クイズ
★巨大古墳仁徳天皇陵の向きと氷室
 

ここで、生意気な事を書いて申し訳ありませんが、クイズを出します。
これを理解すれば、未だにHSCPやピギーバック配列、古富士ボイントの実在を認めようとしない脳天気な方も考えが変わるものと期待しています。こんどは、日本書紀にも関係する問題ですから、これまで横を向いていた方も興味を持たれるのではないかと期待しています。

注;この回答から、仁徳天皇に関する日本書紀の記載に奥深い真実が隠されていることがわかります。そして、近畿の支配者の支配領域の広さとともに、氷室を使った優雅な生活実態がこの時代にあったことが証明され、近畿における支配者の能力を不当に過小評価して九州王朝?を誇大に見せようとしている九州王朝説は難しい立場になると考えています。


下の図-57のピンクの線はどこを向いているでしょうか?

   図-57 ピンクの線はどこを向いているか?
◎ ヒント
1.江戸時代には熊野三社権現と呼ばれていた、延喜式内社 丹後國熊野郡 熊野神社に比定されている熊野神社(京都府京丹後市久美浜町河梨大谷)はなぜこんなに場違いの場所にあるのでしょうか?古文書からは、仁徳天皇と熊野神社はとても縁が深かったことを推測できます。

2.日本書紀巻第十一仁徳天皇、六十二年夏五月の項から天皇は「氷」を特に好まれたと推測することができます。徳川幕府が六月朔日(新暦7月1日)を氷室の日、氷室の節句としたことが知られていますが、この風習はもしかしたら仁徳天皇の時代から続いていたのかも知れません。仁徳天皇の陵の向きは天皇の好まれた氷を貯蔵する氷室(雪倉、雪蔵)に関係していると考えています。

3. 宮内庁が13日に歴史学系15の研究者団体に立ち入 り調査を許可したと発表した手白香皇女衾田陵(奈良県天理市、別名は西殿塚古墳、国土地理院の地図の表記は衾田陵)の向きをヒントとして追加いたします。この古墳の向きは鞍馬山(京都府京都市左京区)の東方向約1.1kmにある525.0mのピークを指しています。 参考;箸墓・西殿塚古墳赤色立体地図の作成
2013.2.14追加

参考  1 サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(氷室の節句)
参考 2お氷さまと富士参り

参考 3日本氷業史・氷室文献雑録

2013.1.26記


クイズの答えです。

仁徳天皇陵(百舌鳥耳原中陵、大仙陵古墳)の向いている方向は
富士写ヶ岳でした。仁徳天皇陵はその真偽論争もあって大仙陵古墳とも呼ばれていますが国土地理院の地図では仁徳天皇陵となっています。ここではクイズの答えとともに、やはりこの古墳は仁徳天皇陵とするのがふさわしいとする意見と、仁徳天皇陵が自然地形を利用したものであるとする説の疑問を書き加えました

    

 
 図-F1 仁徳天皇陵の向き (この図は図-F1(改)に変更しました。2019.5.23追加)

 注;(①から⑤の端点はすべて神社群中心の条件を満足しています) 

  富士写ヶ岳は石川県加賀市にある標高941.9mの山です。その名の通り、郷土富士の一つで、富士山に似ていることでそのような名前が付いたと言われています。図-F1からわかるように、④熊野新宮神社は①-②間に引いた線のピギーバック配列に位置しています。仁徳天皇と熊野神社は縁が深かったことが知られているので、場違いの場所にあった熊野新宮神社の位置の謎はこれで解けたことになります。

 同じように、⑤雪倉岳も②-③に引いた線のピギーバック配列の位置にあります。雪倉岳(2,610.9m)は万年雪があり、日本で最初に氷河が見つかった山で、言わば天然の氷室そのものです。この事実は、日本書記の記載の中に、文章を理解するだけでは到底わからない、奥深い意味が込められている部分があったとする好例であると考えています。同時に以前から主張しているピギーバック配列の持つ重要性を知ることができます。

さらに驚く事実がみつかりました。線分⑤-③のピギーバック点には、記紀には全く書かれていない仰天するような、秘密が隠されていたことがわかりました。この秘密もこのページで明かして行きます。 2019.5.31追記 


  江戸時代になっても、加賀藩が雪を4日かけて江戸へ運び、将軍に献上していた記録もあったり、奈良時代に氷を王族が利用していた事実が、木簡に記録されて長屋王邸遺跡から昭和63年に出土したりしています。木簡には、「都祁冰室」の記載があり、「日本書紀」仁徳天皇六十二年、額田大中彦皇子が、氷室を発見したと記された場所「鬪鷄」(つげ、2005年まで奈良県都祁村と呼ばれた)とも一致しています。

 全くの推測になりますが、雪倉岳の万年雪を奈良の氷室に貯蔵し、真夏でもオンザロックを楽しんだ天皇の優雅な生活や、その珍しい雪を民にも与えて慕われていた姿が想像されます。もしこの推測が正しければ、この陵は仁徳天皇陵と呼ぶのが最もふさわしいと考えています。

  ところで、仁徳天皇陵は自然地形を利用したものであるとする説があります。これは、墓域面積が世界最大とされるこの巨大な陵を作るにはそれなりの、優れた管理システムが必要とされることは明らかであって、これだけでも、九州王朝説が崩れてもおかしくないほどです。
注;大林組プロジェクトチーム「現代技術と古代技術の比較による仁徳天皇陵の建設」『季刊大林第20号 王陵』大林組 1985年

  言い換えれば、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が近畿に多数存在している事実は、九州王朝説の最大の弱点になっています。そこで考えられた詭弁の一つに巨大古墳はすべて自然地形を利用したものであるとする説です。確かに奈良県北葛城郡広陵町に見られるように、古墳か山か判別もできないほど古墳の多いところを見ると、自然地形を利用している古墳が多いことは明らかです。また、山間部ではなく、孤立している古墳でも黒塚古墳のように自然地形である土山を利用しているものもあります。しかし、天皇陵もすべて自然地形を利用しているとする説には大きな疑問があります。

 まず、第一に★古墳の位置と神社の位置の関係図-27で示したように、多くの天皇陵が正確に直線状に並び、その線が対馬鰐浦の本宮神社
(延喜式神名帳にもないが、その位置の重要性はこのHPのいたるところで説明をしています)に到達するとした、きわめて規則正しい位置にあることです。これを自然地形を利用したとしても、それぞれの古墳のピークをこの線に正確に合わせるには必然的に大きな労力を必要としたはずです。さらに、この天皇陵などの多くの墓で、その位置と墓室の方向に共通した規則があることを発見しました。この発見で益々自然地形を利用したとする説には無理があることになり、九州王朝説の大きな砦の一つが崩れることになります。以降にその発見と検証の結果を書きます。



2013.2.26記

★巨大古墳仁徳天皇陵の向きと氷室(改定)
 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 雪倉岳 富山県朝日町山崎 36.794723,137.753962 36.002271,135.852520 364741.00 1374514.26
経由 熊野新宮神社 京都府京丹後市久美浜町河梨305 35.591620,134.867220 35.591620,134.867220 353529.83 1345201.99 90.55
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 34.783929,135.355568 343353.63 1352916.76
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 36.152625,136.465933 352100.83 1384425.37
経由 富士写ヶ岳 石川県加賀市山中温泉枯渕町 36.188587,136.363955 36.188587,136.363955 361118.91 1362150.24 90.07
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.360893,135.917431 343353.63 1352916.76
到着 富士写ヶ岳 石川県加賀市山中温泉枯渕町 36.188587,136.363955 36.365466,136.769595 361118.91 1362150.24
経由 雪倉岳 富山県朝日町山崎 36.794723,137.753962 36.794723,137.753962 364741.00 1374514.26 90.09
出発 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 36.715695,137.807942 352100.83 1384425.37
「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標
 図-F1(改) 仁徳天皇陵の向き  

 図-F1を改版しました。2013.2.26記の図では、まだ補正内角の考えを入れていませんでした。図F-1(改)は内角を補正内角に変更したものです。また、表示の地図は電子国土から地理院地図に変更しました。この結果、内角は古代人の設定した角度に合致し、地殻変動の考慮は不要になりました。ちなみに、90.07度や90.09度のような直角精度の内角が偶然に出現する大雑把な確率は1/1000以下です。これは仁徳天皇陵の位置が極めて計画的に決められた可能性を示すものです。

  ついでに、仁徳天皇陵の位置が九州の古墳の位置と密接に関係していることをここで示します。九州の吉武高木遺跡が発掘されたとき、そこから約250mほど北側に吉武樋戸遺跡と名付けられた遺跡も調査され、この遺跡は径33mの帆立貝式の前方後円墳であることが明らかにされました。この古墳と富士写ヶ岳、雪倉岳、古富士ポイント、さらに九州の玉石甌穴(おのごろ島)、高千穂峰を示したものが図-F2です。

 
 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 斑島玉石甌穴 長崎県北松浦郡小値賀町班島郷 33.212180,129.025550 33.278654,129.287860 331243.85 1290131.98
経由 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 33.539715,130.318159 333222.97 1301905.37 89.84
出発 高千穂峰 宮崎県高原町大字蒲牟田 31.886213,130.918992 33.453437,130.349529 315310.37 1305508.37
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 36.006131,138.292482 352100.83 1384425.37
経由 雪倉岳 富山県朝日町山崎 36.794723,137.753962 36.794723,137.753962 364741.00 1374514.26 89.96
出発 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 36.364810,136.771888 333222.97 1301905.37
「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標 
   図-F2 吉武樋戸遺跡(帆立貝式古墳)と雪倉岳、古富士ポイントの関係


  図F-2では、吉武樋戸遺跡を出た線は、雪倉岳を経由し89.96度(吉武高木遺跡からは89.93゜)の素晴らしい直角精度で古富士ポイントに到着しています。このような精度の出る大雑把な確率は1/2500ですから、この配置も計画的に行われていた可能性が非常に高くなります。雪倉岳は図F-1の仁徳天皇陵の位置の説明に出てきた山です。と言うことは、仁徳天皇陵の位置は吉武樋戸遺跡の位置も考慮されて決まっていたことになります。先に説明した対馬鰐浦の本宮神社と関係する天皇陵直線配置と併せると、仁徳天皇陵の位置の自由度はなくなり、自然地形からその場所を選んだとする説を否定することにもなります。
 
 
吉武樋戸遺跡の帆立貝式古墳の向きは、もしかしたら、図-F2の吉武樋戸遺跡から雪倉岳方向に引いた方向と一致していたのかも知れません。しかし、この帆立貝式古墳の方向は、発表資料によって異なっていて、その正確な方向はわからず、今のところその確証はありません。この古墳はその下に弥生中期の「墳丘墓」があり、そのマウンドを利用して古墳が作られています。と言うことは、このマウンドの位置を決めた人は弥生中期の人たちであったことになります。

 
図-F2では、吉武樋戸遺跡が、おのごろ島に相当する斑島の玉石甌穴と天逆鉾のある高千穂峰を結んだ89.84度のすばらしい精度の直角三角形の頂点にあります。このような配置を決めた人たちはおそらく日本の国生み神話を作った人たちに違いありません。墳丘墓であるマウンドの上に帆立貝式古墳を作った人たちとマウンドを作った人たちが対敵関係にあったかどうかはわかりませんが、後に説明するように、北部の福岡あたりから、過去の伝承が消え、新たに創作された伝承が残るようになってしまったようです。
参考;最古の王墓吉武高木遺跡、常松幹雄著 新泉社

2019.5.23 記

★世界遺産・宗像大社沖津宮の位置は弥生中期に決まっていた

 図-F2で説明したように吉武樋戸遺跡は弥生中期の墳丘墓であったマウンドの上に帆立貝式古墳が造られています。この位置は玉石甌穴、吉武樋戸遺跡、高千穂峰を結んだ三角形の頂点に位置しています。さらにこの位置は神社群中心の特性を持っていて、周辺の神社から引いた直角線の収斂点でもあります。ここで吉武樋戸遺跡の干字状パターンを引いたものが図-F3です。

  驚くことに、この干字状パターンの北側端点は沖ノ島にある宗像大社沖津宮です。さらに南端は鹿児島県にある黒尊岳の頂上になっています。それぞれの端点から吉武樋戸遺跡を経由して古富士ポイントへ到達する線の補正内角は90.20度、89.98度と極めて高い直角精度になっています。さらに、両者の端点は神社群中心の特性を持っているので、はったりで線を引くレイラインの手法と比較すると桁違いの高い信頼性を持っています。さらに、干字状パターンの二段目の中心は貴船神社で、その北端は香春神社(延喜式内社)、南端は幣立神社となっていて、その補正内角はどちらも90.16度と、神が設定したようにすばらしい直角精度になっています。

  もちろん、この二段目の香春神社貴船神社幣立神社ともに神社群中心の特性を持つので、その信頼性は非常に高いものになります。図-F3、図-F4にある内角の計算は、現在ある神社の位置(733番地)ではなく、香春神社の宮司の住宅(1308番地)の位置です、神社群中心の位置も現在宮司の住んでる1308番地の位置にあり、この住宅もまるで神社のような造りになっています。現在の神社の位置は少なくとも文化年間(1804年)の配置を保っているとのことで、それ以前に、元々の神社が現在ある宮司の住居の位置1308番地にあったものを住居に変え、その脇の東側(733番地)に新たに現在ある神社を建てたものと推測しています。ちなみに、現在の神社の位置で補正内角を計算すると88.50度となってしまいます。社伝では和銅2年(709年)に山頂の三社を現在地に移設したのが、現在の香春神社となっていますが、山頂の神社を移設するとき、すでに現在の1308番地に神社があったことになります。

 
世界遺産になった沖ノ島の宗像大社はHSCPで見る限り、吉武樋戸遺跡の干字状パターンの一部であることがわかります。また、幣立神社も一万五千年の歴史を持つ特異な神社であると語られることもありますが、HSCPで見る限り、吉武樋戸遺跡の干字状パターンの一部であり、これまでの時点では、この神社の位置が定まったのは吉武樋戸遺跡に墳丘墓の造られた弥生中期であることになります。

  こうなると、吉武樋戸遺跡のマウンドに埋葬された人、そのマウンドの上に帆立貝式古墳を造った人は一体どんな人だったのでしょう。その鍵を握っていたのが吉武樋戸遺跡です。HSCPから見ると日本の古代史の鍵を握っていると思われる吉武樋戸遺跡の甕棺の中から装身具類が見つからなかったことなどから、単なる集団墓の域を脱していないとされ、この遺跡は記録保存となり消滅してしまいました。その後は忘れられた状態になっているのは残念でなりません。

 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
出発 宗像大社沖津宮 福岡県宗像市大島 34.241566,130.104234 34.241566,130.104234 341429.64 1300615.24
経由 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 33.539715,130.318159 333222.97 1301905.37 90.20
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 33.764221,131.362486 352100.83 1384425.37
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 33.764221,131.362486 352100.83 1384425.37
経由 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 33.539715,130.318159 333222.97 1301905.37 89.98
出発 黒尊岳 鹿児島県肝付町北方 31.295568,130.993853 32.665539,130.581386 311744.04 1305937.87
出発 香春神社(宮司の住居)
福岡県田川郡香春町香春1308 33.669430,130.839577 33.669430,130.839577 334009.95 1305022.48
経由 貴船神社 福岡県田川郡香春町中津原1658 33.651870,130.844990 33.651870,130.844990 333906.73 1305041.96 90.16
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 33.763231,131.362691 352100.83 1384425.37
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 33.763231,131.362691 352100.83 1384425.37
経由 貴船神社 福岡県田川郡香春町中津原1658 33.651896,130.845151 33.651896,130.845151 333906.83 1305042.54 90.16
出発 幣立神宮 熊本県上益城郡山都町大野712 32.687130,131.135630 32.777729,131.108336 324113.67 1310808.27
「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標 
図-F3 吉武樋戸遺跡の干字状パターン  
 
 図-F4 吉武樋戸遺跡の干字状パターン部分拡大図(香春神社、貴船神社付近)


2019.5.28 記

★失われた吉武樋戸遺跡の大きな秘密

 先に吉武樋戸遺跡が失われたことが残念であると書きましたが、この遺跡を単なる集団墓の域を脱していないとして消滅させてしまうことに賛成された方々は「素人が何を生意気なことを言うか」とお叱りになるに違いありません。墓の価値は装身具類だけで判断することができないことは曹操の墓とされた西高穴2号墓のように、埋葬者自身が生前から華美な埋葬方法を嫌っていた例もあります。そんな実例を出すまでもなく、この墳丘墓が造られた当時を考えると、この付近は群雄割拠の時代だったのではないでしょうか、縄文時代から続いてきた、HSCP配置を沖縄から北海道まで広めてきた人たちもここで負けてしまい、装身具をすべて剥がされて埋葬された可能性もあります。

  それにも増して、残念なのは、この墳丘墓にあった弥生中期の埋蔵物の下層に縄文時代の埋蔵物があったのではないかと考えているのです。吉武樋戸遺跡は図-F2で示したように斑島の玉石甌穴(おのごろ島)と高千穂の峰(天孫降臨の地)から引いた線の極めて正確な直角三角形の頂点と図-F3で示したように吉武樋戸遺跡が作る干字状パターンの中心位置とした2つの極めて特異な点を共有した位置にあります。このような特異な位置にあった墓が単なる集団墓であることなど、とても考えられないのです。加えて重要なことは、これから説明するように、
吉武樋戸遺跡の位置が弥生時代と縄文時代をつなぐ重要な位置にあることです。そして、この遺跡は東日本の金鉱山や銅鉱山にまで関係して行きます。図-F1で書いた雪倉岳の説明を見て「どうせ偶然に違いないと」言っていた人たちは面目丸潰れになり、新たに古代人の偉大さに感嘆するに違いありません。



2019.5.31 記

  さて、ここで図F-1(改)に戻ります。この図で説明した⑤雪倉岳は多くの山岳の中からちょうど都合の良い山を選んだに過ぎないと考えている人もいるようです。これまで、ある線分の両端を眺めた角度が直角になる点をピギーバック点と名付けて、このホームページの多くの場面で説明したきました。この説明を良く読んだ人たちはHSCPの線で重要な線分にはピギーバック点がある例が多くあったことを良く知っていると考えています。しかし、初めてピギーバックを見たとき、まさか古代人がそんなことを考えている訳はないと思うことが多いのです。

 そこで、同じ線分②-③にまだピギーバック点がないか見てみます。すると、⑥甲斐金山遺跡黒川金山の位置がピギーバック点であり、その内角はまさに神が決めたような89.93度と極めて直角に近い角度であることがわかります。このような角度が偶然に起きる大雑把な確率は1/1500です。したがって、この点も⑤の雪倉岳と同じピギーバック点として計画的に決められたことがわかります。

  さらに驚くことに、このピギーバック点⑥は⑦西秋留石器時代遺跡から③古富士ポイントに向かう直角線の経由点とすると、これもまた90.03度と極めて高い直角精度になります。このような事象が偶然にして起きる大雑把な確率は1/3000です。しかし、ここでも古墳時代と縄文時代の事象を一緒にして説明するなど、とんでもないとした意見がでるでしょう。しかし、この考えも、常識にとらわれた浅はかな考えであることがすぐにわかります。また、関東に多い住居跡とされてきた扁平な川原石を敷き詰めた遺跡は絶対に住居跡ではないとする、私の以前からの主張が益々確かになって行きます。

 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
出発 富士写ヶ岳 石川県加賀市山中温泉枯渕町 36.188587,136.363955 35.807524,138.738490 361118.91 1362150.24
経由 甲斐金山遺跡黒川金山 山梨県甲州市塩山一ノ瀬高橋 35.790078,138.847164 35.790078,138.847164 354724.28 1385049.79 89.93
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 35.350230,138.740380 352100.83 1384425.37
出発 西秋留石器時代遺跡 東京都あきる野市牛沼265-2 35.719850,139.289220 35.719850,139.289220 354311.46 1391721.19
経由 甲斐金山遺跡黒川金山 山梨県甲州市塩山一ノ瀬高橋 35.790078,138.847164 35.790078,138.847164 354724.28 1385049.79 90.03
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 35.350230,138.740380 352100.83 1384425.37
 「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標
 図-F5 線分②-③のピギーバック点⑥は金山遺跡、さらにこの点は縄文遺跡と特異な相関を持つ

2019.6.2 記

  図-F5で⑦の西秋留石器時代遺跡は時代が全く異なる遺跡なので、⑦西秋留石器時代-⑥甲斐金山遺跡黒川金山-③古富士ポイントの作る90.03度の直角線は偶然の事象に違いないと考えた人は多いでしょう。それでは、図-F6を見てください、緑色の線を追加しました。図-F5で示したピギーバック点と同じ⑥を経由する直角線がさらに二つ増えました。一方は⑩田端遺跡から⑥甲斐金山遺跡黒川金山を経由して⑧譲原石器時代住居跡に到着する90.27度の内角を持つ直角線、他方は神岡鉱山の廃坑である⑨神岡坑口から⑥甲斐金山遺跡黒川金山を経由して⑧譲原石器時代住居跡に到着する89.93度の内角を持つ直角線の二つの直角線です。

  ここで⑦、⑧、⑨は扁平な川原石を敷き詰めた遺跡で柱穴の見つからない遺跡です。「石器時代」云々と名前がついているのは、まだ考古学が未熟な昭和初期に遺跡が発掘されたので、このような名前がついているのです。田端遺跡はストーンサークルとも呼ばれていますが、石材が小粒で扁平な石が少ないだけで、柱の見つからない同類の遺跡と考えています。何度も書きますが、これらの遺跡は絶対に住居跡ではありません。このように、①仁徳天皇陵の位置は鉱山や、縄文遺跡とされる敷石のある遺跡と強い幾何学的関係があります。ここでまた、これらの縄文遺跡や鉱山は、本来仁徳天皇陵とは関係ないものが、偶然にこのようになっただけと考える人が多いに違いありません。しかし、この考えも常識にとらわれた浅はかな考えであることが後にわかってきます。


 
 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
出発 神岡坑口 岐阜県飛騨市神岡町和佐保 36.350009,137.313738 35.826959,138.746174 362100.03 1371849.46
経由 甲斐金山遺跡黒川金山 山梨県甲州市塩山一ノ瀬高橋 35.790073,138.847146 35.790073,138.847146 354724.26 1385049.73 89.93
到着 譲原石器時代住居跡 群馬県藤岡市譲原1089 36.143220,139.040510 36.143220,139.040510 360835.59 1390225.84
到着 譲原石器時代住居跡 群馬県藤岡市譲原1089 36.143220,139.040510 36.143220,139.040510 360835.59 1390225.84
経由 甲斐金山遺跡黒川金山 山梨県甲州市塩山一ノ瀬高橋 35.790073,138.847146 35.790073,138.847146 354724.26 1385049.73 90.27
出発 田端遺跡 東京都町田市小山町3067-4 35.601006,139.363573 35.601006,139.363573 353603.62 1392148.86
 「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標
 図-F6 さらに⑥金山遺跡を共有して⑨神岡坑口とから⑩田端遺跡直角線が譲原石器時代住居跡に到着する


2019.6.4 記


★仁徳天皇陵を虚大古墳などと侮り、無視し続けた人たちの完な敗北

  図-F7は仁徳天皇陵から出発する直角線を示します。そのすべての線が縄文遺跡または鉱山に到着しています。事実は小説よりも奇なりを地で行くような図ではないでしょうか。仁徳天皇陵の位置は縄文時代の貴重な遺跡と鉱山の位置で決まっていたのです。このような特異な配置は全国くまなく探しても絶対に見つかりません。このように重要な位置に仁徳天皇陵があることはまぎれもない事実です。これは九州王朝論に入れ込み過ぎて仁徳天皇陵を無視してきた人たちの完璧な敗北を意味します。

参照  虚大古墳の時代

  ここで、⑬チカモリ遺跡⑮桜町遺跡、⑭米泉遺跡は日本ではこの地域にしかない珍しい環状木柱列です。最も大きい環状木柱列である真脇遺跡は図の領域外にあり、後の説明に登場してきます。ここで名古屋大学の山本直人教授の主張されていたすべての環状木柱列が仁徳天皇陵の位置に関係していることになります。

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ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
出発 寸沢嵐石器時代遺跡 神奈川県相模原市緑区寸沢嵐 35.599620,139.224390 36.185427,137.620447 353558.63 1391327.80
経由 チカモリ遺跡 石川県金沢市新保本5?47 36.556280,136.605040 36.556280,136.605040 363322.61 1363618.14 89.72
到着 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.735614,136.144710 343353.63 1352916.76
到着 阿久遺跡 長野県諏訪郡原村柏木 35.964598,138.189905 36.506984,136.724818 355752.55 1381123.66
経由 米泉遺跡 石川県金沢市米泉町二丁 36.544611,136.623250 36.544611,136.623250 363240.60 1363723.70 90.80
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.735616,136.144711 343353.63 1352916.76
到着 船田石器時代遺跡 東京都八王子市長房町360 35.657606,139.298117 36.269466,137.857087 353927.38 1391753.22
経由 桜町遺跡 富山県小矢部市桜町 36.688830,136.869440 36.688830,136.869440 364119.79 1365209.98 89.59
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.891259,136.350696 343353.63 1352916.76
到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.529071,137.806220 360250.82 1390625.85
経由 吉崎・次場遺跡 石川県羽咋市鶴多町 36.905492,136.789320 36.905492,136.789320 365419.77 1364721.55 89.06
出発 仁徳天皇稜 大阪府堺市堺区大仙町 33.966497,131.542346 36.823200,136.743580 335759.39 1313232.45
到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.405141,138.470815 360250.82 1390625.85
経由 不動堂遺跡1号 富山県下新川郡朝日町横水 36.920531,137.553710 36.920531,137.553710 365513.91 1373313.36 89.92
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 36.184901,136.908642 343353.63 1352916.76
到着 神岡鉱口 岐阜県飛騨市神岡町和佐保 36.350034,137.313749 36.408484,137.933197 362100.12 1371849.50
経由 滝沢石器時代遺跡 群馬県渋川市赤城町滝沢 36.513088,139.040361 36.513088,139.040361 363047.12 1390225.30 89.61
出発 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.047451,139.107180 360250.82 1390625.85
到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.047451,139.107180 360250.82 1390625.85
経由 譲原石器時代住居跡 群馬県藤岡市譲原1089 36.143220,139.040510 36.143220,139.040510 360835.59 1390225.84 90.52
出発 仁徳天皇稜 大阪府堺市堺区大仙町 33.966497,131.542346 35.711239,138.068209 335759.39 1313232.45
到着 矢瀬遺跡(半裁木柱列) 群馬県みなかみ町月夜野 36.696816,138.982201 36.468528,139.061653 364148.54 1385855.92
経由 田端遺跡 東京都町田市小山町3067?4 35.601006,139.363573 35.601006,139.363573 353603.62 1392148.86 90.21
出発 玉石甌穴 長崎県北松浦郡小値賀町班島郷 33.212180,129.025550 35.356013,138.303309 331243.85 1290131.98
到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.405141,138.470815 360250.82 1390625.85
経由 不動堂遺跡1号 富山県下新川郡朝日町横水 36.920531,137.553710 36.920531,137.553710 365513.91 1373313.36 89.92
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 36.184901,136.908642 343353.63 1352916.76
 「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標
 図-F7 仁徳天皇陵を出発する正確な直角線、その全てが縄文遺跡または鉱山に到着する
⑭米泉遺跡の補正内角の計算に誤りが見つかりました。内角の表示と表を訂正ました。この計算では阿久遺跡の中心位置をまだ見つけて
いないので、地理院の地図の遺跡位置(中央自動車道よりも北側)をそのまま使用しています。HSCPで遺跡の神社群中心位置を見つけた時
点で再度計算し直します。現在よりも直角に近い補正内角になるものと考えています。2019.6.23

2019.6.9 記


  ここで、図-F7で⑤雪倉岳の万年雪を説明したとき、まさか近畿の古墳の位置を決定するとき、北陸の山岳の位置を参照するなど、とんでもないと言っていた人たちに聞きます。図-F7で紫色の線で示したように㉔神武天皇陵(畝傍山東北陵)から⑤雪倉岳を経由して㉓和銅遺跡露天堀跡に89.82度の直角線が到着しています。このような直角が偶然に起きる大雑把な確率は1/800です。しかもその到着点㉓は仁徳天皇陵を出発して⑧譲原石器時代遺跡、⑲不動堂遺跡1号、⑳吉崎・次場遺跡遺跡を経由して収斂する点㉓和銅遺跡露天堀跡と同じである確率も併せると偶然では決して起きないことは誰でもわかるでしょう。ちなみに、このような精度で⑤雪倉岳を経由して㉓和銅遺跡露天堀跡に到着する古墳は他にありません。これは、㉔神武天皇陵が和銅遺跡と⑤雪倉岳の位置を考慮して決めていることを意味します。それに近い値を示す古墳とその補正内角を示すと、箸墓古墳89.58゜、崇神天皇陵89.68゜、衾田陵89.79゜となります。

参考に次の表を添付します。

次の表は先の説明に用いた数値の詳細です。収斂する点㉓

ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.285874,138.675493 360250.82 1390625.85
経由 雪倉岳 富山県朝日町山崎 36.794723,137.753962 36.794723,137.753962 364741.00 1374514.26 89.82
出発 神武天皇陵(畝傍山東北陵) 奈良県橿原市大久保町 34.497485,135.787969 36.052743,137.118992 342950.95 1354716.69

次の表はすでに図-F2で用いたものですが、⑤雪倉岳は九州からも参照されているのです。近畿から参照されても少しも不思議ではないのです。

ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 古富士ポイント       静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 36.006131,138.292482 352100.83 1384425.37
経由 雪倉岳 富山県朝日町山崎 36.794723,137.753962 36.794723,137.753962 364741.00 1374514.26 89.96
出発 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 36.364810,136.771888 333222.97 1301905.37


★仁徳天皇陵の位置は荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の位置にも関係していた

ついでに、驚く表をお見せします。

ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.045632,133.912942 343353.63 1352916.76
経由 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 35.359854,132.883410 35.359854,132.883410 352135.47 1325300.28 90.14
出発 黒尊岳(908.6m) 鹿児島県肝付町北方 31.295527,130.993885 34.517074,132.491604 311743.90 1305937.99


  ここで黒尊岳は図-F3にあるように吉武樋戸遺跡の干字状パターンの一部です。加茂岩倉遺跡は日本最多39口の銅鐸が埋蔵されていたポイントも吉武樋戸遺跡と仁徳天皇陵の位置が考慮されて決められていたのです。90.14度の内角が偶然に起きる大雑把な確率は1/700です。

 加茂岩倉遺跡は実際に行くとわかりますが、深い山のしかも急な傾斜地にあります。たまたま、農道を作るときに発見されたのですが、この道路工事がなかったら永久に発見されることがなかったでしょう。銅鐸がなぜこのような場所に埋められていたのかは全くの謎でした。もちろん、埋められた場所だけでなく、埋められた理由も全国の研究者、学者が束になってかかっても全くわかっていません。その後、2015年4月に兵庫県南あわじ市で見つかった銅鐸の一つが加茂岩倉遺跡で見つかった39口の銅鐸の一つと同じ鋳型を使っていることがわかったものの、これまでの謎を解明するには至っていません。

  このような状況下で、加茂岩倉遺跡の位置が仁徳天皇陵と吉武樋戸遺跡の位置と関係していると言われても、すぐに信ずる人はいないでしょう。確かに、先の表だけからはまだ信じてもらえないかも知れません。そこで、次の表を用意しました。
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 35.359854,132.883410 35.359854,132.883410 352135.47 1325300.28
経由 最上位経王大菩薩 島根県出雲市十六島町 35.466800,132.755580 35.466800,132.755580 352800.48 1324520.09 90.16
出発 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 34.841563,131.966084 333222.97 1301905.37

これでも、まだ、理解できない人がいるかも知れません。しかし、もうすぐ九州王朝説は完全に崩壊します。これを弁護するための詭弁 虚大古墳の時代も単なる妄想になります。

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2019.6.18 記
 


ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 最上位経王大菩薩 島根県出雲市十六島町 35.466800,132.755580 35.466800,132.755580 352800.48 1324520.09
経由 荒神谷遺跡(右、銅矛16) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376545,132.852470 35.376545,132.852470 352235.56 1325108.89 89.93
出発 正一位稲荷大明神 福岡県北九州市若松区百合野町3-1 33.897071,130.783702 34.784966,132.025372 335349.46 1304701.33
到着 最上位経王大菩薩 島根県出雲市十六島町 35.466800,132.755580 35.466800,132.755580 352800.48 1324520.09
経由 荒神谷遺跡(左、銅戈6) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376506,132.852410 35.376506,132.852410 352235.42 1325108.68 89.96
出発 正一位稲荷大明神 福岡県北九州市若松区百合野町3-1 33.897071,130.783702 34.785003,132.025330 335349.46 1304701.33
到着 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.059771,133.881064 343353.63 1352916.76
経由 荒神谷遺跡(右、銅矛16) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376545,132.852470 35.376545,132.852470 352235.56 1325108.89 89.57
出発 黒尊岳(908.6m) 鹿児島県肝付町北方 31.295527,130.993885 34.532584,132.468211 311743.90 1305937.99
到着 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.059771,133.881064 343353.63 1352916.76
経由 荒神谷遺跡(左、銅戈6) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376506,132.852410 35.376506,132.852410 352235.42 1325108.68 89.58
出発 黒尊岳(908.6m) 鹿児島県肝付町北方 31.295527,130.993885 34.532613,132.468100 311743.90 1305937.99
到着 荒神谷遺跡(右、銅矛16) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376545,132.852470 35.376545,132.852470 352235.56 1325108.89
経由 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 35.359854,132.883410 35.359854,132.883410 352135.47 1325300.28 89.79
出発 若宮神社(御領貝塚) 熊本県熊本市南区城南町東阿高 32.698026,130.723110 34.610216,132.275009 324152.89 1304323.20
到着 荒神谷遺跡(左、銅戈6) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376506,132.852410 35.376506,132.852410 352235.42 1325108.68
経由 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 35.359854,132.883410 35.359854,132.883410 352135.47 1325300.28 89.68
出発 若宮神社(御領貝塚) 熊本県熊本市南区城南町東阿高 32.698026,130.723110 34.610216,132.275009 324152.89 1304323.20
注;荒神谷遺跡の左右は、遺跡展望地から見た遺跡方向を示す。

  先の表にある最上位経王大菩薩は島根県の十六島町(ウップルイチョウ)と呼ぶ謎の名を持つ町にある社です。この社は延喜式神名帳にもないどころか、誰も注目していなかった神社ですが、出雲地方の神社間に引いたHSCP線からは、この地域の神社のはじまりを示していますこの神社のはじまりの頃にはまだ出雲大社はなかった可能性が高いのです。同じように、対馬の鰐浦でも本宮神社と呼ぶ延喜式人名帳にも載っていない神社がありますが、HSCPから見ると対馬の神社のはじまりの神社であると同時に天皇陵直線配置の延長線にもある神社です。どちらも、日本の神社のはじまりではないかと本気で考えていた時期もありましたが、その後神社のはじまりは長崎県北松浦郡小値賀町班島郷の斑島にある玉石甌穴であると結論を出しています。しかし、最上位経王大菩薩と本宮神社は今後の説明と深く関係して行きます。蛇足になりますが、はったりで線を引くレイラインの手法では、このような神社を決して見つけることができません。

 
正一位稲荷大明神は図A2
赤村後円中心を含むT字状パターンで示し、卑弥呼の墓と断定した赤村後円中心の干字状パターンの一段目北側の端点になっています。また、黒尊岳は図-F3で示した吉武樋戸遺跡の干字状パターンの一段目南側の端点になっています。ここから見ると、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は卑弥呼、仁徳天皇、吉武樋戸遺跡に埋葬された人などと何らかの関係があることを窺うことができます。後に説明しますが、吉武樋渡遺跡にあった帆立貝式古墳の向きは箸墓古墳の向きと一致している可能性が出てきたので、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は箸墓古墳とも何らかの関係があったことも推測できます。

  ここまで、図-F7を使って仁徳天皇陵と主に東日本の遺跡や鉱山の関係を説明し、ついでに荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の位置の謎も説明してきました。これは、これまで誰も説いたことのない驚く事実になりました。この事実だけでも、先の詭弁にある仁徳天皇陵は「
土着の豪族」が造ったとする説が如何に滑稽であるかがわかるでしょう。図-F1(改)は仁徳天皇が万年雪のある雪倉岳の万年雪を氷室に貯蔵し、真夏でもでもオンザロックを楽しんでいたとする発想からスタートした図です。ここから図-F5に見られるように、銅や金鉱山に関係している可能性に発展することができました。しかし、図-F7のようになると、線が多くなり、文系の人には嫌われる図になってしまいました。図-F7はまだこれでも多くの重要な線を省略しているのです。ここで文系の人でも理解できるように、もう一度元に戻って単純化したものが図-F8です。

 2019.6.25 記




仁徳天皇陵の別の姿

 
 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 本山坑跡 栃木県日光市足尾町本山 36.664232,139.436942 35.972063,136.194015 363951.24 1392612.99
経由 三柱神社 京都府京丹後市丹後町筆石 35.743230,135.121890 35.743230,135.121890 354435.63 1350718.80 90.17
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 34.868613,135.393645 343353.63 1352916.76
到着 三柱神社 京丹後市丹後町筆石沖岡117 35.743230,135.121890 35.438704,135.216516 354435.63 1350718.80
経由 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 34.564897,135.487990 343353.63 1352916.76 90.06
出発 斑島玉石甌穴 長崎県北松浦郡小値賀町班島郷 33.212180,129.025550 34.343959,134.432496 331243.85 1290131.98
到着 三柱神社 京都府京丹後市丹後町筆石 35.743230,135.121890 35.671639,135.220090 354435.63 1350718.80
経由 大岩山銅鐸出土地 滋賀県野洲市小篠原 35.071972,136.042500 35.071972,136.042500 350419.10 1360233.00 89.55
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 34.564897,135.487990 343353.63 1352916.76
  「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標
 図F-8 斑島玉石甌穴(おのごろ島)を出発した線は仁徳天皇陵と二柱神社を経由して足尾銅山の本山坑跡に到着する

 
図F-8は私がおのごろ島であると主張している神社のはじまりがある五島列島小値賀島の属島斑島の玉石甌穴ら出発した線が仁徳天皇陵を90.06゜の極めて高い直角角精度で曲がり、丹後の三柱神社(土産山古墳)に到着し、ここで再び90.17゜の素晴らしい直角精度で曲がり、足尾銅山にある本山坑跡に到着している様子を示したものです。経由点の三柱神社はリンクにあるように古墳の頂上にある神社です。神社の歴史に詳しい人は、籠神社またはこの神社の奥宮である真名井神社の間違いではないかと考える人も多いと思いますがここは間違いではありません。この結線を偶然またはハッタリで引いた線ではないかと思う人もいるでしょう。しかし、この図に表示したポイントのすべてが神社群中心の特性を持っていることを知れば決して偶然やハッタリの線ではないことを納得できるでしょう。

 
くどいようですが、90.06の直角精度が偶然にして起きる大雑把な確率は1/1600です。さらに、線分である仁徳天皇陵-三柱神社に対するピギーバック点は大岩山銅鐸出土地点になっています。ここからは日本で最大の銅鐸が出土しています。銅鐸には謎が多く、その埋蔵された位置についてはこれまで学者も全く言及することができませんでした。その位置に対して何らかの説明ができたのはこのページがはじめてです。

 
負け嫌いの人はこのような線は簡単に見つけられると言うに違いありません。それなら、同じような特性を持つ線をぜひ見つけてください。実際に試して見れば、一生かかっても見つけられないことを知って必ず負けを実感するはずです。もし、九州王朝説の古田武彦先生が、この図を見ていれば、仁徳天皇陵は「土着の豪族が造ったものだ」と苦しい答弁をしなければならないような間抜けた説を説くことがなかったと考えています。
先生の主張された「おのごろじま」、「天孫降臨の地」も間違いであったことをすでに掲示板で明らかにしています

 
少し脱線してしまいましたが、図-F8やF6、F7から仁徳天皇陵には、金鉱山、銅鉱山に関係した人、言い換えれば関東の鉱山を手中にした人が埋葬されている可能性が高く、最も重視した鉱山が本山坑口のある足尾銅山であったことがわかります。同じ発想から三柱神社のある土産山古墳
に埋葬されている人は、銅鉱山に関係した人が埋葬されていることになりますが、予測に反して鉄器も埋葬されています。ちょうど銅から鉄器に移り変わった時期の墓と見るか、銅製品で権威を奮っていた人の墓の上に、鉄器によってそれを倒した人の墓ができたとの考えもあります


 
これは非常に重要なことであり、さらなる検討が必要と考えています。重要な位置にあるはずの吉武樋戸遺跡が単なる集団墓と断定された例もあり、このあたりは簡単ではありません。そもそも、肝心の仁徳天皇陵は図-F7を見る限り、この位置には縄文時代の遺跡である巨大木柱やストーンサークルなどがあるはずの位置にピッタリと巨大古墳の後円中心があるのです。不思議としか言いようがありません。この位置を縄文時代から古墳時代まで営々と守ってきた人がいたのか、それとも滅ぼされた人の墓の上に征服者が古墳を造ったのか定かではありません
2019.7.1

 
ついに仁徳天皇陵は世界遺産に登録されました。すばらしい快挙です!!。

登録に関係された関係者、これを支えてこられた皆様にお祝いを申し上げます。

  ところで、仁徳天皇陵を「土着の豪族の墓」と決めつけて、九州王朝説の論戦を切り抜けてきた、T**会と呼ぶ古代史の会の旧幹部連中は今頃痛飲をしている頃でしょう。自浄作用の働くことのなかったこの会の行く末が案じられます。飲み過ぎないように注意をしてください。そう言っている管理人もすでに祝い酒を飲み過ぎています。

  世界遺産登録の記念日と一日違いになりましたが、明日は私的なことでも特別の日です。この二つに合わせて九州王朝説崩壊の理由を書く予定です。古い話を蒸し返すことになりますが、ここで「
偽書」東日流外三郡誌も登場する予定です。

 2019.7.6 記


 
今日は予定外のことがたくさんあり、NHKのテレビ「いだてん」が終わった時間になってから書き始めることになってしまいました。まだ豪華な刺し身や酒もキーの脇にあります。変なことを書かないように加減しながらキーを打ったり飲んだりしています。

 
ところで九州王朝説の終焉を示す図はすでに図F-8にあったのです。なぜかと言うと大岩山銅鐸が出土した位置は仁徳天皇陵と三柱神社の位置で決まっています。銅鐸が埋められた時期はこれまで大きな謎になっていました。ところが、松帆銅鐸に付着していた植物体の放射性炭素の年代測定の結果
が紀元前2世紀から21世紀とでました。この誤差については専門家に委ねるとして、ここではその最小値を取り上げても銅鐸が埋蔵された時期が紀元前であることは間違いないとすることができます。当然のことですが、銅鐸の埋葬された時期には、これまでの図F-1、F-5からF-8までに書いた①仁徳天皇の位置には古墳はなかったことになります。図-F7から見てもわかるように、この位置は縄文時代までつながる聖地だったのです。仁徳天皇陵がこのような聖地にあるとは全く知らず、土着の豪族の墓と決めつけた滑稽な説が九州王朝説の始まりだったのです。万世一系を掲げていた明治期に、これが明らかになっていたとしたら、不敬罪で牢屋に入れられるところだったでしょう。

 
これに対する反論はおそらく次のようになるでしょう、図-F7は作為的な図で大岩山銅鐸出土の位置に合わせて、都合の良いような位置にある三柱神社見つけただけだ。本当は近傍にある
籠神社ではないのか?。そうですね、その通りです。レイラインの手法ではおそらく籠神社に線を引くでしょう、レイラインの手法は最初からこのようにはったりで有名な神社に線を引くから失敗するのです。現在有名だったり、延喜式内社であっても、はたしてその神社が神社のはじまりのときに、存在していたかどうかの保証はないのです。私の説明で頻繁に登場する本宮神社(長崎県対馬市上対馬町鰐浦531)、最上位経王大菩薩 (島根県出雲市十六島町)、温川神社(青森県平川市切明)などは古代は重要な神社であったものの、研究をはじめた頃は実際にそこまで行ってみなければ名前もわからず、逆に地図会社へこちらから情報を提供をするような状況でした。図F-8に示した三柱神社も例にもれず、Wikipediaでも三柱神社のリンクに載っていません。しかし、この神社が如何に大切だったかはもうすぐ明らかになります。まだ確かめていませんが、三柱神社の多くは明治期にこの神社名に強制的に変更させられたと聞いています。変更前の神社名は明治政府に取っては不都合な神社名だったようです。

 
しつこく書きますが、このような名前の知られてない神社はレイラインの手法では絶対に見つけられないのです。これがレイラインの手法の決定的な欠陥となって使い物になりません。HSCPの手法では神社のすべてに規則通りの線を引くと、ランダムに見えた神社配列の中から見事な規則的な姿が見えて来るのです。この作業はとても手間のかかる作業です。簡単に引いたように見える線からは、その苦労は全く見えないことを知ってください。


 
前置きが長くなってしまいましたが、
九州王朝説が一目瞭然で崩壊する図を次に示します。


面倒な計算も全部終わりました、現在図を書いている最中です。明日になってしまいますができ次第アップロードします。

2019.7.7  記

★九州王朝説が一目瞭然で崩壊する図
まず、仁徳天皇陵を出発し銅鐸埋蔵地点を経由する直角線を図F-9に示しました。先に書いたように、経由点である銅鐸埋蔵地点はどんなに新しく考えても紀元前に設定された銅鐸埋蔵地点の配列です。もちろん、この時点ではまだ古墳が造られていません。このときでも、すべての銅鐸埋蔵地点が仁徳天皇の位置を考慮してその位置が決められて埋蔵されているのです。小銅鐸しか発見されていない九州にも直角線が到達し、その到達点も天孫降臨地点とした高千穂峰や図-F3で示した吉武樋戸遺跡の干字状パターンの一段目・南端点である黒尊岳に到着していることに注目してください。ここには、九州の王朝どころか、多元王朝の姿も全く見えません

 
◎ 九州王朝説を未だに唱えている人達にお聞きします。
 
 
すでに紀元前でも銅鐸祭祀の中心であった仁徳天皇陵の位置が、なぜ土着・豪族の墓に成り下がってしまったのでしょう。その理由をお聞かせください。
もし、何ら答弁をお聞かせできないとしたら、九州王朝説は完璧に破綻したことになります

◎この部分は2019.7.16にgoogleから検索可能になりました。しかし、2023年月7日現在、反論は皆無です。「真実は一つです」

反論やご意見がありましたら管理人宛連絡フオームからお願いいたします。


 
仁徳天皇陵は紀元前からあった聖地に造られました。九州王朝説はこの事実を知らず、土着豪族の墓と決めつけた滑稽な説です
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 寸沢嵐石器時代遺跡 神奈川県相模原市緑区寸沢嵐 35.599620,139.224390 35.037806,136.473913 353558.63 1391327.80
経由 栄根遺跡(銅鐸出土地) 兵庫県川西市加茂一丁目 34.820496,135.410050 34.820496,135.410050 344913.79 1352436.18 89.51
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 34.564897,135.487990 343353.63 1352916.76
 
到着 中大塚縄文時代敷石遺構 群馬県藤岡市中大塚1093-2 36.249393,139.049344 36.249393,139.049344 361457.81 1390257.64
経由 柳沢遺跡(銅鐸出土地) 長野県中野市大字柳沢 36.802214,138.357378 36.802214,138.357378 364818.24 1382130.64 90.85
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 36.177066,137.553805 343353.63 1352916.76
   
到着 本山坑跡 栃木県日光市足尾町本山 36.664232,139.436942 35.972063,136.194015 363951.24 1392612.99
経由 三柱神社(土産山古墳) 京都府京丹後市丹後町筆石 35.743230,135.121890 35.743230,135.121890 354435.63 1350718.80 90.17
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 34.868613,135.393645 343353.63 1352916.76
   
到着 北代遺跡(1号高床跡) 富山県富山市北代 36.717478,137.186520 35.436355,135.930045 364302.92 1371111.47
経由 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 34.734242,135.241431 34.734242,135.241431 344403.27 1351429.15 90.73
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 34.564897,135.487990 343353.63 1352916.76
 
到着 黒尊岳(908.6m) 鹿児島県肝付町北方 31.295527,130.993885 34.517074,132.491604 311743.90 1305937.99
経由 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 35.359854,132.883410 35.359854,132.883410 352135.47 1325300.28 90.14
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.045632,133.912942 343353.63 1352916.76
   
到着 高千穂峰 宮崎県高原町大字蒲牟田 31.886213,130.918992 34.700454,132.524676 315310.37 1305508.37
経由 志谷奥銅鐸銅戈出土地 島根県松江市鹿島町佐陀本郷 35.516518,132.990264 35.516518,132.990264 353059.46 1325924.95 89.76
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.136500,133.987707 343353.63 1352916.76
  「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標
桜ヶ丘銅鐸出土地は鉄塔の写っている出土時の写真から位置を推定(正確な出土時の位置データは存在しない)
 図F-9 仁徳天皇陵を出発し銅鐸埋蔵地点を経由する極めて正確な直角線

今回はこの図とその説明で終わりますが、まだまだ驚くことが続きます。

図f-9とは別に★青銅器埋蔵地点から見た紀元前後の青銅器祭祀でも九州王朝説の間違いを説明し て行く予定です。2019.12.16追記

このページは現在編集中です。

2019.7.8 記


  さて次に驚く事実を続いて書く予定なのですが、肝心の銅鐸出土位置の正確な緯度・経度の値がなかなか集まらないのです。暫定位置ではとても良い結果が出ていますが、どうせ発表するなら、正確な値を書きたいと考えています。いつも思うのですが、考古学者はものすごく詳しい発掘報書を書きますが、肝心の位置の緯度・経度には全く無関心なことが多いのです。大抵の博物館はそのデータを持っていません。考古学者がご自分の足元しか見ていない証拠です。図-F9のように日本全体の広い視野で見ると、これまでなかったすばらしい知見が得られます。
 
  同じように、古田先生の研究は誰にも負けないすばらしいものがあるのですが、ある特定の地域にのめり込んでしまう癖があります。そして、研究の対象となる地理的な範囲を勝手に狭めてしまうのです。この癖が大きな失敗につながってしまったと考えています。

  例えば、天孫降臨地に関して次のように述べて高千穂の峰を否定しています。

では、この「日向」とはどこだろう。それは(2)、(6)の「筑紫(竺紫)の日向の」という表現で明らかだ。つまりこの筑紫は福岡県、それも筑前なのである。 それについて、従来の学者、さらには宮崎・鹿児島両県の地元の人々から大きな非難がおこるかもしれない。しかし、どのようにはげしい罵声を浴びようとも、わたしのなすべきことは一つ。自己の解読のルールを守ることだけだ。

  実は、これが間違いであることを掲示板のNo225からNo233で示しています。この主張に関して現在まで反論は皆無です。それよりも、以前から公開していた天孫降臨地に関する古田先生の論文がいつの間にかネットから消されてしまい、現在は参照することができなくなってしまいました。関係者が古田先生の間違いを認めてネットから消したのでしょう。
 
  ではなぜ、このような大間違いをおかしたのでしょう。最も簡単な理由は「
自己の解読ルール」が間違っていたことになります。という事は、この解読ルールで書かれた古田先生の著作はでたらめだと言うことになり、身も蓋もないことになってしまいます。そこで、その原因をさらに考えて見ると、福岡県の糸島に神降神社が異常に多いとした情報に飛びついてすっかり糸島にのめり込んでしまったのです。そうすると宮崎のことなどすっかり忘れてしまったのでしょう。そのような状態で結論を出せば、どうしてもおかしな結論になってしまいます。

  のめり込み方の異常さの例では、「糸島の神降神社の配置は配置が規則的で意味がある」とした言葉が残っています。実際糸島にある神降神社を全部回ってみましたが、とても規則的と感じることはできません。ましてやそこに、意味があると考えることなどとても無理だとわかります。そうです、先生は興味のある場所に出会うと恋に落ちてしまうのです。そのとき、突然に視野が狭くなって間違いを起こしてしまうのです。このとき、図-F9を見てくれればその恋も冷め、素晴らしい結論を出していただけたと思うと残念でなりません。
 
  もうひとつの問題は「
自己の解読ルール」にあるかどうかわかりませんが、難しい問題に、適切な解が見つからないとき、必ずと言っていいほど語呂合わせや何だか訳のわからない「縄文語」と言う言葉を勝手に作って読者を納得させる癖があり、悪いことに、苦し紛れに作った言葉にもかかわらず、ご自分まで酔ってしまうのです。

  その好例がおのごろ島の比定です。この比定の間違いも掲示板のNo210、No211、「★赤村の丘陵は卑弥呼の墓、玉石甌穴のある斑島はおのごろ島
に書いてあります。語呂合わせで決めた古田先生の説はネットでも参照できたのですが、いつの間にかこれも消されてしまいました。この語呂合わせの古田説は「盗まれた神話」の第13章にあります。自説のおのごろ島=玉石甌穴についてはわずかの反論がありましたが、納得していただけたと考えています。「こおろこおろ」の解釈では、私の説が語呂合わせの古田先生よりもまさったのです。

  ついでに、先生の間違いに何の対策もせず、大笑いされるような、虚大古墳説を拡散させてしまった責任は東京古田会の
元幹部H氏と会を私物化しているA氏をはじめとしてその他大勢にあります。自浄作用の全く働かない会ですから、これらの人たちは誰も責任を取らず、いつまでも会に居残るでしょう。そのときは、惰性で居残るのではなく、私の説を論理的に潰すことです。もちろん、これまでのように卑怯で陰険、横柄なやりかたでなければ、それが最良の責任のとり方です、期待して待っています。

  最初にやるべきことは「
紀元前に、すでに銅鐸祭祀の中心であった仁徳陵の位置が、なぜ土着豪族の墓に成り下がったか」の経緯を説明する必要があります。しかし、古田先生の説は時間軸で見ると断片的で、通史を作ることが難しいとする問題もあります。このような問題のある説で、先の経緯を説明することは困難が伴うことは当然承知しているでしょう。会の総力をあげて、がんばってください。


2019.7.10  記 


★三柱神社から出た線が吉野ヶ里銅鐸出土地を経由して対馬の曽根崎神社に到着

 
 図-F10 三柱神社を出た線は吉野ヶ里銅鐸出土地を経由し90.16度の素晴らしい直角精度で対馬の曽根崎神社に到着

  図-F9では九州には高千穂峰と黒尊岳の到着点が二つありますが、経由点がありません。これは掲示板のNo306に書いたように、吉野ヶ里の銅鐸出土位置の正確な値が不明であったので、まだ書いていませんでした。その後、佐賀県文化課文化財保護室からその正確な位置が連絡ありました。その結果を図F-10に示します。ここでは、三柱神社を出た桃色の線は吉野ヶ里銅鐸出土地を経由して、90.16度のすばらしい直角精度で対馬の曽根崎神社に到着します。一方、仁徳天皇陵を出発した線が三柱神社を経由して89.88度の極めて正確な直角精度で曽根崎神社に到着しています。曽根崎神社は図-35神社群中心曽根崎神社の干字状パターンにある神社群中心です。曽根崎神社には三柱神社と吉野ヶ里銅鐸出土地の二つの経由点を経由した正確な直角線が到着していることになります。このような事象は偶然では決して起きない特異なことです。

  曽根崎神社→三柱神社→本山坑跡の線は図では少し曲がったように見えますが、これは立体の地球を平面の地図に投影するときの歪であり、実際の地球上では曽根崎神社から真っ直ぐ三柱神社に向かい、三柱神社に到着したら更にそのまま真っ直ぐ進むと本山坑跡に到着することを意味しています。

  一方、私がおのごろ島であると主張している斑島玉石甌穴に到着する線は、三柱神社を出て仁徳天皇陵で経由するとき、90.06度の極めて高い直角精度になっています。また、三柱神社から仁徳天皇陵を経由して伊勢原石器時代第二号敷石住居跡に到着する線も90.09度の極めて高い直角精度になっています。斑島玉石甌穴→仁徳天皇陵→伊勢原石器時代二号敷石住居跡の線も同じように地球上では斑島玉石甌穴から真っ直ぐ仁徳天皇陵に進み、仁徳天皇陵からさらに真っ直ぐ進むと伊勢原石器時代二号敷石住居跡に到着することを意味しています。

  伊勢原石器時代第二号敷石住居跡からは、和銅遺跡露天掘跡から89.77度の直角精度で世界遺産でもある沖ノ島の沖津宮に到着します。伊勢原石器時代二号敷石住居跡は果たしてここが遺跡の中心かどうかは、今の所不明です。もしかしたら、伊勢原石器時代遺跡の真の中心位置は現在公園になっている遺跡跡ではなく、仁徳天皇陵から引いた線の延長線上の更に東側(八幡神社の北側)にあるのかも知れません。 

 また、仁徳天皇陵を出て熊野新宮神社を経由する線は89.53度で斑島玉石甌穴に到着しています。この熊野新宮神社は図-F1(改)に示すように、線分の①仁徳天皇陵と②富士写ヶ岳のピギーバック点にあることを説明しましたが、同時に線分、仁徳天皇陵-斑島玉石甌穴のピギーバック点にあることを示しています。図-F8も併せて参照してください。また、これも後に説明する予定ですが、富士写ヶ岳、恩智銅鐸出土地、桜ヶ丘銅鐸出土地には下記の極めて正確な特性が存在します。
出発地と経由地に同じ形式・文様の銅鐸が埋蔵されていました。

★銅鐸出土地と形式、文様、内角
2019.7.30 出発地と到着地を揃えて見やすくしました。新たに追加された銅鐸埋蔵位置の幾何学的特性もあります


出発地と経由地または経由地と到着地の形式・文様が一致している例です。
出発 桜ヶ丘銅鐸出土地   兵庫県神戸市灘区高羽 扁平鈕式、6区袈裟襷紋5口、2区流水紋2口       
経由 恩智銅鐸出土地 大阪府八尾市恩智中町四丁目 扁平鈕式、6区袈裟襷紋、2区流水紋
 到着  富士写ヶ岳 石川県加賀市山中温泉枯渕町    
補正内角 89.88度


出発 中の御堂遺跡銅鐸出土地 兵庫県南あわじ市松帆慶野483-7  外縁紐1式、4区袈裟襷文1口
経由 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 外縁紐1式、4区袈裟襷文1口
到着 若宮神社(御領貝塚) 大分県宇佐市南宇佐
補正内角 90.12度


出発 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 扁平紐式、6区袈裟襷紋5口
経由 神宅字山田98銅鐸出土地 徳島県板野郡上板町神宅山田98 扁平紐式、6区袈裟襷紋1口
到着 志谷奥銅鐸銅戈出土地 島根県松江市鹿島町佐陀本郷 扁平紐式、4区袈裟襷紋1口
補正内角 90.02度

出発 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 外縁付紐1式、4区袈裟襷紋16口
経由 荒神谷遺跡(左、銅戈6) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 外縁付紐1式、4区袈裟襷紋4口
到着 若宮神社(御領貝塚) 熊本県熊本市南区城南町東阿高
補正内角 89.79度


到着 志谷奥銅鐸銅戈出土地 島根県松江市鹿島町佐陀本郷 扁平紐1式4区袈裟襷紋
経由 岡山市雄町銅鐸出土地 岡山県岡山市中区雄町136 扁平鈕式4区袈裟襷紋
出発 真脇遺跡 石川県鳳珠郡能登町字真脇
補正内角 90.10度
2019.8.1追加

到着 柳沢遺跡 長野県中野市大字柳沢 外縁付鈕式 流水紋
経由 下田遺跡銅鐸 大阪府堺市西区下田町32 扁平鈕式、4区袈裟襷文
出発 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 扁平鈕式、4区袈裟襷文
補正内角 90.28度
2019.8.11

出発 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 扁平紐式、4区袈裟襷紋
経由 ヒロサ銅鐸 田辺市中芳養 扁平紐式、4区袈裟襷紋
到着 吉野ヶ里銅鐸出土地 佐賀県吉野ヶ里町大曲 外縁付鈕1式、2区横帯紋+ 邪視紋
補正内角 90.06度
2019.8.16追加
出発 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 扁平紐式、4区袈裟襷紋
経由 雨乞山銅鐸出土地 和歌山県日高郡みなべ町西本庄桑谷 扁平紐式、4区袈裟襷紋
到着 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武
補正内角 89.83度
2019.8.17追加

到着 上白岩遺跡 静岡県伊豆市上白岩660
経由 井向銅鐸銅鐸出土地 福井県坂井市春江町大牧 外縁付紐1式 二・ 三区流水文
出発 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 外縁付鈕1式、2区流水紋
補正内角 90.06度
2019.8.28追加

出発 米里銅鐸出土地 鳥取県東伯郡北条町米里ゾ ウ ガ ラ 扁平鈕式四区袈裟欅文
経由 安田極ヶ谷遺跡銅鐸銅剣出土地 香川県小豆島町安田(極谷ケ谷224) 扁平紐式四区袈裟欅文
到着 崇福寺址 滋賀県大津市滋賀里町甲
補正内角 90.45度
2019.9.4追加

出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町
経由 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 扁平紐式、4区袈裟襷紋
到着 星河内美田銅鐸出土地 徳島県徳島市上八万町 扁平紐式、4区袈裟襷紋
補正内角 90.78度
2019.8.13追加

出発 井口遺跡 富山県南砺市井口
経由 大福遺跡銅鐸出土地 奈良県桜井市大字大福820 突線紐1式、6区袈裟襷紋
到着 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 扁平紐式、6区袈裟襷紋
補正内角 90.22度
2019.8.25追加

出発 三柱神社 京都府京丹後市丹後町筆石
経由 寺町昭和町銅鐸出土地 大阪府堺市西区浜寺昭和町3 扁平鈕式、6区袈裟襷文
到着 善通寺市善通寺五重塔下 香川県善通寺市善通寺町3丁目-1-4 ?、袈裟紋
 補正内角  90.59度    
2019.8.10追加  2019.8.26訂正 三柱神社は図-F9、F-10を参照

到着 米里銅鐸 出土地 鳥取県東伯郡北条町米里ゾ ウ ガ ラ 扁平鈕式四区袈裟欅文
経由 安田極ヶ谷遺跡銅鐸銅剣出土地 香川県小豆島町安田(極谷ケ谷224) 扁平紐式四区袈裟欅文
出発 崇福寺址銅鐸出土地 滋賀県大津市滋賀里町甲
補正内角 90.45度
2019.8.30追加


出発 井向銅鐸銅鐸出土地 福井県坂井市春江町大牧
経由 田村谷銅鐸出土地 徳島県阿南市山口町字未広 突線紐式六 区流水文
到着 中野仮屋/仮屋銅鐸出土地 島根県邑南町中野(島根県邑智郡邑南町中野仮屋4133) 突線鈕1式1区流水文扁平鈕式
補正内角 89.96度
2019.8.29追加

到着 雪倉岳 富山県朝日町山崎
経由 種松山銅鐸出土地 岡山県倉敷市粒江 扁平紐式、6区袈裟襷紋
出発 志谷奥銅鐸銅戈出土地 島根県松江市鹿島町佐陀本郷 扁平鈕式、4区袈裟襷紋
補正内角 90.25度
20.19.8.20追加
出発 善通寺市善通寺五重塔下 香川県善通寺市善通寺町3丁目-1-4 ?、袈裟襷文
経由 城山遺跡銅鐸出土地 島根県浜田市上府町(城山一ノ界) 扁平紐式4区袈裟襷紋区袈裟襷紋
到着 寺福童遺跡銅戈出土地 福岡県小郡市寺福童籔付
補正内角 89.82度
2019.8.26追加

出発 桜ヶ丘銅鐸出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 外縁付紐1式、2区流水紋  
経由 神於寺銅鐸出土地 大阪府岸和田市神於町171 外縁付紐1式、2区流水紋(上と同笵)  アンチモン8.32%
到着 矢野遺跡出土銅鐸 徳島県徳島市国府町矢野 突線鈕5式、6区袈裟襷紋  
補正内角 89.51度  
銅鏡、銅鐸など青銅器の科学成分 山崎一雄では神於銅鐸のアンチモン含有は否定されている
2019.8.5追加


出発地と経由地または経由地と到着地の文様が一致
出発 矢野遺跡出土銅鐸 徳島県徳島市国府町矢野 突線紐5式 6区袈裟襷襷紋
経由 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 扁平紐2式 6区袈裟襷襷紋4口
到着 吉野ヶ里銅鐸出土地 佐賀県吉野ヶ里町大曲 2区3段横帯紋+邪視紋
補正内角 90.05度  

出発 桜ヶ丘銅鐸出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 扁平紐式、6区袈裟襷紋5口、外縁付紐1式、2区流水紋2     
経由 大石銅鐸出土地 福井県坂井市春江町大牧東島    菱環鈕、袈裟襷紋1口、外縁付紐2式3区流水紋2口
到着 上白岩遺跡 静岡県伊豆市上白岩660
補正内角 90.03度

出発 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 扁平紐2式、6区袈裟襷文4口
経由 大川上美良布神社銅鐸出土地 高知県香美市香北町韮生野243 突線鈕式、6区袈裟襷紋2口
到着 弊立神宮 熊本県上益城郡山都町大野712
補正内角 89.93

出発 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 外縁付紐2式4区袈裟襷紋2口、扁平紐2式4区袈裟襷紋6口
経由 上条遺跡銅鐸出土地 島根県浜田市上府町 扁平紐1式、4区袈裟襷紋1口、外縁付紐2式、4区袈裟襷紋1口
到着 木の宗山銅鐸銅剣出土地 東区福田狐が城867の1 福田型2区横帯紋
補正内角 89.49度
2019.8.1追加
 出発 中根銅鐸発見地 愛知県名古屋市瑞穂区軍水町2 突線鈕3式、三遠式
 経由 朝日銅鐸出土地 愛知県清須市朝日貝塚40  突線鈕3~5式、近畿式・扁平鈕式、6区袈裟襷文
 到着 中津原遺跡4本柱(小) 長野県茅野市湖東  
補正内角 90.19度
2019.8.18追加
出発  加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 扁平鈕2式、6区袈裟襷文
経由 勢合銅鐸出土地 徳島県小松島市田野町金山 扁平鈕式、6区袈裟襷文
到着 神岡鉱口 岐阜県飛騨市神岡町和佐保
補正内角 90.00度
2019..8.22追加

到着 上白岩遺跡 静岡県伊豆市上白岩660
経由 井向銅鐸銅鐸出土地 福井県坂井市春江町大牧 外縁付銀l式 二・ 三区流水文
出発 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 外縁付鈕1式、2区流水紋
補正内角 90.06度
2019.8.28追加

到着 上白岩遺跡 静岡県伊豆市上白岩660
経由 井向銅鐸銅鐸出土地 福井県坂井市春江町大牧 菱環紐2式 四区袈裟欅文
出発 曲り銅鐸出土地 徳島県阿南市椿町曲 り 扁平紐式六区袈裟欅支
補正内角 89.70度
2019.8.28追加

到着 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498
経由 野々間遺跡銅鐸出土地 兵庫県氷上郡春日町野上野字野々間 扁平紐式、4区袈裟襷紋
出発 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 扁平紐2式、4区袈裟襷紋
補正内角 89.78度
20.19.7.28追加

出発地と経由地の形式が一致
到着 手石の弥陀ノ岩屋 静岡県賀茂郡南伊豆町手石
経由 久々利銅鐸(豊蔵資料館付近) 岐阜県可児市久々利柿下入会352(250) 突線鈕3~5式、近畿式・扁平鈕式、6区袈裟襷文
出発 中根銅鐸発見地 愛知県名古屋市瑞穂区軍水町2 突線鈕3式、三遠式
 補正内角  90.10度    
2019.8.18追加  久々利銅鐸の正確な出土地点は不明、仮に豊蔵資料館付近とした

出発地と到着地の文様が一致

出発 柳沢遺跡 長野県中野市大字柳沢 外縁付鈕式 流水紋
経由 善通寺市善通寺五重塔下 香川県善通寺市善通寺町3丁目-1-4 ?、袈裟襷紋
到着 荒神谷遺跡(左、銅戈6) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 外縁付鈕2式流水紋
補正内角 89.84度
20.19.7.5追加

出発 百枝月遺跡銅鐸出土地 岡山県岡山市東区百枝月(字西畑) 扁平紐式四区袈裟欅紋
経由 熊ヶ峰遺跡銅剣出土地 広島県福山市熊野町 中細形
到着 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 扁平鈕2式4区袈裟襷紋
補正内角 90.03度
20.19.7.29追加  訂正 大迫遺跡銅矛出土地→熊ヶ峰遺跡銅剣出土地 中細形 2019.11.22


出発地と経由地の文様が一致、山岳や特異地点に到着
到着 雪倉岳 富山県朝日町山崎
経由 星河内美田銅鐸出土地 徳島県徳島市上八万町 扁平鈕式、4区袈裟襷紋
出発 荒神谷遺跡(左、銅戈16) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 外縁付鈕1式、4区袈裟襷紋
補正内角 90.16度
20.19.8.20追加
到着   富士写ヶ岳  石川県加賀市山中温泉枯渕町  
経由 神於寺銅鐸出土地 大阪府岸和田市神於町171  扁平鈕式、4区袈裟襷紋
出発 荒神谷遺跡(右、銅矛16) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8  外縁付鈕1式、4区袈裟襷紋
補正内角 90.19度  
20.19.8.20追加
到着   富士写ヶ岳 石川県加賀市山中温泉枯渕町  
経由 安都真銅鐸出土地 徳島県徳島市入田町  扁平鈕式、4区袈裟襷紋
出発 荒神谷遺跡(右、銅矛16) 島根県出雲市斐川町神庭873  外縁付鈕1式、4区袈裟襷紋
補正内角 90.01度  
20.19.8.20追加
到着 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498
経由 野々間遺跡銅鐸出土地 兵庫県氷上郡春日町野上野字野々間 扁平紐式、4区袈裟襷紋
出発 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 扁平紐式、4区袈裟襷紋
補正内角 89.81度
20.19.8.23追加
出発 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 扁平鈕2式6区袈裟襷文
経由 兼安山フカタ池の上寺屋敷遺跡銅鐸出土地 岡山県井原市下稲木町 扁平紐式六区袈裟欅紋
到着 宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐
補正内角 89.82度
20.19.8.29追加

経由地と到着地のまたは経由地と到着地の形式・文様が異なる例
出発 三柱神社 京都府京丹後市丹後町筆石
経由 秋篠銅鐸出土地 奈良県奈良市秋篠町582 扁平紐1式、4区袈裟襷紋
到着 中根銅鐸発見地 愛知県名古屋市瑞穂区軍水町2 突線3式三遠式
補正内角 90.14
2019.8.13追加 三柱神社は図-F9、F-10を参照
出発 三柱神社 京都府京丹後市丹後町筆石
経由 米ヶ脇遺跡銅鐸出土地 福井県坂井市三国町米ケ脇一丁目 外緑付鈕1式、4区袈裟襷紋
到着 中根銅鐸出土地 愛知県名古屋市瑞穂区軍水町2 突線鈕3式、三遠式
補正内角 89.72度
2019.8.23追加 三柱神社は図-F9、F-10を参照


紋様がすべて異なる例

出発 栄根遺跡銅鐸出土地 兵庫県川西市加茂一丁目 突線鈕5-近畿IVB
経由 志谷奥銅鐸銅戈出土地 島根県松江市鹿島町佐陀本郷 扁平紐式4区袈裟襷紋、外縁付紐2式4区袈裟襷紋
到着 木の宗山銅鐸銅剣出土地 東区福田狐が城867の1 福田型2区横帯紋
補正内角 89.43度
2019.8.2追加
出発 崇福寺址銅鐸出土地 滋賀県大津市滋賀里町甲
経由 越路遺跡銅鐸出土地 鳥取県鳥取市久末(越路字丸山) 外縁付紐2式2区流水紋
到着 善通寺市善通寺五重塔下 香川県善通寺市善通寺町3丁目-1-4 袈裟襷文
補正内角 90.09度
2019.8.26追加

出発地と経由地の文様が異なる例
到着 雪倉岳 富山県朝日町山崎
経由 西の谷遺跡敷地3号銅鐸出土地 静岡県磐田市敷地字西の谷 突線鈕3式、三遠式
出発 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 外縁付鈕式、2区、4区流水紋または扁平鈕式4区、6区袈裟襷紋
補正内角 90.13度


経由地から同笵の銅鐸が出土した例
到着 三柱神社 京都府京丹後市丹後町筆石
経由 気比遺跡流水文銅鐸出土地 兵庫県豊岡市気比鷲崎/気比溝口 2号銅鐸は島根県加茂岩倉5号銅鐸と4号銅鐸は加茂岩倉21号銅鐸・伝大阪府陶器銅鐸・伝福井県井向銅鐸と同笵、3号銅鐸は大阪府東奈良遺跡で発見された鋳型から製作
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町
89.62度 注;東奈良遺跡の鋳型出土地は仁徳天皇陵から最上位経王大菩薩を結ぶ直角線の経由地で、その補正内角は89.80度
2019.8.11追加

出発地が銅剣や銅戈出土地で経由地が銅鐸出土地
出発 寺福童遺跡銅戈出土地 福岡県小郡市寺福童  
経由 久地峠銅鐸出土地 和歌山県みなべ町東本庄  突線鈕2式近畿I式、突線鈕2式近畿IA
到着 三柱神社 京都府京丹後市丹後町筆石  
補正内角 89.80度  
2019.8.18追加 三柱神社は図-F9、F-10を参照

出発 イズチ頭銅剣出土地 鳥取県琴浦町大字田越 中細形C類
経由 猿ノ森遺跡銅鐸出土地 岡山県井原市木之子町黒岩 扁平2式12区袈裟欅紋
到着 中川原銅鐸出土地 兵庫県洲本市中川原町清水二ツ石 菱環鈕1式
補正内角 89.09度
2019.8.26追加

出発地が銅鐸出土地で経由地が銅剣出土地

出発 中川原銅鐸出土地 兵庫県洲本市中川原町清水二ツ石  菱環鈕1式
経由 平松遺跡銅剣出土地 兵庫県作用郡南光町平松  中細形b類1
到着 宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐  
補正内角 89.73度  
2019.8.25追加

出発 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837
経由 西大土居遺跡銅剣出土地 鳥取県鳥取市西大路 中細形銅剣b類1
到着 別名遺跡銅剣出土地 兵庫県赤穂郡上郡町別名 東部瀬戸内系平型銅剣3
補正内角 90.16度
2019.8.26追加


出発 中川原銅鐸出土地 兵庫県洲本市中川原町清水二ツ石  菱環鈕1式
経由 平松遺跡銅剣出土地 兵庫県作用郡南光町平松  中細形b類1
到着 舞鶴銅鐸出土地 京都府舞鶴市字下安久  突線鈕3式、近畿近畿IICと三遠式
補正内角 89.88度  
2019.8.25追加

出発 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837
経由 羽方遺跡銅鐸銅剣出土地 香川県三豊市高瀬町羽方(西 ノ 谷2841-2) 平形銅剣 Ha式、扁平紐式六 区袈裟欅文
到着 矢瀬遺跡(半裁木柱列) 群馬県みなかみ町月夜野
補正内角 90.22度
2019.8.25追加

到着 吉崎・次場遺跡 石川県羽咋市鶴多町
経由 古津路遺跡銅剣出土地 兵庫県西淡町松帆古津路 中細形b類13
出発 荒神谷遺跡 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 中細形銅剣C類
補正内角 90.00度
2019.9.1追加


破砕銅鐸出土地がある場合
出発 久田谷遺跡破砕銅鐸出土地 兵庫県豊岡市日高町久田谷タカボコ83 突線鈕5式、新式 IV式、意図的な破砕が明確な破砕銅鐸
経由 兼基鳥坂山遺跡銅鐸出土地 岡山県岡山市 中区兼基 扁平紐2式6区袈裟襷紋
到着 最上位経王大菩薩 島根県出雲市十六島町
補正内角 90.06度
2019.8.30追加

到着 久田谷遺跡破砕銅鐸出土地 兵庫県豊岡市日高町久田谷タカボコ83 突線鈕5式、新式 IV式、意図的な破砕が明確な破砕銅鐸
経由 岩野辺遺跡破砕銅鐸出土地 兵庫県宍粟市千種町岩野辺穴尾2387 突線鈕式銅鐸(鈕の破片・現存19.6cm)
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町
補正内角 90.18度
2019.9.4追加  経由到着地地共に破砕銅鐸


経由地が銅剣出土地、到着地が銅鐸出土地

出発 中川原銅鐸出土地 兵庫県洲本市中川原町清水二ツ石  菱環鈕1式
経由 平松遺跡銅剣出土地 兵庫県作用郡南光町平松  中細形b類1
到着 宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐  
補正内角 89.88度  
2019.8.25追加

出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町
経由 武田遺跡銅剣出土地 島根県海士町大字海士3817(隠岐中ノ島) 銅剣b類1
到着 吉野ヶ里銅鐸出土地 佐賀県吉野ヶ里町大曲 外縁付鈕1式、2区横帯紋+ 邪視紋銅鐸
補正内角 89.86度
2019.8.29追加

到着 小田銅鐸出土地 倉吉市小田字樋ノ口 外縁紐2式4区袈裟襷文
経由 飽浦遺跡銅剣出土地 岡山県岡山市南区飽浦(飽浦山本辻) 細形銅剣
出発 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽 扁平紐式4区袈裟襷文、外縁付紐2式袈裟襷紋
補正内角 90.16度
2019.9.1追加


  さらに、和銅遺跡露天掘跡を経由してから、沖津宮に到着する線は89.77度で
すが、89.66度で竜宮の潮吹き (山口県長門市油谷津黄4982)にも到着します。不思議なことに、竜宮の潮吹きは、特異点で色々な場所と幾何学的に特異点を持ちます。今の所、和銅遺跡露天掘り跡から伸びる線が、竜宮の潮吹きに伸びるのか、それとも沖津宮に伸びるのかは判定し難い状況です。参考として、後に説明する予定ですが

到着 木の宗山銅鐸銅剣出土地 東区福田狐が城867の1 福田形、2区横帯文+邪視紋 
経由 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498  
出発 弊立神宮 熊本県上益城郡山都町大野712  
補正内角 89.53  


出発 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽
経由 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498
到着 潮嶽神社 宮崎県日南市北郷町北河内8901-1
補正内角 89.97 度

出発 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498
経由 宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野
補正内角 90.08
出発 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498
経由 狩尾神社(惣社跡) 福岡県遠賀郡芦屋町山鹿(大字)
到着 宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐
補正内角 90.09 度

出発 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498
経由 狩尾神社 福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1592
到着 宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐
補正内角 90.00 度
出発 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498
経由 伊豆神社 福岡県鞍手郡鞍手町上木月705
到着 宇佐神宮 山口県長門市油谷津黄498
補正内角 90.07 度
出発 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498
経由 老良神社 福岡県遠賀郡遠賀町老良67
到着 宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐
補正内角 90.27 度
出発 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498
経由 貴船神社 福岡県直方市下新入560
到着 宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐
補正内角 89.92 度
出発 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498
経由 直日神社 福岡県直方市日吉町5-22
到着 宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐
補正内角 90.20 度
出発 竜宮の潮吹き 山口県長門市油谷津黄498
経由 幸神社 福岡県直方市植木1594
到着 宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐
補正内角 90.13 度

とした線も存在するので、竜宮の潮吹きが正しいのかも知れません。  

  いずれにしても、仁徳天皇陵から伸びる基本線に相当する線に、本山坑跡や跡津坑口、和銅遺跡露天堀跡が登場することは、銅鐸が埋蔵された頃には、銅鉱山が特別に重視されていたことを示しています。もちろん、図-F7にもそれがよくわかりますが、鉱山や金山に関わる線は後にさらに詳しく書く予定です。ついでに、下記表も参考にしてください。ここでは保存科学研究集会2018に書かれている
「同位体分析と産地推定に関する最近の動向」に書かれている結論に対して、大いに疑問を感じています。残念なことに、どこに間違いがあるかを特定することはできませんが、何かが必ず間違っていると本気で考えています。例えば、銅の融点を下げる目的に添加する鉛だけを輸入していたとか、鉛の産地の検討がまだ不十分であることなども考えられます。


出発 最上位経王大菩薩 島根県出雲市十六島町
経由 大峰山銅矛出土地 広島県尾道市久山田町
到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷
補正内角 90.11度
2018.8.28追加 このような配列が偶然にして起きる大雑把な確率は1/1000です

到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷
経由 石神銅鐸出土地 奈良県天理市石上町字平尾960
出発 三柱神社 京丹後市丹後町筆石沖岡117
補正内角 90.07度
2019.8.2追加  このような配列が偶然にして起きる大雑把な確率は1/1400です

到着 寺地遺跡 新潟県糸魚川市大字寺地
経由 本山坑跡 栃木県日光市足尾町本山
出発 三嶋大社 静岡県三島市大宮町2丁目1
補正内角 89.94度
2019.9.2追加 このような配列が偶然にして起きる大雑把な確率は1/1600です

出発 三嶋大社 静岡県三島市大宮町2丁目1-5
経由 跡津坑口 岐阜県飛騨市神岡町跡津川
到着 桜ヶ丘銅鐸14銅戈7出土地 兵庫県神戸市灘区高羽
 補正内角  90.05度  
2019.8.27追加  このような配列が偶然にして起きる大雑把な確率は1/2000です

出発 千居遺跡 静岡県富士宮市上条
経由 神岡鉱口 岐阜県飛騨市神岡町和佐保
到着 中川原銅鐸出土地 兵庫県洲本市中川原町清水二ツ石
補正内角 90.02度
2019.8.27追加 このような配列が偶然にして起きる大雑把な確率は1/5000です

出発 神岡鉱口 岐阜県飛騨市神岡町和佐保
経由 勢合銅鐸出土地 徳島県小松島市田野町金山
到着 加茂岩倉遺跡銅鐸出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837
補正内角 90.00度
2019.8.27追加 このような配列が偶然にして起きることはほとんどありません


銅鐸、銅矛、銅剣、銅戈などの青銅器に関しては★青銅器埋蔵地点から見た紀元前後の青銅器祭祀のページを新たに設けました。




2019.7.30 記

このページは書きかけです。まだまだ驚くことが続きます。

反論大歓迎です

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