていた。)赤字で書いた角度の数値は補正内角を表しています。補正内角は電子国土のタイルで地図を表示した状態で、三角形の頂点を計算上の原点として、その原点から約100km先の辺上に於ける角度を国土地理院の距離と方位角で計算した値です。当然のことですが、辺の長さが100km以下の場合はそのままの値を距離と方位角で計算します。

 これは掲示板でも説明しているように、古代人が角度を作り出す手段として、太陽系外にある星座を観測していたと考えると納得できます。地球から見える最も近い恒星はケンタウルス座α星(一等星)で、その年収差は約0.8秒(地球から見える、恒星相互間同士の幾何学的関係を地球の自転、公転に関係なく、この収差内の精度で観測できる)ですから、恒星相互間の角度を何らかの方法で地球上に投影できれば、磁石や時計を使わずに、これまで書いてきた驚異的な精度で神社を配置することは可能なのです。古代人はこの観測方法を少なくとも卑弥呼の時代までは使用していたことになります。もしかしたら、遠距離のピンポイントまで移動が可能な、鳥やコウモリ、像や鯨なども同じ方法を使っているのかも知れません。

 正確な時計がないと、まともな航海ができなくなってしまったのは、文字ができて、誤った固定観念を万人に植え付け可能になったときからでしょう。伊能忠敬もその犠牲者の一人です。もちろん、固定観念で閉じられた壁の中で集まり、古代史をやっている連中も同類で、T**会の旧幹部連中などもその好例です。チコちゃんに代わって書かせてもらいます。「ボーっと生きてんじゃねーよ!!」

  また、古代人が磁石によって方位を定めていたような説を説いている人達がたくさんいますが、少なくとも神社の配置に関する限り、その説は絶対に間違いです。地磁気は場所によって異なり、そのような高い精度を出すことが不可能なことは分かり切っているのです。古代人の優れた能力を偶然として無視したり、己の説の不確定な結果を古代人の能力になすりつけ、証拠もない幼稚な方法を勝手に考え、学校で理科実習などで実施して、古代人の優れた能力を認めようとしない人間を大量に作ることも大きな罪です。
  
  さて、再び図A7に戻ります。この図と図A2は良く似ています。A2は赤村後円中心のT字状パターンで、A17は323mPeakのT字状パターンです。赤村後円中心、323mPeakの位置もその決定にHSCPは関与していません。にもかかわらず、HSCPで見ると見事なT字状パターンができます。しかも、南側の端点は図A2では鵜戸神宮、A17では肥後国一宮の阿蘇神社となっていて、古富士ポイントと作る内角は極めて高い直角精度になっています。

  HSCPを無視してきた人たちはこれでも偶然として考えるでしょうか、そのような人たちが必ず降参する事実を今後見たくなくなるほど公開して行くつもりです。その中には、最近話題となっている嶽宮神社( 福岡県福岡市西区大字小呂島、立派な神社群中心で、古代に重要視された神社であることは間違いはないものの、おのろごろ島には該当しない)も含まれます。


2019.2.4  記

 
 
ポイント名 住所 経度度・分・秒
緯度度・分・秒
10進緯度,経度
内角度
到着 乳山八幡神社 福岡県北九州市八幡東区大蔵2-16-33 335139.78 1304909.62 33.861050,130.81934
経由 323mpeak 福岡県みやこ町犀川大坂 333821.22 1305330.54 33.639227,130.89182 90.69
出発 古富士ポイント 静岡県御殿場市 352100.83 1384425.37 35.350230,138.74038
出発 古富士ポイント 静岡県御殿場市 352100.83 1384425.37 35.350230,138.74038
経由 323mpeak 福岡県みやこ町犀川大坂 333821.22 1305330.54 33.639227,130.89182 89.42
到着 阿蘇神社(一宮) 熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1 325652.69 1310656.88 32.947970,131.11580
  図A17  323mPeakのT字状パターン

  ここで、乳山八幡神社、阿蘇神社それぞれから323mPeakに引いた線と古富士線に引いた線の作る内角は図A2と比較すると直角からのずれが少し多くなっています。しかし、電子国土のタイルを使って乳山八幡神社から阿蘇神社に引いた線はちょうど323mPeakのほぼ真上を通り、その誤差は47mです。乳山八幡神社から阿蘇神社までの距離は約105kmですから約1/2000の驚く特性を持っていることになります。

  また、
乳山八幡神社と323mPeak、阿蘇神社それぞれは神社群中心の特性を持っているので、レイラインの手法のように、ハッタリで単純に引いた線とは異なり、桁違いに高い信頼性を持っています。また、乳山八幡神社-323mPeak、323mPeak-阿蘇神社間のそれぞれの線分にも、図A3と図A5と同じように多くのピギーバック点を持ち、この線が偶然にできた線ではないことを確率から証明することができますが、それは後回しにして、図A18の説明に移ります。

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★赤村の丘陵は卑弥呼の墓、玉石甌穴のある斑島はおのごろ島

 
 
ポイント名 住所 経度度・分・秒
緯度度・分・秒
10進緯度,経度
内角度
到着 乳山八幡神社 福岡県北九州市八幡東区大蔵2-16-33 335139.78 1304909.62 33.861050,130.81934
経由 323mpeak 福岡県みやこ町犀川大坂 333821.22 1305330.54 33.639227,130.89182 90.29
出発 斑島玉石甌穴 長崎県北松浦郡小値賀町班島郷 331243.85 1290131.98 33.212180,129.02555
出発 斑島玉石甌穴 長崎県北松浦郡小値賀町班島郷 331243.85 1290131.98 33.212180,129.02555
経由 323mpeak 福岡県みやこ町犀川大坂 333821.22 1305330.54 33.639227,130.89182 89.59
到着 阿蘇神社(一宮) 熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1 325652.69 1310656.88 32.947970,131.11580
  図A18 323mPeakを含む干字状パターンの一部、一段目の玉石甌穴には驚く端点がある


  図A18で323Peakから古富線を延長した先に斑島(長崎県北松浦郡小値賀町班島郷、小値賀島の属島)があり、その島にある玉石甌穴に到着しています。玉石甌穴は以前から私が神社の始まりと主張してきた場所です。何と、この位置が卑弥呼の没年の春分に日の出る位置の323mPeakと古富士線で完全につながったのです。これが何を意味するかと言うと、「赤村の丘陵は前方後円墳、しかも卑弥呼の墓であり、玉石甌穴ある斑島はおのごろ島である」と断定できます。これまでのどのような説をとっても一目瞭然でそれが明確になる説はありません。これを否定するには箸墓古墳を発掘し、その中から卑弥呼の墓である証拠になるものを掘り出すしかありません。しかし、それは現在のところ不可能でしょう。

  考古学の大家、森浩一氏(元、同志社大学名誉教授)の説は見事に当たっていたのです。このページはその説を確かにするものです。森浩一氏は『古事記』の天両屋(両児島)は小値賀島だったと主張されていました。恥ずかしいことに、私はそれも知らず、小値賀島まで出かけて行きました。そこで、牛の塔を見てから小値賀島がかつて2つの島に分かれていたことをはじめて知りました。近畿の学者が古事記のはじまりが九州の記載であるとするには、よほどの信念があったのでしょう。
 
  実は、小値賀島に出かける前は森浩一氏の説も知らずに、天両屋(両児島)は斑島と
小値賀島を指しているのではないかと考えていました。そして、その海峡に筏状の橋をかけたものが天の浮橋であると考えていました。この説を小値賀島で食堂を経営している考古学者に話したら、とんでもない、その海峡は流れが速く、浮橋などかけられる訳がないと一笑にされて凹んでいたのです。しかし、その翌日、牛の塔(写真A7)の説明を見るなり、天両屋(両児島)はかつて二つに別れていた小値賀島であると直感しました。森浩一氏の説を知ったのは小値賀島から戻ってしばらく経ってからでしたが、学者は凄いと思ったのはこのときです。

 
  写真 A7   牛の塔  鎌倉時代末期に2つの島の間を埋め立る工事で犠牲になった牛を祀っている  2017/11/17


 
写真A8  玉石甌穴  (玉の直径は約50Cm)            撮影2017/11/17


 
  写真A9 玉石甌穴の案内板   撮影 2017/11/17


 
   写真A10 付近に建てられた鳥居(近世に建てられたもの) 扁額は「玉石大明神」  撮影    2017/11/17

  斑島は小値賀島の西端から300mから400mほど離れた場所にあります。現在はその最も近い、距離が290mくらいの場所に斑大橋(昭和53年完成)がかかっています。写真A8に示した玉石甌穴は橋を渡ってから北側に1.1kmほど進んだ海岸にありにあります。玉石甌穴は写真A9にあるように、玄武岩の裂け目に落ち込んだ岩石が波にもまれてすり減り、球状の玉となったものです。ここで写真A8を見たら、一目瞭然に、ここから何かが生まれてもおかしくないと誰もが考えるでしょう。これだけでも、斑島は多くの島を生んだ舞台となったおのごろ島にぴったりです。ネットで検索すると、タモリさんも甌穴が大好きのようですが、まだこの甌穴は見たことがないでしょう。おそらく見たとたん、飛び上がって喜んでくれると勝手に考えています。地質学者のように地学に詳しいタモリさんにもぜひ見ていだきたいと希望しています。

  古事記の天地開闢編には淤能碁呂島に関して次のように書かれています。『
ここに天つ神諸の命もちて、伊邪耶岐命・伊邪耶美命二柱の神に「このただよへる国う修め理り固め成せ」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。かれ、二柱の神天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして画きたまへば、塩こをろこをろに画き鳴して引き上げたまふ時、その矛の未より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき。これ淤能碁呂島なり。その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。古代史研究家の古田武彦氏は上記文書の赤字部分の解釈に苦心されていたときがありました。そして、「こをろこをろ」を【銅鐸の鈕に紐をつけて引きずったときの音であるとした奇抜な考えをしているときがありましたが、その後も「こおろこおろ」をうまく説明できないまま鬼籍に入られてしまいました。もちろん、他の研究者もこれをうまく説明することはできていません。ここで、「こをろこをろ」は玉石甌穴の中で丸い礫が回転している音、塩は海水とするとぴったりです。
 
 また、古田武彦氏は淤能碁呂島の名前については【「記紀の地名説話で話の筋にあわせて地名を創作した」そのような形跡はほとんど認めることがない。しかるに、「現存地名をもとにして、それと音の似た、あるいはゴロあわせでこじつけた説話を創作する」のが常道だ」として能古島(福岡県福岡市西区能古)が淤能碁呂島であるとした考えを持っていました。その理由は、能古島の古名は「能許」であることから、「オ」は地名接頭辞、「ロ」は地名接尾辞とするとノコの島となり、淤能碁呂島=能古島としています。

  さらに、古田武彦氏は両児島は沖ノ島とそこから50kmほど離れた小屋島だと断定しています。しかし面積が50倍も異なる二つの島を両児島と呼ぶのはあまりにも不自然です。両児島と呼ぶにふさわしい島、それはかつて二つに分かれていた小値賀島だったのです。そして、その二つの島を結ぶ筏で作った橋、それが「天の浮橋」です。イザナギ、イザナミ登場する神話の舞台はすばり斑島、多くの島が生まれた場所は「玉石甌穴」、それは写真A8を見れば一目瞭然です。これは、考古学の大家、森浩一氏のお考えとも合致しています。

  二つの島を結ぶ筏で作った橋、それが「天の浮橋」です。イザナギ、イザナミ登場する神話の舞台はすばり斑島、多くの島が生まれた場所は「玉石甌穴」、それは写真A8を見れば一目瞭然です。これは、考古学の大家、森浩一氏のお考えとも合致しています。

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2019.2.6 記

★小呂島の嶽宮神社について


 ここで、小呂島こそ淤能碁呂島であるとするとても興味のある説があります。この島にある神社はHSCPで見ても素晴らしい神社群中心の位置にあり、おのごろ島であるとされてもおかしくない島です。まず、この神社は宮神社から正一位稲荷大明神(福岡県北九州市若松区百合野町3-1)に向けて24本もの正確な直角線(精度1.0度以内)が入ります。宮神社から正一位稲荷大明神までの距離はおよそ80km、このような短い距離で24本もの直角線が同じ位置に向かって到着するのはとてもめずらしいのです、おまけにその直角線のうち下記表に記載した神社を経由した直角線の経由点における直角精度は、その誤差が0.2度(すべての辺の距離が100km以内で補正内角ではない)以内となっています。

経由点神社名 住所 内角(度)
八雲神社 福岡県福岡市西区今宿上ノ原416 89.86
日吉神社 福岡県福岡市南区清水4丁目16 90.13
宝満宮 福岡県飯塚市花瀬宮山344 89.81
壱岐神社 福岡県福岡市西区生の松原1丁目9-3 89.93
新原神社 福岡県糟屋郡須恵町新原190 90.13
二宮神社 福岡県福岡市西区下山門3丁目16?7 90.15
櫻井大神宮 福岡県糸島市志摩桜井4222 90.04

 さらにも増して、宮神社から例えば野島神社(宮崎県宮崎市内海内海5387-1)を経由して古富士ポイントに到達する線の内角は90.04度になるなど、22の神社を経由して合計22本の直角線を引くことが可能です。淤能碁呂島説は従来の研究者とは全く異なる方法でこのような重要なポイントを見つけたことになります。先に書いた、語呂合わせの古田武彦説はHSCPで見ても全く論外ですが、淤能碁呂島説は本当にすばらしいと説だと思っています。

  しかし、残念なことに、この島がこおのごろ島に該当しないことはすぐにわかります。もうお気付きの人もいると思いますが、先に説明した宮神社から直角線のたくさん到着する正一位稲荷大明神(福岡県北九州市若松区百合野町3-1)は、図A2に書いた④に相当する神社です。

 正一位稲荷大明神は誰も注目していない神社だけでなくで国土地理院の地図にも書かれていません。ここで、図A2③鵜戸神宮の超有名な神社と比較すると、とんでもないアンバランスです。ここで、口の悪い人たちは、ちょうど話が合うように、こんな小さな神社まで見つけてきて話を合わせているだけだとも言っています。この疑いはすでに図A3で晴らしていますが、
淤能碁呂島説の嶽宮神社を取り上げてもそれを説明することが可能です。

  図A2の④正一位稲荷大明神は②赤村後円中心の位置が決まってから作られたことは容易に考えられます。宮神社からはこの正一位稲荷大明神を目指してたくさんの直角線が到着するような位置に建てられたことは間違いないでしょう。と言うことは、④正一位稲荷大明神が建てられた時期は卑弥呼が没する前後の時期になります。当然、嶽宮神社が建てられたのはその後ですから、天地開闢の時期ではありません。この時期から考えると、嶽宮神社はおのごろ島には該当しないことはすぐにわかります。

  なぜ小呂島の
嶽宮神社がおのごろ神社と間違えるように重要な位置にあるのかはまだ良くわかっていません。一つ考えられることは、嶽宮神社からは多久頭魂神社 (長崎県対馬市厳原町豆酘2429)と天神神社 (長崎県対馬市厳原町久根浜315付近)の二つの経由点を経由して本宮神社(長崎県対馬市上対馬町鰐浦)に到達する二本の直角線があります。

 本宮神社はかつて神社のはじまりではないかと考えていたこともある重要な神社です。この神社には「★古墳の位置と神社の位置の関係」の図27に示したように仁徳、応神、武烈、崇神の各天皇陵の後円中心を結んだ直線の延長線が到着しています。

  これを逆にたどると、赤村後円中心(卑弥呼の墓)に関係する正一位稲荷大明神→嶽宮神社→多久頭魂神社または天神神社→本宮神社→仁徳→応神→武烈→崇神とつながります。とすると、嶽宮神社は九州にあった卑弥呼の墓の神威を近畿に伝える重要な役目を帯びた神社であったのかも知れません。

  その謎を解くにあたって、淤能碁呂島説は重要な鍵となる可能性があるだけでなく、ここに登場する古墳はすべて前方後円墳であるので、前方後円墳の発祥と伝播に新しい知見を生み出す可能性も持っています。この項はいずれ、詳しい図を入れて再度詳しく説明する予定です。

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 2019.2.8記

★卑弥呼没年春分に日の昇るポイント、玉石甌穴、南大東島の星野堂はセットになっていた
  さて、図A8では323mPeakから古富士線を延長すると、玉石甌穴に到着することを示し、掲示板No291では玉石甌穴が一段目の中心、二段目が323mPeakとなる干字状パターンであり、一段目の端点は海域で省略していると説明しました。しかし、実際は、図A19に示したように一段目の玉石甌穴からは南大東島星野洞(神社群中心)に伸びる線があります。ここでは干字状パターンと言っても、一段目の北側は対馬海峡の海域で韓国に行くまで、対象となる陸がないので省略されています。一段目の南側は玉石甌穴から843kmも離れた星野洞になっていて、二段目の端点である323mPeakから阿蘇神社までの距離、約80kmと比較すると10倍も長いので、とても歪んだ干字状パターンになります。

  一段目の干字状パターンの端点である星野洞はリンクにあるように、大東諸島、南大東島にある鍾乳洞です。南大東島の発見は1820年にロシア人によってはじめて発見されたことになっています。しかも、現在でも島に着岸することが難しく、人も荷物も船からクレーンで吊り上げて上陸するような島に、古代人が正確に位置を決めた場所へ神社を作っていたことなど、誰も信じないでしょう。しかし、その考えは大きな間違いであることがHSCPによって明らかになります。


図A19 玉石甌穴の干字状パターン二段目は323mPeak


  図A20は図A19の323mPeakから玉石甌穴を経由して星野洞へ到着する線を示し、右の図では南大東島、と北大東島付近を拡大したものです。HSCPでは、遠方に到着する直角線は神社群中心に到着する規則があります。図A20では、星野洞は2つの直角線が収斂する神社群中心です。図A20では、323mPeakを出発した直角線が玉石甌穴を経由して、HSCPの規則にしたがって、神社群中心である星野洞に到着していることを示しています。ここから、卑弥呼没年春分の日の日の出が昇る323mPeak、おのごろ島と断定した斑島にある玉石甌穴、斑島を経由した直角線の到着する南大東島の星野洞はセットになっていたことが、わかります。更に付け加えると、古富士ポイントから玉石甌穴を経由して星野洞に到着する直角線の補正内角は90.29度と極めて高い直角精度があります。この事実から、古富士ポイントもこのセットに含まれると言っても言い過ぎではないでしょう。本当に不思議なことがあるものです。

 
 323mPeakから玉石甌穴経由星野洞へ到着 左図の部分拡大、星野洞のある南大東島と大東宮のある北大東島
 
ポイント名 住所 経度度・分・秒
緯度度・分・秒
10進緯度,経度
内角度
出発 323mpeak 福岡県みやこ町犀川大坂 333821.22 1305330.54 33.639227,130.891816
経由 斑島玉石甌穴 長崎県北松浦郡小値賀町班島郷 331243.85 1290131.98 33.212180,129.025550 90.85
到着 星野洞 星野洞沖縄県島尻郡南大東村北64 255127.28 1311328.07 25.857577,131.224464
到着 大東神社 沖縄県南大東村字池之沢(南大東島) 255033.30 1311336.04 25.842583,131.226679
経由 金比羅神社 沖縄県南大東村字池之沢(南大東島) 255030.03 1311308.66 25.841675,131.2190720 89.91
出発 星野洞 星野洞沖縄県島尻郡南大東村北64 255127.28 1311328.07 25.857577,131.224464
到着 秋葉神社 沖縄県南大東村字北(南大東島) 255043.17 1311521.13 25.845325,131.255870
経由 大東宮 沖縄県北大東村字中野(北大東島) 255638.38 1311809.58 25.943994,131.302661 89.91
出発 星野洞 星野洞沖縄県島尻郡南大東村北64 255127.28 1311328.07 25.857577,131.224464
図A20 323mPeakから玉石甌穴を経由して星野洞(南大東島) に達する線と大東諸島付近の拡大図

  HSCPを、「日本は神社が多いので、直角線を引けばどこかの神社に行き当たるのは当たり前だ」などと言って、10年以上も頑として認めようとしない人たちがいます。度々登場するT**会と呼ぶ古代史の会の古い幹部連中です。しかし、図A20にある南大東島と北大東島の神社にはまだ図に登場しない2社を入れても全部で6社しかありません。ここでは、神社の数そのものが少ないので、先のような言い分は全く通用しません。

 確率から見ても89.91゜の直角精度が偶然にして起きる大雑把な確率は1/1000ですから、この神社配置が計画的になされているとしか言いようがないことは誰でもわかるでしょう。それでも、頭が鋼鉄のように固くて、一度言い出したら死ぬまで考えを変えられないような先の幹部連中を別にしても、古代人がそのようなことができるわけがないと考える人は多いでしょう。実は、北大東島にはまだ二つの神社が残っていて、まだ登場していないのです。この残りの神社が登場すると、さらに驚くことが起きます。これまで懐疑的だった人たちもHSCPを認めざるを得なくなるさらなる事実が次に明らかになります。

2019.2.15 記

★沖縄本島の神社は斑島から大東諸島、奄美諸島の順で伝わった

  1820年にロシア人が発見するまで日本人が知ることもなかった絶海の孤島で、現在でも着岸が困難な島に古代人がすでに上陸していて神社まで建てていたなど、お伽話にもならないと考える人が未だに多くいるでしょう。やはり、図A20にある内角は偶然に違いないと・・・・・。
 それでは、図A21を見てください。北大東島には図A20で示した大東宮以外に金比羅神社と秋葉神社の二つの神社があります。星野洞を出て北大東島の金比羅神社を経由した線は89.81度の直角精度で沖永良部島にある世之主神社に到着します。

;かつて、「秋葉神社は江戸時代にできた新しい神社だ」などと、テレビで堂々と話す学者がいましたが、神社の発祥を全く知らないで言った戯言に過ぎません。

  一方、星野洞を出発し、北大東島の秋葉神社を経由した線は奄美大島の属島、与路島の三八洞穴または同島中程西側にある鏡崎を見下ろす高台の構造物(今の所、神社かどうかは不明)に到着します。このとき、秋葉神社に於ける補正内角は三八洞穴では89.67度、高台にある構造物では90.10度となります。さらに、星野洞を出発し、北大東島の大東宮を経由する線は89.99度と、まさに神が作ったような高い直角精度で徳之島にある鍾乳洞の銀竜洞へ到着します。続いて驚くことは、銀竜洞を出発して徳之島の白嶺神社を経由した線は90.44度の補正内角で再び北大東島の大東宮に到着します。このような特異な事象が偶然では決して起きないことは、先に書いた鋼鉄のように頭の固い人たちを除けば、確率論を持ち出すまでもなく、中学生でも理解できるでしょう。

 
  南大東島星野洞から北大東島の神社を経由して奄美群島に伸びる直角線  大東島付近の拡図 どの直角線も神が決めたような直角精度を持つ
 図A21 南大東島から北大東島の神社を経由して奄美群島に伸びる直角線、到着点はすべて神社郡中心でここから奄美、沖縄の神社へと広がっていく

  図A21で最も重要な線は星野洞(南大東島)-大東宮(北大東島)-銀竜洞(徳之島)の線です。この線は北大東島の大東宮を経由して鍾乳洞(星野洞)から鍾乳洞(銀竜洞)を結ぶ特異な線で、その内角は89.99゜とすばらしい直角精度になっています。到着点の銀竜洞の位置は極めて重要な神社群中心となっています。図では省略していますが、銀竜洞からは氏神神社(鹿児島県天城町大字与名間)と複数の直角線が到着して神社群中心を作ります。さらに、神社群中心である氏神神社からはたくさんの直角線が出発します。この線から北側に伸びた到着点の多くは奄美大島の神社に到着し、奄美大島と喜界島に多くの神社群中心を作りますが、その中には大朝戸の水源(鹿児島県喜界町大字大朝戸)の珍しい神社群中心もあります。

  一方、氏神神社から、南側に伸びる直角線は沖永良部島にある神社群中心でもある水連洞(鹿児島県知名町大字大津勘)に到着し、さらにそこから伸びる直角線は沖縄本島に到着し、沖縄の神社の多くの神社に直角線でつながる神社群中心となります。 

  このつながりは後に図入りで説明するとして、結論を先に書くと。

  ①沖縄の神社は本土の神社と同じ規則で配置されている。
  ②大東島の神社は卑弥呼没年の前後に位置が決まった。
  ③沖縄本島にある神社の位置は大東島に神社ができた後、奄美諸島を経由して沖縄本島へと北側から伝わった。
 
  ①は私が10年以上も前から主張しているものです。②はHSCPに疑問を持っている人たちの考えを改めさせるでしょう。③は学者も含め、日本人全員が信じられない事項でしょう。しかし、沖縄に関する歴史的証拠は発掘でわかっている考古学的事実を除くと、「おもろさうし」が書かれた以前は何もわかっていないのです。ここで、学者は何の根拠もないもを、いかにも本当のように語っていただけでなのですが、自虐的になってしまった日本人全員が、ボーっとしていたので、それを真実だと信じていたのです。これは、北海道の神社についても同じことが言えるのです。またチコちゃんに登場してもらいます。「ボーっと生きてんじゃねーよ!!」

注;2019.2.10発刊の「琉球文明の発見」 海瀬頭豊著、発行藤原書店は著者が沖縄を愛している心のあふれている本です。しかし、残念なことに、神社の発祥については、とても賛成できるものではありません。ぜひ①、②、③の事実からそれを正していただきたいと希望しています。

注;北海道の神社は、はるか古代に優れた能力を持った何者かによって、あらかじめその位置が定められ、小祠のようなものが建てられていた位置に、開拓時に神社を建て本土から色々な祭神を勧請してきたに違いありません。明治政府が「怪しい迷信に惑わされて小祠を信仰することを禁ずる」令を出しているのはそのような小祠が開拓時には北海道の原野にたくさんあったことを物語っています。民族学者でもある谷川健一氏が書いているように、杉の根の位置を神社の位置にしたような例は確かにあったのかも知れません。しかし、もし小祠がすでにあれば、その正体がわからなくても、その位置に神社を建てたに違いありません。しかし、禁令も出ているので、その事実はその後永久に葬られることになってしまったのです。古代に人が渡った記録の全くない離島にある神社の配列が正確なHSCPを満足している事実も同じような理由によるものでしょう。それは、これからさらに明確になって行きます。 これまで、干字状パターンは何回も説明したきましたが、ここで再度説明する理由は、本土と北海道の神社の配列を比較するためです。驚くことに、北海道の神社配列も本土と同じ規則で配列されていて、例えばこれから説明する宗谷岬付近の神社の配列も本土の神社にある干字状パターンで見事に説明することができるのです。ここでは、谷川健一編の日本の神々12(白水社)に書かれたような北海道の神社に関する常識「北海道の神社は明治期にできた」とする説は想像にしか過ぎないことが明らかになります。 神社のはじまり2013.5.15 記を再掲載

注; この事実から、最近出版されたアイヌと縄文 瀬川拓郎著 ちくま新書にあるように「アイヌこそが縄文人の正当な末裔である」とする説にも疑問を感じざるを得ません。北海道に開拓民が到着したとき、原野には縄文時代にその位置が決められた小祠がたくさんあり、その小祠の位置に現在ある神社が創建されたと考えないと、北海道における神社配列の規則性を説明できないのです。誰が建てたかもわからない小祠を祀る行為は明治政府の禁令を無視したことになりますが、開拓民は、日本の神々に書かれている「切り株神社」よりも、得体が知れないにしても、先人が祀った痕跡のある小祠の位置を尊重したのでしょう。明治政府の嫌うこのような行為は意図的に隠されるか、または伝承されず、完全に忘れられてしまったのです。これは、北海道に限らず、本土から沖縄を含む全土で行われたに違いありません。その明確な証拠は南大東島・北大東島にあります。ところで、過去にアイヌ(ニブタニ文化と呼ばれた時代も含む)がこのような小祠を祀った証拠はあるのでしょうか?。宗谷岬付近にも古富士の位置を意識した神社配列(北海道稚内市大字声問村にある聲問神社が神社群中心)が現存することは、アイヌが縄文人の正当な末裔であるとする説と大きく矛盾するのではないでしょうか?★神社はいつ作られたか?(三内丸山遺跡から見た神社の起源) 2016.8.31 記を再掲載

注; 古代は沖縄から北海道まで同じ祭祀圏内にあった証拠 2017.07.26 記載 このリンクにある図-10の角度は図A20、図A21とわずか異なっていますが、後者のほうがより正しい地図を使った値です。大東諸島にある神社の位置は地図によって異なる場合が多いのですが、図A20、図A21は国土地理院の地図を使った値です。大東諸島はフィリピンプレートに乗っているので、約7cm/年の速度で沖縄の方向に移動しているのですが、HSCPによってそれを知ることはまだできていません。
2019.2.19 記


★誤っていた沖縄の歴史とそれを正すHSCP線

 沖縄の歴史に関して、かつては学者も大きな間違いをおかしていました。例えば日本の民族学に大きな影響を及ぼした柳田国男の学説で「日本人は南方から潮流にのって渡来した」とする「海上の道」学説です。さらに、現在でも「沖縄県の歴史」に下記が書かれているように
縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島(宮古諸島・八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。約800年前ごろになると朝鮮様式窯によって焼かれた徳之島産のカムィ焼や長崎産石鍋やそれを模倣した鍋形土器などがみられるようになり、本島地方と近い文化をもつようになる。

 とあるように、南方の台湾文化が強く影響したように書かれているので、これらの記載と柳田国男の「海上の道」説を併せると沖縄の歴史は本土の歴史とは異なっていて、日本よりも中国の影響を受けてきたように考えられてきたことです。

 これらの誤った考えに対して、岩井國臣氏は「沖縄の歴史」「喜界島が琉球王国を創った」などでそれらの誤りを正すようにしています。ここでは折口信夫氏の「琉球国王の出自」を参考にした独特の考えが書かれ、沖縄の文化は北側から伝わったと書かれています。ここで注意していただきたいことは、沖縄の歴史」では第3章に弥生時代から鎌倉時代前夜にかけての琉球が書かれていますが、弥生時代から10世紀までについては全く書かれていません。また、沖縄の観光情報たびらいにある歴史年表でも、弥生時代からいきなりグスク時代となっていて、その間は全く書かれていないことです。

 先に書いた結論の③は「沖縄本島にある神社の位置は大東島に神社ができた後、奄美諸島を経由して沖縄本島へと北側から伝わった。」としました。この結論は岩井國臣氏の喜界島が琉球王国を創った」と似ていますが、時代が全く異なっていることに注意してください。しかし、この「はじめに」に書かれた「喜界島は、琉球王国が誕生するずっと前から文化の発達した先進地域であった。」とする説は琉球王国が誕生する以前のことを書いているので③と矛盾しない説です。

 
写真 11  喜界島が尚徳王によって占領された事件を書いた案内板

  例えば喜界島では写真のような案内板がありますが、この事件はあくまでも、琉球王朝ができてからの事件であり、古代はこの案内からは全く想像もつかない状況があったことになります。この事実はHSCPによってはじめて明らかになります。以下がその概要です。

 
阿麻弥姑神社に到着するカーキ色()の多量の線は玉石甌穴を出発した直角線 (0.2度以内の直角精度で39本もある)
  図A22 奄美大島、喜界島、沖永良部島のHSCP線
 
 図A23  沖縄と与論島、沖永良部島、慶留間諸島のHSCP


 22,23はこれから説明する予定のHSCP線です(宮古列島、八重山列島、尖閣諸島に到着する線も含めました。2019.4.30更新)。このHSCP線はすべて誤差±1度以内の直角線で書かれています。南東の海域に伸びる線でピンク色の線は南大東島の星野洞、グリーンの線はラサ島(沖大東島)の洞窟、青色の線は沖ノ鳥島へ到着する線です。これらの線はこれまで全くわかっていなかった卑弥呼の時代の秘密を解き明かし、卑弥呼=アマミキヨを証明します。
 
 図A23は線が混み合っていて概要しかわかりませんが後に細部を拡大して説明します。それにしても、
悲惨な陸上戦のあった沖縄で卑弥呼の時代に設定されたと思われる聖域がほぼすべて残っていることは世界でも類のないすばらしいことだと考えています。また本土では伝承が皆無になっていたこの時代の伝承がアマミキヨの伝承として残っていることも本当に驚きです。

注;エレキジャック サイエンス No.1(CQ出版社)「なぜそこに神社が建てられたのか?」は、まだ研究不足の上に地図からの情報も少なく、研究が困難を極めていた状況下で書いたにもかかわらず、沖縄の図8は良くできていたと己ながら感心しています。(この時期は沖縄とラサ島、沖ノ鳥島の関係は全くわかっていませんでした。)これらの間違いもこれから訂正して行きます。


2019.4.4 記

2019.4.30
 図A22、A23を更新

★徳之島のHSCP線



   大東諸島からいきなり、沖縄に移ってしまい、戸惑った人もいたかも知れません。これは、古代史の中では絶対に出てこない、徳之島や沖永良部島をいきなり出しても、興味を失ってしまう恐れがあるので、多少は興味を持ってくれる可能性の高い沖縄の様子まで、書いてしまいました。ここまできても、未だにHSCPを懐疑的に思っている人や、何回も例に出す東京**会と呼ぶ古代史の会の幹部連中のように鋼鉄のように頭の硬い人たちがまだいることを意識しながら書くので、HSCPをよく理解している人達には少しくどくなってしまいますがお許しください。

 ここで、少し話を少し戻し、図A21の説明を続けます。まず図A21で南大東島の星野洞から北大東島の大東宮を経由し89.99度のすばらしい直角精度で銀竜洞へ到着する様子を示す数値の詳細を示します。

ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進、補正内角用) 緯度(60進) 緯度(60進) 補正内角
到着 銀竜洞 鹿児島県伊仙町大字古里 27.689397,128.949822 26.517594,130.529452 274121.83 1285659.36
経由 大東宮 沖縄県北大東村字中野(北大東島) 25.943994,131.302661 25.943994,131.302661 255638.38 1311809.58 89.99
出発 星野洞 沖縄県南大東村字北(南大東島) 25.857577,131.224464 25.857577,131.224464 255127.28 1311328.07

注;緯度,経度(十進、補正内角用)の数値は電子国土のタイル上で結線したHSCP線で、経由点からの距離が100kmを超えるとき、経由点から約100kmの点の線上の緯度,経度

  ここで、到着点銀竜洞のある徳之島のHSCP線を図A24に示します。ここでは、わかりやすくする目的で島内でつながる線だけにしてあります。この島から外に伸びる線はその後に説明しますが、その線は驚くほど混み合った線になります。

 
 図A24  徳之島のHSCP線(島内)  氏神神社と銀竜洞の2つの神社群中心


   ここで、南大東島の星野洞を出て北大東島の大東宮を経由した直角線の到着点である徳之島の銀竜洞からは青色線で示した三本の直角線を引くことができ、神社群中心の特性を持つことがわかります。さらに、秋葉神社と高千穂神社を経由した線は氏神神社で収斂します。このように、二本の線の収斂する点のほとんどは神社群中心の特性をもつことが経験的にわかっています。ここでも収斂点である氏神神社からは、収斂してきた青色線を除いても、青色のグリーンの線で示した3本の直角線を引くことができ、神社群中心の特性を持っていることになります。ときどき、説明で使っている「神社群中心が派生する」とした表現はまさにこのような状況を指しているのです。ここでは、銀竜洞から出たHSCP線が新たに氏神神社の神社群中心を派生したことになります。

  神社がランダムに存在すると、1%の誤差で直角線が偶然に引ける大雑把な確率は1/100です。徳之島ではまだ線の引いていない残りの神社が6社ほどあるだけです(残りの神社も後に線がつながります)。このような少ない神社しかない島の中で、5本もの直角線が引け、しかも二本の直角線が氏神神社で収斂している例もある特異な事象があることは、決して偶然ではないことは小学生でもわかるでしょう。これから、益々混んだHSCP線になってきますが、図A24はHSCP線の基本例で、線が混んできたり、神社群中心の数が増えても理屈は変わりません。

 度々例に上げる古代史の会の幹部連中の言い分である「日本は神社が多いから、線を引けば何かの神社に行き当たるのは当たり前だ」としてHSCPを無視していることが如何に無意味であるか思い知ったでしょう。これまで、会員の大勢を魅了してきた天孫降臨、邪馬壹国、おのごろ島などの説がでたらめであったこともすでにわかったはずです。ついでに書かせてもらうと、和田家文書には沖縄や北海道について、HSCPで納得できるものは全くありません、これは真実の古代史を探るには和田家文書は参考にならないことを意味しています。さらに、この会が虚大古墳などと言って仁徳天皇陵を無視していることも、とんでもない妄想であることが今にわかります。(反論大歓迎!!)

2019.5.6  記

 図A24は徳之島の島内で引いたHSCP線を示したものですが、島外に伸びる線を示すと図A25になります。さらにこの図を徳之島付近で拡大したものが図A26になります。どの線も高い直角精度で奄美大島、喜界島、沖永良部島に到達しています。ここで、奄美大島では2本の直角線の到着する厳島神社(佐仁)、阿麻弥姑神さらに沖永良部島では3本直角線が到着する世之主神社は神社群中心を派生することになります。図A25、A26は島外に伸びる線の中で大東諸島(北大東島、沖大東島)、沖ノ鳥島に伸びる線は省略しています。この線は次回に説明する予定です。

 
図A25  徳之島のHSCP線(島外)  氏神神社と銀竜洞の2つの神社群中心と島外に伸びるHSCP線
 図
  図A26 徳之島のHSCP線(島外)  氏神神社と銀竜洞の2つの神社群中心と島外に伸びるHSCP線(徳之島付近の拡大)

2019.5.12 記


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★卑弥呼とアマミキヨは同じ意味を持つ

以下は現在編集中


     
  写真12 阿麻弥姑神社     撮影 2016.2.16  写真13 阿麻弥姑神社の扁額   撮影 2016.2.16  
     








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◎電子国土について

  電子国土は現在の国土地理院の地図以前のバージョンで現在の地図とは投影方法が異なり、古代人の方向設定とぴったりの投影方法になっています、しかも計算の原点を任意の点に設定できる大きな特徴(電子国土が試験的な運用をしているとき、私の希望を受け入れてもらったのです、これがなかったらHSCPは生まれませんでした)があります。その後、このシステムは新しくなることになってしまいました。
何とか継続するように国土地理院にお願いをしていましたが、孤立無援だったこともあり、願いは聞き入れられず、27年7月から停止してしまいました。電子国土がないと、遠距離まで正確な線を引くことができなくなり、研究の継続ができなくなってしまいました。

  失意の中で、色々と試行錯誤しているうちに、プログラムの知識が少しあれば、まだその特徴あるタイルを使うことが可能なことを発見しました。以前、国土地理院から特別に作っていただいた電子国土ポータル(index3)を動かすと地図は出ないものの、タイルはそのまま使えることがわかったのです。私のホームページで地図上に引いた線はすべて電子国土で引いたもので、ここからXMLファイルを作り、それをKMLファイルに変換して現在の国土地理院の地図に表示させたものです。

 現在、電子国土ポータル(index3)が入手できるかどうかわかりませんが
(担当:国土交通省 国土地理院 地理空間情報部 情報普及課)に問い合わせてみてください。このソフトウエアを起動できればしめたものです。Windows7で internet explorer 10以下でないと動かないなどの制限があったり、多少のコツも必要です、使いやすくするためにプログラムの変更も必要です。下記まで連絡ください。
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反論は大歓迎です。HSCPを理論的に否定された最初の方には500万円の礼金を用意してあります。HSCPではなく、単に古富士線の存在を理論的に否定された方も礼金500万円を差し上げることにしました。対象とする地域を日本全体ではなく、北海道だけに限定してもかまいません。遠慮なく連絡をお願いいたします。反論は個人ではなく、大学や研究所、出版社などの団体でもかまいません。
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