クイズ
★巨大古墳仁徳天皇陵の向きと氷室
 

ここで、生意気な事を書いて申し訳ありませんが、クイズを出します。
これを理解すれば、未だにHSCPやピギーバック配列、古富士ボイントの実在を認めようとしない脳天気な方も考えが変わるものと期待しています。こんどは、
日本書紀にも関係する問題ですから、これまで横を向いていた方も興味を持たれるのではないかと期待しています。
注;この回答から、仁徳天皇に関する日本書紀の記載に奥深い真実が隠されていることがわかります。そして、近畿の支配者の支配領域の広さとともに、氷室を使った優雅な生活実態がこの時代にあったことが証明され、近畿における支配者の能力を不当に過小評価して九州王朝?を誇大に見せようとしている九州王朝説は難しい立場になると考えています。


下の図-57のピンクの線はどこを向いているでしょうか?

   図-57 ピンクの線はどこを向いているか?
◎ ヒント
1.江戸時代には熊野三社権現と呼ばれていた、延喜式内社 丹後國熊野郡 熊野神社に比定されている熊野神社(京都府京丹後市久美浜町河梨大谷)はなぜこんなに場違いの場所にあるのでしょうか?古文書からは、仁徳天皇と熊野神社はとても縁が深かったことを推測できます。

2.日本書紀巻第十一仁徳天皇、六十二年夏五月の項から天皇は「氷」を特に好まれたと推測することができます。徳川幕府が六月朔日(新暦7月1日)を氷室の日、氷室の節句としたことが知られていますが、この風習はもしかしたら仁徳天皇の時代から続いていたのかも知れません。仁徳天皇の陵の向きは天皇の好まれた氷を貯蔵する氷室(雪倉、雪蔵)に関係していると考えています。

3.
宮内庁が13日に歴史学系15の研究者団体に立ち入 り調査を許可したと発表した手白香皇女衾田陵(奈良県天理市、別名は西殿塚古墳、国土地理院の地図の表記は衾田陵)の向きをヒントとして追加いたします。この古墳の向きは鞍馬山(京都府京都市左京区)の東方向約1.1kmにある525.0mのピークを指しています。 参考;箸墓・西殿塚古墳赤色立体地図の作成
2013.2.14追加

参考  1 サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(氷室の節句)
参考 2お氷さまと富士参り

参考 3日本氷業史・氷室文献雑録

2013.1.26記


クイズの答えです。

仁徳天皇陵(百舌鳥耳原中陵、大仙陵古墳)の向いている方向は
富士写ヶ岳でした。仁徳天皇陵はその真偽論争もあって大仙陵古墳とも呼ばれていますが国土地理院の地図では仁徳天皇陵となっています。ここではクイズの答えとともに、やはりこの古墳は仁徳天皇陵とするのがふさわしいとする意見と、仁徳天皇陵が自然地形を利用したものであるとする説の疑問を書き加えました。
    

 
 図-F1 仁徳天皇陵の向き (この図は図-F1(改)に変更しました。2019.5.23追加)

 注;(①から⑤の端点はすべて神社群中心の条件を満足しています) 

  富士写ヶ岳は石川県加賀市にある標高941.9mの山です。その名の通り、郷土富士の一つで、富士山に似ていることでそのような名前が付いたと言われています。図-F1からわかるように、④熊野新宮神社は①-②間に引いた線のピギーバック配列に位置しています。仁徳天皇と熊野神社は縁が深かったことが知られているので、場違いの場所にあった熊野新宮神社の位置の謎はこれで解けたことになります。

 同じように、⑤雪倉岳も②-③に引いた線のピギーバック配列の位置にあります。雪倉岳(2,610.9m)は万年雪があり、日本で最初に氷河が見つかった山で、言わば天然の氷室そのものです。
この事実は、日本書記の記載の中に、文章を理解するだけでは到底わからない、奥深い意味が込められている部分があったとする好例であると考えています。同時に以前から主張しているピギーバック配列の持つ重要性を知ることができます。

さらに驚く事実がみつかりました。線分⑤-③のピギーバック点には、記紀には全く書かれていない仰天するような、秘密が隠されていたことがわかりました。この秘密もこのページで明かして行きます。 2019.5.31追記 


  江戸時代になっても、加賀藩が雪を4日かけて江戸へ運び、将軍に献上していた記録もあったり、奈良時代に氷を王族が利用していた事実が、木簡に記録されて長屋王邸遺跡から昭和63年に出土したりしています。木簡には、「都祁冰室」の記載があり、「日本書紀」仁徳天皇六十二年、額田大中彦皇子が、氷室を発見したと記された場所「鬪鷄」(つげ、2005年まで奈良県都祁村と呼ばれた)とも一致しています。

 全くの推測になりますが、雪倉岳の万年雪を奈良の氷室に貯蔵し、真夏でもオンザロックを楽しんだ天皇の優雅な生活や、その珍しい雪を民にも与えて慕われていた姿が想像されます。もしこの推測が正しければ、この陵は仁徳天皇陵と呼ぶのが最もふさわしいと考えています。

  ところで、仁徳天皇陵は自然地形を利用したものであるとする説があります。これは、墓域面積が世界最大とされるこの巨大な陵を作るにはそれなりの、優れた管理システムが必要とされることは明らかであって、これだけでも、九州王朝説が崩れてもおかしくないほどです。
注;大林組プロジェクトチーム「現代技術と古代技術の比較による仁徳天皇陵の建設」『季刊大林第20号 王陵』大林組 1985年

  言い換えれば、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が近畿に多数存在している事実は、九州王朝説の最大の弱点になっています。そこで考えられた詭弁の一つに巨大古墳はすべて自然地形を利用したものであるとする説です。確かに奈良県北葛城郡広陵町に見られるように、古墳か山か判別もできないほど古墳の多いところを見ると、自然地形を利用している古墳が多いことは明らかです。また、山間部ではなく、孤立している古墳でも黒塚古墳のように自然地形である土山を利用しているものもあります。しかし、天皇陵もすべて自然地形を利用しているとする説には大きな疑問があります。

 まず、第一に★古墳の位置と神社の位置の関係図-27で示したように、多くの天皇陵が正確に直線状に並び、その線が対馬鰐浦の本宮神社
(延喜式神名帳にもないが、その位置の重要性はこのHPのいたるところで説明をしています)に到達するとした、きわめて規則正しい位置にあることです。これを自然地形を利用したとしても、それぞれの古墳のピークをこの線に正確に合わせるには必然的に大きな労力を必要としたはずです。さらに、この天皇陵などの多くの墓で、その位置と墓室の方向に共通した規則があることを発見しました。この発見で益々自然地形を利用したとする説には無理があることになり、九州王朝説の大きな砦の一つが崩れることになります。以降にその発見と検証の結果を書きます。


2013.2.26記

★巨大古墳仁徳天皇陵の向きと氷室(改定)
 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 雪倉岳 富山県朝日町山崎 36.794723,137.753962 36.002271,135.852520 364741.00 1374514.26
経由 熊野新宮神社 都府京丹後市久美浜町河梨305 35.591620,134.867220 35.591620,134.867220 353529.83 1345201.99 90.55
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 34.783929,135.355568 343353.63 1352916.76
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 36.152625,136.465933 352100.83 1384425.37
経由 富士写ヶ岳 石川県加賀市山中温泉枯渕町 36.188587,136.363955 36.188587,136.363955 361118.91 1362150.24 90.07
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.360893,135.917431 343353.63 1352916.76
到着 富士写ヶ岳 石川県加賀市山中温泉枯渕町 36.188587,136.363955 36.365466,136.769595 361118.91 1362150.24
経由 雪倉岳 富山県朝日町山崎 36.794723,137.753962 36.794723,137.753962 364741.00 1374514.26 90.09
出発 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 36.715695,137.807942 352100.83 1384425.37
「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標
 図-F1(改) 仁徳天皇陵の向き  

 図-F1を改版しました。2013.2.26記の図では、まだ補正内角の考えを入れていませんでした。図F-1(改)は内角を補正内角に変更したものです。また、表示の地図は電子国土から地理院地図に変更しました。この結果、内角は古代人の設定した角度に合致し、地殻変動の考慮は不要になりました。ちなみに、90.07度や90.09度のような直角精度の内角が偶然に出現する大雑把な確率は1/1000以下です。これは仁徳天皇陵の位置が極めて計画的に決められた可能性を示すものです。

  ついでに、仁徳天皇陵の位置が九州の古墳の位置と密接に関係していることをここで示します。九州の吉武高木遺跡が発掘されたとき、そこから約250mほど北側に吉武樋戸遺跡と名付けられた遺跡も調査され、この遺跡は径33mの帆立貝式の前方後円墳であることが明らかにされました。この古墳と富士写ヶ岳、雪倉岳、古富士ポイント、さらに九州の玉石甌穴(おのごろ島)、高千穂峰を示したものが図-F2です。

 
 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 斑島玉石甌穴 長崎県北松浦郡小値賀町班島郷 33.212180,129.025550 33.278654,129.287860 331243.85 1290131.98
経由 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 33.539715,130.318159 333222.97 1301905.37 89.84
出発 高千穂峰 宮崎県高原町大字蒲牟田 31.886213,130.918992 33.453437,130.349529 315310.37 1305508.37
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 36.006131,138.292482 352100.83 1384425.37
経由 雪倉岳 富山県朝日町山崎 36.794723,137.753962 36.794723,137.753962 364741.00 1374514.26 89.96
出発 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 36.364810,136.771888 333222.97 1301905.37
「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標 
   図-F2 吉武樋戸遺跡(帆立貝式古墳)と雪倉岳、古富士ポイントの関係


  図F-2では、吉武樋戸遺跡を出た線は、雪倉岳を経由し89.96度(吉武高木遺跡からは89.93゜)の素晴らしい直角精度で古富士ポイントに到着しています。このような精度の出る大雑把な確率は1/2500ですから、この配置も計画的に行われていた可能性が非常に高くなります。雪倉岳は図F-1の仁徳天皇陵の位置の説明に出てきた山です。と言うことは、仁徳天皇陵の位置は吉武樋戸遺跡の位置も考慮されて決まっていたことになります。先に説明した対馬鰐浦の本宮神社と関係する天皇陵直線配置と併せると、仁徳天皇陵の位置の自由度はなくなり、自然地形からその場所を選んだとする説を否定することにもなります。
 
 吉武樋戸遺跡の帆立貝式古墳の向きは、もしかしたら、図-F2の吉武樋戸遺跡から雪倉岳方向に引いた方向と一致していたのかも知れません。しかし、この帆立貝式古墳の方向は、発表資料によって異なっていて、その正確な方向はわからず、今のところその確証はありません。
この古墳はその下に弥生中期の「墳丘墓」があり、そのマウンドを利用して古墳が作られています
。と言うことは、このマウンドの位置を決めた人は弥生中期の人たちであったことになります。

 
図-F2では、吉武樋戸遺跡が、おのごろ島に相当する斑島の玉石甌穴と天逆鉾のある高千穂峰を結んだ89.84度のすばらしい精度の直角三角形の頂点にあります。このような配置を決めた人たちはおそらく日本の国生み神話を作った人たちに違いありません。墳丘墓であるマウンドの上に帆立貝式古墳を作った人たちとマウンドを作った人たちが対敵関係にあったかどうかはわかりませんが、後に説明するように、北部の福岡あたりから、過去の伝承が消え、新たに創作された伝承が残るようになってしまったようです。
参考;最古の王墓吉武高木遺跡、常松幹雄著 新泉社

2019.5.23 記

★世界遺産・宗像大社沖津宮の位置は弥生中期に決まっていた

 図-F2で説明したように吉武樋戸遺跡は弥生中期の墳丘墓であったマウンドの上に帆立貝式古墳が造られています。この位置は玉石甌穴、吉武樋戸遺跡、高千穂峰を結んだ三角形の頂点に位置しています。さらにこの位置は神社群中心の特性を持っていて、周辺の神社から引いた直角線の収斂点でもあります。ここで吉武樋戸遺跡の干字状パターンを引いたものが図-F3です。

  驚くことに、この干字状パターンの北側端点は沖ノ島にある宗像大社沖津宮です。さらに南端は鹿児島県にある黒尊岳の頂上になっています。それぞれの端点から吉武樋戸遺跡を経由して古富士ポイントへ到達する線の補正内角は90.20度、89.98度と極めて高い直角精度になっています。さらに、両者の端点は神社群中心の特性を持っているので、はったりで線を引くレイラインの手法と比較すると桁違いの高い信頼性を持っています。さらに、干字状パターンの二段目の中心は貴船神社で、その北端は香春神社(延喜式内社)、南端は幣立神社となっていて、その補正内角はどちらも90.16度と、神が設定したようにすばらしい直角精度になっています。

  もちろん、この二段目の香春神社貴船神社幣立神社ともに神社群中心の特性を持つので、その信頼性は非常に高いものになります。図-F3、図-F4にある内角の計算は、現在ある神社の位置(733番地)ではなく、香春神社の宮司の住宅(1308番地)の位置です、神社群中心の位置も現在宮司の住んでる1308番地の位置にあり、この住宅もまるで神社のような造りになっています。現在の神社の位置は少なくとも文化年間(1804年)の配置を保っているとのことで、それ以前に、元々の神社が現在ある宮司の住居の位置1308番地にあったものを住居に変え、その脇の東側(733番地)に新たに現在ある神社を建てたものと推測しています。ちなみに、現在の神社の位置で補正内角を計算すると88.50度となってしまいます。社伝では和銅2年(709年)に山頂の三社を現在地に移設したのが、現在の香春神社となっていますが、山頂の神社を移設するとき、すでに現在の1308番地に神社があったことになります。

 
世界遺産になった沖ノ島の宗像大社はHSCPで見る限り、吉武樋戸遺跡の干字状パターンの一部であることがわかります。また、幣立神社も一万五千年の歴史を持つ特異な神社であると語られることもありますが、HSCPで見る限り、吉武樋戸遺跡の干字状パターンの一部であり、これまでの時点では、この神社の位置が定まったのは吉武樋戸遺跡に墳丘墓の造られた弥生中期であることになります。

  こうなると、吉武樋戸遺跡のマウンドに埋葬された人、そのマウンドの上に帆立貝式古墳を造った人は一体どんな人だったのでしょう。その鍵を握っていたのが吉武樋戸遺跡です。HSCPから見ると日本の古代史の鍵を握っていると思われる吉武樋戸遺跡の甕棺の中から装身具類が見つからなかったことなどから、単なる集団墓の域を脱していないとされ、この遺跡は記録保存となり消滅してしまいました。その後は忘れられた状態になっているのは残念でなりません。

 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
出発 宗像大社沖津宮 福岡県宗像市大島 34.241566,130.104234 34.241566,130.104234 341429.64 1300615.24
経由 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 33.539715,130.318159 333222.97 1301905.37 90.20
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 33.764221,131.362486 352100.83 1384425.37
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 33.764221,131.362486 352100.83 1384425.37
経由 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 33.539715,130.318159 333222.97 1301905.37 89.98
出発 黒尊岳 鹿児島県肝付町北方 31.295568,130.993853 32.665539,130.581386 311744.04 1305937.87
出発 香春神社(宮司の住居)
福岡県田川郡香春町香春1308 33.669430,130.839577 33.669430,130.839577 334009.95 1305022.48
経由 貴船神社 福岡県田川郡香春町中津原1658 33.651870,130.844990 33.651870,130.844990 333906.73 1305041.96 90.16
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 33.763231,131.362691 352100.83 1384425.37
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 33.763231,131.362691 352100.83 1384425.37
経由 貴船神社 福岡県田川郡香春町中津原1658 33.651896,130.845151 33.651896,130.845151 333906.83 1305042.54 90.16
出発 幣立神宮 熊本県上益城郡山都町大野712 32.687130,131.135630 32.777729,131.108336 324113.67 1310808.27
「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標 
図-F3 吉武樋戸遺跡の干字状パターン  
 
 図-F4 吉武樋戸遺跡の干字状パターン部分拡大図(香春神社、貴船神社付近)


2019.5.28 記

★失われた吉武樋戸遺跡の大きな秘密

 先に吉武樋戸遺跡が失われたことが残念であると書きましたが、この遺跡を単なる集団墓の域を脱していないとして消滅させてしまうことに賛成された方々は「素人が何を生意気なことを言うか」とお叱りになるに違いありません。墓の価値は装身具類だけで判断することができないことは曹操の墓とされた西高穴2号墓のように、埋葬者自身が生前から華美な埋葬方法を嫌っていた例もあります。そんな実例を出すまでもなく、この墳丘墓が造られた当時を考えると、この付近は群雄割拠の時代だったのではないでしょうか、縄文時代から続いてきた、HSCP配置を沖縄から北海道まで広めてきた人たちもここで負けてしまい、装身具をすべて剥がされて埋葬された可能性もあります。

  それにも増して、残念なのは、この墳丘墓にあった弥生中期の埋蔵物の下層に縄文時代の埋蔵物があったのではないかと考えているのです。吉武樋戸遺跡は図-F2で示したように斑島の玉石甌穴(おのごろ島)と高千穂の峰(天孫降臨の地)から引いた線の極めて正確な直角三角形の頂点と図-F3で示したように吉武樋戸遺跡が作る干字状パターンの中心位置とした2つの極めて特異な点を共有した位置にあります。このような特異な位置にあった墓が単なる集団墓であることなど、とても考えられないのです。加えて重要なことは、これから説明するように、
吉武樋戸遺跡の位置が弥生時代と縄文時代をつなぐ重要な位置にあることです。そして、この遺跡は東日本の金鉱山や銅鉱山にまで関係して行きます。図-F1で書いた雪倉岳の説明を見て「どうせ偶然に違いないと」言っていた人たちは面目丸潰れになり、新たに古代人の偉大さに感嘆するに違いありません。



2019.5.31 記

  さて、ここで図F-1(改)に戻ります。この図で説明した⑤雪倉岳は多くの山岳の中からちょうど都合の良い山を選んだに過ぎないと考えている人もいるようです。これまで、ある線分の両端を眺めた角度が直角になる点をピギーバック点と名付けて、このホームページの多くの場面で説明したきました。この説明を良く読んだ人たちはHSCPの線で重要な線分にはピギーバック点がある例が多くあったことを良く知っていると考えています。しかし、初めてピギーバックを見たとき、まさか古代人がそんなことを考えている訳はないと思うことが多いのです。

 そこで、同じ線分②-③にまだピギーバック点がないか見てみます。すると、⑥甲斐金山遺跡黒川金山の位置がピギーバック点であり、その内角はまさに神が決めたような89.93度と極めて直角に近い角度であることがわかります。このような角度が偶然に起きる大雑把な確率は1/1500です。したがって、この点も⑤の雪倉岳と同じピギーバック点として計画的に決められたことがわかります。

  さらに驚くことに、このピギーバック点⑥は⑦西秋留石器時代遺跡から③古富士ポイントに向かう直角線の経由点とすると、これもまた90.03度と極めて高い直角精度になります。このような事象が偶然にして起きる大雑把な確率は1/3000です。しかし、ここでも古墳時代と縄文時代の事象を一緒にして説明するなど、とんでもないとした意見がでるでしょう。しかし、この考えも、常識にとらわれた浅はかな考えであることがすぐにわかります。また、関東に多い住居跡とされてきた扁平な川原石を敷き詰めた遺跡は絶対に住居跡ではないとする、私の以前からの主張が益々確かになって行きます。

 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
出発 富士写ヶ岳 石川県加賀市山中温泉枯渕町 36.188587,136.363955 35.807524,138.738490 361118.91 1362150.24
経由 甲斐金山遺跡黒川金山 山梨県甲州市塩山一ノ瀬高橋 35.790078,138.847164 35.790078,138.847164 354724.28 1385049.79 89.93
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 35.350230,138.740380 352100.83 1384425.37
出発 西秋留石器時代遺跡 東京都あきる野市牛沼265-2 35.719850,139.289220 35.719850,139.289220 354311.46 1391721.19
経由 甲斐金山遺跡黒川金山 山梨県甲州市塩山一ノ瀬高橋 35.790078,138.847164 35.790078,138.847164 354724.28 1385049.79 90.03
到着 古富士ポイント 静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 35.350230,138.740380 352100.83 1384425.37
 「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標
 図-F5 線分②-③のピギーバック点⑥は金山遺跡、さらにこの点は縄文遺跡と特異な相関を持つ

2019.6.2 記

  図-F5で⑦の西秋留石器時代遺跡は時代が全く異なる遺跡なので、⑦西秋留石器時代-⑥甲斐金山遺跡黒川金山-③古富士ポイントの作る90.03度の直角線は偶然の事象に違いないと考えた人は多いでしょう。それでは、図-F6を見てください、緑色の線を追加しました。図-F5で示したピギーバック点と同じ⑥を経由する直角線がさらに二つ増えました。一方は⑩田端遺跡から⑥甲斐金山遺跡黒川金山を経由して⑧譲原石器時代住居跡に到着する90.27度の内角を持つ直角線、他方は神岡鉱山の廃坑である⑨神岡坑口から⑥甲斐金山遺跡黒川金山を経由して⑧譲原石器時代住居跡に到着する89.93度の内角を持つ直角線の二つの直角線です。

  ここで⑦、⑧、⑨は扁平な川原石を敷き詰めた遺跡で柱穴の見つからない遺跡です。「石器時代」云々と名前がついているのは、まだ考古学が未熟な昭和初期に遺跡が発掘されたので、このような名前がついているのです。田端遺跡はストーンサークルとも呼ばれていますが、石材が小粒で扁平な石が少ないだけで、柱の見つからない同類の遺跡と考えています。何度も書きますが、これらの遺跡は絶対に住居跡ではありません。このように、①仁徳天皇陵の位置は鉱山や、縄文遺跡とされる敷石のある遺跡と強い幾何学的関係があります。ここでまた、これらの縄文遺跡や鉱山は、本来仁徳天皇陵とは関係ないものが、偶然にこのようになっただけと考える人が多いに違いありません。しかし、この考えも常識にとらわれた浅はかな考えであることが後にわかってきます。


 
 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
出発 神岡坑口 岐阜県飛騨市神岡町和佐保 36.350009,137.313738 35.826959,138.746174 362100.03 1371849.46
経由 甲斐金山遺跡黒川金山 山梨県甲州市塩山一ノ瀬高橋 35.790073,138.847146 35.790073,138.847146 354724.26 1385049.73 89.93
到着 譲原石器時代住居跡 群馬県藤岡市譲原1089 36.143220,139.040510 36.143220,139.040510 360835.59 1390225.84
到着 譲原石器時代住居跡 群馬県藤岡市譲原1089 36.143220,139.040510 36.143220,139.040510 360835.59 1390225.84
経由 甲斐金山遺跡黒川金山 山梨県甲州市塩山一ノ瀬高橋 35.790073,138.847146 35.790073,138.847146 354724.26 1385049.73 90.27
出発 田端遺跡 東京都町田市小山町3067-4 35.601006,139.363573 35.601006,139.363573 353603.62 1392148.86
 「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標
 図-F6 さらに⑥金山遺跡を共有して⑨神岡坑口とから⑩田端遺跡直角線が譲原石器時代住居跡に到着する


2019.6.4 記


★仁徳天皇陵を虚大古墳などと侮り、無視し続けた人たちの完な敗北

  図-F7は仁徳天皇陵から出発する直角線を示します。そのすべての線が縄文遺跡または鉱山に到着しています。事実は小説よりも奇なりを地で行くような図ではないでしょうか。仁徳天皇陵の位置は縄文時代の貴重な遺跡と鉱山の位置で決まっていたのです。このような特異な配置は全国くまなく探しても絶対に見つかりません。このように重要な位置に仁徳天皇陵があることはまぎれもない事実です。これは九州王朝論に入れ込み過ぎて仁徳天皇陵を無視してきた人たちの完璧な敗北を意味します。

参照  虚大古墳の時代

  ここで、⑬チカモリ遺跡⑮桜町遺跡、⑭米泉遺跡は日本ではこの地域にしかない珍しい環状木柱列です。最も大きい環状木柱列である真脇遺跡は図の領域外にあり、後の説明に登場してきます。ここで名古屋大学の山本直人教授の主張されていたすべての環状木柱列が仁徳天皇陵の位置に関係していることになります。

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ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
出発 寸沢嵐石器時代遺跡 神奈川県相模原市緑区寸沢嵐 35.599620,139.224390 36.185427,137.620447 353558.63 1391327.80
経由 チカモリ遺跡 石川県金沢市新保本5?47 36.556280,136.605040 36.556280,136.605040 363322.61 1363618.14 89.72
到着 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.735614,136.144710 343353.63 1352916.76
到着 阿久遺跡 長野県諏訪郡原村柏木 35.964598,138.189905 36.506984,136.724818 355752.55 1381123.66
経由 米泉遺跡 石川県金沢市米泉町二丁 36.544611,136.623250 36.544611,136.623250 363240.60 1363723.70 90.80
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.735616,136.144711 343353.63 1352916.76
到着 船田石器時代遺跡 東京都八王子市長房町360 35.657606,139.298117 36.269466,137.857087 353927.38 1391753.22
経由 桜町遺跡 富山県小矢部市桜町 36.688830,136.869440 36.688830,136.869440 364119.79 1365209.98 89.59
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.891259,136.350696 343353.63 1352916.76
到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.529071,137.806220 360250.82 1390625.85
経由 吉崎・次場遺跡 石川県羽咋市鶴多町 36.905492,136.789320 36.905492,136.789320 365419.77 1364721.55 89.06
出発 仁徳天皇稜 大阪府堺市堺区大仙町 33.966497,131.542346 36.823200,136.743580 335759.39 1313232.45
到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.405141,138.470815 360250.82 1390625.85
経由 不動堂遺跡1号 富山県下新川郡朝日町横水 36.920531,137.553710 36.920531,137.553710 365513.91 1373313.36 89.92
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 36.184901,136.908642 343353.63 1352916.76
到着 神岡鉱口 岐阜県飛騨市神岡町和佐保 36.350034,137.313749 36.408484,137.933197 362100.12 1371849.50
経由 滝沢石器時代遺跡 群馬県渋川市赤城町滝沢 36.513088,139.040361 36.513088,139.040361 363047.12 1390225.30 89.61
出発 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.047451,139.107180 360250.82 1390625.85
到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.047451,139.107180 360250.82 1390625.85
経由 譲原石器時代住居跡 群馬県藤岡市譲原1089 36.143220,139.040510 36.143220,139.040510 360835.59 1390225.84 90.52
出発 仁徳天皇稜 大阪府堺市堺区大仙町 33.966497,131.542346 35.711239,138.068209 335759.39 1313232.45
到着 矢瀬遺跡(半裁木柱列) 群馬県みなかみ町月夜野 36.696816,138.982201 36.468528,139.061653 364148.54 1385855.92
経由 田端遺跡 東京都町田市小山町3067?4 35.601006,139.363573 35.601006,139.363573 353603.62 1392148.86 90.21
出発 玉石甌穴 長崎県北松浦郡小値賀町班島郷 33.212180,129.025550 35.356013,138.303309 331243.85 1290131.98
到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.405141,138.470815 360250.82 1390625.85
経由 不動堂遺跡1号 富山県下新川郡朝日町横水 36.920531,137.553710 36.920531,137.553710 365513.91 1373313.36 89.92
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 36.184901,136.908642 343353.63 1352916.76
 「緯度,経度(十進)補正内角用の緯度,経度」は電子国土のタイル上で、三角形頂点からの辺の長さが約100kmを超えたとき、この線上の座標
 図-F7 仁徳天皇陵を出発する正確な直角線、その全てが縄文遺跡または鉱山に到着する
⑭米泉遺跡の補正内角の計算に誤りが見つかりました。内角の表示と表を訂正ました。この計算では阿久遺跡の中心位置をまだ見つけて
いないので、地理院の地図の遺跡位置(中央自動車道よりも北側)をそのまま使用しています。HSCPで遺跡の神社群中心位置を見つけた時
点で再度計算し直します。現在よりも直角に近い補正内角になるものと考えています。2019.6.23

2019.6.9 記


  ここで、図-F7で⑤雪倉岳の万年雪を説明したとき、まさか近畿の古墳の位置を決定するとき、北陸の山岳の位置を参照するなど、とんでもないと言っていた人たちに聞きます。図-F7で紫色の線で示したように㉔神武天皇陵(畝傍山東北陵)から⑤雪倉岳を経由して㉓和銅遺跡露天堀跡に89.82度の直角線が到着しています。このような直角が偶然に起きる大雑把な確率は1/800です。しかもその到着点㉓は仁徳天皇陵を出発して⑧譲原石器時代遺跡、⑲不動堂遺跡1号、⑳吉崎・次場遺跡遺跡を経由して収斂する点㉓和銅遺跡露天堀跡と同じである確率も併せると偶然では決して起きないことは誰でもわかるでしょう。ちなみに、このような精度で⑤雪倉岳を経由して㉓和銅遺跡露天堀跡に到着する古墳は他にありません。これは、㉔神武天皇陵が和銅遺跡と⑤雪倉岳の位置を考慮して決めていることを意味します。それに近い値を示す古墳とその補正内角を示すと、箸墓古墳89.58゜、崇神天皇陵89.68゜、衾田陵89.79゜となります。

参考に次の表を添付します。

次の表は先の説明に用いた数値の詳細です。収斂する点㉓

ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 和銅遺跡露天掘跡 埼玉県秩父市黒谷 36.047451,139.107180 36.285874,138.675493 360250.82 1390625.85
経由 雪倉岳 富山県朝日町山崎 36.794723,137.753962 36.794723,137.753962 364741.00 1374514.26 89.82
出発 神武天皇陵(畝傍山東北陵) 奈良県橿原市大久保町 34.497485,135.787969 36.052743,137.118992 342950.95 1354716.69

次の表はすでに図-F2で用いたものですが、⑤雪倉岳は九州からも参照されているのです。近畿から参照されても少しも不思議ではないのです。

ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 古富士ポイント       静岡県御殿場市印野 35.350230,138.740380 36.006131,138.292482 352100.83 1384425.37
経由 雪倉岳 富山県朝日町山崎 36.794723,137.753962 36.794723,137.753962 364741.00 1374514.26 89.96
出発 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 36.364810,136.771888 333222.97 1301905.37


★仁徳天皇陵の位置は荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の位置にも関係していた

ついでに、驚く表をお見せします。

ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.045632,133.912942 343353.63 1352916.76
経由 加茂岩倉遺跡出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 35.359854,132.883410 35.359854,132.883410 352135.47 1325300.28 90.14
出発 黒尊岳(908.6m) 鹿児島県肝付町北方 31.295527,130.993885 34.517074,132.491604 311743.90 1305937.99


  ここで黒尊岳は図-F3にあるように吉武樋戸遺跡の干字状パターンの一部です。加茂岩倉遺跡は日本最多39口の銅鐸が埋蔵されていたポイントも吉武樋戸遺跡と仁徳天皇陵の位置が考慮されて決められていたのです。90.14度の内角が偶然に起きる大雑把な確率は1/700です。

 加茂岩倉遺跡は実際に行くとわかりますが、深い山のしかも急な傾斜地にあります。たまたま、農道を作るときに発見されたのですが、この道路工事がなかったら永久に発見されることがなかったでしょう。銅鐸がなぜこのような場所に埋められていたのかは全くの謎でした。もちろん、埋められた場所だけでなく、埋められた理由も全国の研究者、学者が束になってかかっても全くわかっていません。その後、2015年4月に兵庫県南あわじ市で見つかった銅鐸の一つが加茂岩倉遺跡で見つかった39口の銅鐸の一つと同じ鋳型を使っていることがわかったものの、これまでの謎を解明するには至っていません。

  このような状況下で、加茂岩倉遺跡の位置が仁徳天皇陵と吉武樋戸遺跡の位置と関係していると言われても、すぐに信ずる人はいないでしょう。確かに、先の表だけからはまだ信じてもらえないかも知れません。そこで、次の表を用意しました。
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 加茂岩倉遺跡出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 35.359854,132.883410 35.359854,132.883410 352135.47 1325300.28
経由 最上位経王大菩薩 島根県出雲市十六島町 35.466800,132.755580 35.466800,132.755580 352800.48 1324520.09 90.16
出発 吉武樋戸遺跡 福岡県福岡市西区大字吉武 33.539715,130.318159 34.841563,131.966084 333222.97 1301905.37

これでも、まだ、理解できない人がいるかも知れません。しかし、もうすぐ九州王朝説は完全に崩壊します。これを弁護するための詭弁 虚大古墳の時代も単なる妄想になります。

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2019.6.18 記
 


ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 最上位経王大菩薩 島根県出雲市十六島町 35.466800,132.755580 35.466800,132.755580 352800.48 1324520.09
経由 荒神谷遺跡(右、銅矛16) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376545,132.852470 35.376545,132.852470 352235.56 1325108.89 89.93
出発 正一位稲荷大明神 福岡県北九州市若松区百合野町3-1 33.897071,130.783702 34.784966,132.025372 335349.46 1304701.33
到着 最上位経王大菩薩 島根県出雲市十六島町 35.466800,132.755580 35.466800,132.755580 352800.48 1324520.09
経由 荒神谷遺跡(左、銅戈6) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376506,132.852410 35.376506,132.852410 352235.42 1325108.68 89.96
出発 正一位稲荷大明神 福岡県北九州市若松区百合野町3-1 33.897071,130.783702 34.785003,132.025330 335349.46 1304701.33
到着 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.059771,133.881064 343353.63 1352916.76
経由 荒神谷遺跡(右、銅矛16) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376545,132.852470 35.376545,132.852470 352235.56 1325108.89 89.57
出発 黒尊岳(908.6m) 鹿児島県肝付町北方 31.295527,130.993885 34.532584,132.468211 311743.90 1305937.99
到着 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 35.059771,133.881064 343353.63 1352916.76
経由 荒神谷遺跡(左、銅戈6) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376506,132.852410 35.376506,132.852410 352235.42 1325108.68 89.58
出発 黒尊岳(908.6m) 鹿児島県肝付町北方 31.295527,130.993885 34.532613,132.468100 311743.90 1305937.99
到着 荒神谷遺跡(右、銅矛16) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376545,132.852470 35.376545,132.852470 352235.56 1325108.89
経由 加茂岩倉遺跡出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 35.359854,132.883410 35.359854,132.883410 352135.47 1325300.28 89.79
出発 若宮神社(御領貝塚) 熊本県熊本市南区城南町東阿高 32.698026,130.723110 34.610216,132.275009 324152.89 1304323.20
到着 荒神谷遺跡(左、銅戈6) 島根県出雲市斐川町神庭873ー8 35.376506,132.852410 35.376506,132.852410 352235.42 1325108.68
経由 加茂岩倉遺跡出土地 島根県雲南市加茂町岩倉837 35.359854,132.883410 35.359854,132.883410 352135.47 1325300.28 89.68
出発 若宮神社(御領貝塚) 熊本県熊本市南区城南町東阿高 32.698026,130.723110 34.610216,132.275009 324152.89 1304323.20
注;荒神谷遺跡の左右は、遺跡展望地から見た遺跡方向を示す。
 
先の表にある最上位経王大菩薩は島根県の十六島町(ウップルイチョウ)と呼ぶ謎の名を持つ町にある社です。この社は延喜式神名帳にもないどころか、誰も注目していなかった神社ですが、出雲地方の神社間に引いたHSCP線からは、この地域の神社のはじまりを示していますこの神社のはじまりの頃にはまだ出雲大社はなかった可能性が高いのです。同じように、対馬の鰐浦でも本宮神社と呼ぶ延喜式人名帳にも載っていない神社がありますが、HSCPから見ると対馬の神社のはじまりの神社であると同時に天皇陵直線配置の延長線にもある神社です。どちらも、日本の神社のはじまりではないかと本気で考えていた時期もありましたが、その後神社のはじまりは長崎県北松浦郡小値賀町班島郷の斑島にある玉石甌穴であると結論を出しています。しかし、最上位経王大菩薩と本宮神社は今後の説明と深く関係して行きます。蛇足になりますが、はったりで線を引くレイラインの手法では、このような神社を決して見つけることができません

 
正一位稲荷大明神は図A2
赤村後円中心を含むT字状パターンで示し、卑弥呼の墓と断定した赤村後円中心の干字状パターンの一段目北側の端点になっています。また、黒尊岳は図-F3で示した吉武樋戸遺跡の干字状パターンの一段目南側の端点になっています。ここから見ると、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は卑弥呼、仁徳天皇、吉武樋戸遺跡に埋葬された人などと何らかの関係があることを窺うことができます。後に説明しますが、吉武樋渡遺跡にあった帆立貝式古墳の向きは箸墓古墳の向きと一致している可能性が出てきたので、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は箸墓古墳とも何らかの関係があったことも推測でききます。

  ここまで、図-F7を使って仁徳天皇陵と主に東日本の遺跡や鉱山の関係を説明し、ついでに荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の位置の謎も説明してきました。これは、これまで誰も説いたことのない驚く事実になりました。この事実だけでも、先の詭弁にある仁徳天皇陵は「土着の豪族」が造ったとする説が如何に滑稽であるかがわかるでしょう。図-F1(改)は仁徳天皇が万年雪のある雪倉岳の万年雪を氷室に貯蔵し、真夏でもでもオンザロックを楽しんでいたとする発想からスタートした図です。ここから図-F5に見られるように、銅や金鉱山に関係している可能性に発展することができました。しかし、図-F7のようになると、線が多くなり、文系の人には嫌われる図になってしまいました。図-F7はまだこれでも多くの重要な線を省略しているのです。ここで文系の人でも理解できるように、もう一度元に戻って単純化したものが図-F8です。


 
2019.6.25 記



仁徳天皇陵の別の姿

 
 
ポイント名 住所 緯度,経度(十進) 緯度,経度(十進)補正内角用 緯度(度分秒) 経度(度分秒) 補正内角
到着 本山坑跡 栃木県日光市足尾町本山 36.664232,139.436942 35.972063,136.194015 363951.24 1392612.99
経由 三柱神社 京都府京丹後市丹後町筆石 35.743230,135.121890 35.743230,135.121890 354435.63 1350718.80 90.17
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 34.868613,135.393645 343353.63 1352916.76
到着 三柱神社 京丹後市丹後町筆石沖岡117 35.743230,135.121890 35.438704,135.216516 354435.63 1350718.80
経由 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 34.564897,135.487990 343353.63 1352916.76 90.06
出発 斑島玉石甌穴 長崎県北松浦郡小値賀町班島郷 33.212180,129.025550 34.343959,134.432496 331243.85 1290131.98
到着 三柱神社 京都府京丹後市丹後町筆石 35.743230,135.121890 35.671639,135.220090 354435.63 1350718.80
経由 大岩山銅鐸出土地 滋賀県野洲市小篠原 35.071972,136.042500 35.071972,136.042500 350419.10 1360233.00 89.55
出発 仁徳天皇陵 大阪府堺市堺区大仙町 34.564897,135.487990 34.564897,135.487990 343353.63 1352916.76
 図F-8 斑島玉石甌穴(おのごろ島)を出発した線は仁徳天皇陵と二柱神社を経由して足尾銅山の本山坑跡に到着する

 
図F-8は私がおのごろ島であると主張している神社のはじまりがある五島列島小値賀島の属島斑島の玉石甌穴から出発した線が仁徳天皇陵を90.06゜の極めて高い直角精度で曲がり、丹後の三柱神社(土産山古墳)に到着し、ここで再び90.17゜の素晴らしい直角精度で曲がり、足尾銅山にある本山坑跡に到着している様子を示したものです。経由点の三柱神社はリンクにあるように古墳の頂上にある神社です。神社の歴史に詳しい人は、籠神社またはこの神社の奥宮である真名井神社の間違いではないかと考える人も多いと思いますがここは間違いではありません。この結線を偶然またはハッタリで引いた線ではないかと思う人もいるでしょう。しかし、この図に表示したポイントのすべてが神社群中心の特性を持っていることを知れば決して偶然やハッタリの線ではないことを納得できるでしょう。

 
くどいようですが、90.06の直角精度が偶然にして起きる大雑把な確率は1/1600です。さらに、線分である仁徳天皇陵-三柱神社に対するピギーバック点は大岩山銅鐸出土地点になっています。ここからは日本で最大の銅鐸が出土しています。銅鐸には謎が多く、その埋蔵された位置についてはこれまで学者も全く言及することができませんでした。その位置に対して何らかの説明ができたのはこのページがはじめてです。

 
負け嫌いの人はこのような線は簡単に見つけられると言うに違いありません。それなら、同じような特性を持つ線をぜひ見つけてください。実際に試して見れば、一生かかっても見つけられないことを知って必ず負けを実感するはずです。もし、九州王朝説の古田武彦先生が、この図を見ていれば、仁徳天皇陵は「土着の豪族が造ったものだ」と苦しい答弁をしなければならないような間抜けた説を説くことがなかったと考えています。
先生の主張された「おのごろじま」、「天孫降臨の地」も間違いであったことをすでに掲示板で明らかにしています

 
少し脱線してしまいましたが、図-F8やF6、F7から仁徳天皇陵には、金鉱山、銅鉱山に関係した人、言い換えれば関東の鉱山を手中にした人が埋葬されている可能性が高く、最も重視した鉱山が本山坑口のある足尾銅山であったことがわかります。同じ発想から三柱神社のある土産山古墳
に埋葬されている人は、銅鉱山に関係した人が埋葬されていることになりますが、予測に反して鉄器も埋葬されています。ちょうど銅から鉄器に移り変わった時期の墓と見るか、銅製品で権威を奮っていた人の墓の上に、鉄器によってそれを倒した人の墓ができたとの考えもあります


 
これは非常に重要なことであり、さらなる検討が必要と考えています。重要な位置にあるはずの吉武樋戸遺跡が単なる集団墓と断定された例もあり、このあたりは簡単ではありません。そもそも、肝心の仁徳天皇陵は図-F7を見る限り、この位置には縄文時代の遺跡である巨大木柱やストーンサークルなどがあるはずの位置にピッタリと巨大古墳の後円中心があるのです。不思議としか言いようがありません。この位置を縄文時代から古墳時代まで営々と守ってきた人がいたのか、それとも滅ぼされた人の墓の上に征服者が古墳を造ったのか定かではありません
2019.7.1

このページは編集中です。さらに驚くことが続きます


 
ついに仁徳天皇陵は世界遺産に登録されました。すばらしい快挙です!!。

登録に関係された関係者、これを支えてこられた皆様にお祝いを申し上げます。

  ところで、仁徳天皇陵を「土着の豪族の墓」と決めつけて、九州王朝説の論戦を切り抜けてきた、T**会と呼ぶ古代史の会の旧幹部連中は今頃痛飲をしている頃でしょう。自浄作用の働くことのなかったこの会の行く末が案じられます。飲み過ぎないように注意をしてください。そう言っている管理人もすでに祝い酒を飲み過ぎています。

  世界遺産登録の記念日と一日違いになりましたが、明日は私的なことでも特別の日です。この二つに合わせて九州王朝説崩壊の理由を書く予定です。古い話を蒸し返すことになりますが、ここで「
偽書」東日流外三郡誌も登場する予定です。

 2019.7.6 記


  今日は予定外のことがたくさんあり、NHKのテレビ「いだてん」が終わった時間になってから書き始めることになってしまいました。まだ豪華な刺し身や酒もキーの脇にあります。変なことを書かないように加減しながらキーを打ったり飲んだりしています。

  ところで、九州王朝説の終焉を示す図はすでに図F-8にあったのです。なぜかと言うと大岩山銅鐸が出土した位置は仁徳天皇陵と三柱神社の位置で決まっています。銅鐸が埋められた時期はこれまで大きな謎になっていました。ところが、松帆銅鐸に付着していた植物体の放射性炭素の年代測定の結果が紀元前2世紀から21世紀とでました。この誤差については専門家に委ねるとして、ここではその最小値を取り上げても銅鐸が埋蔵された時期が紀元前であることは間違いないとすることができます。当然のことですが、銅鐸の埋葬された時期には、これまでの図F-1、F-5からF-8までに書いた①仁徳天皇の位置には古墳はなかったことになります。図-F7から見てもわかるように、この位置は縄文時代までつながる聖地だったのです。
仁徳天皇陵がこのような聖地にあるとは全く知らず、土着の豪族の墓と決めつけた滑稽な説が九州王朝説の始まりだったのです。万世一系を掲げていた明治期に、これが明らかになっていたとしたら、不敬罪で牢屋に入れられるところだったでしょう。

  これに対する反論はおそらく次のようになるでしょう、図-F7は作為的な図で大岩山銅鐸出土の位置に合わせて、都合の良いような位置にある三柱神社見つけただけだ。本当は近傍にある籠神社ではないのか?。そうですね、その通りです。レイラインの手法ではおそらく籠神社に線を引くでしょう、レイラインの手法は最初からこのようにはったりで有名な神社に線を引くから失敗するのです。現在有名だったり、延喜式内社であっても、はたしてその神社が神社のはじまりのときに、存在していたかどうかの保証はないのです。私の説明で頻繁に登場する本宮神社(長崎県対馬市上対馬町鰐浦531)、最上位経王大菩薩 (島根県出雲市十六島町)、温川神社(青森県平川市切明)などは古代は重要な神社であったものの、研究をはじめた頃は実際にそこまで行ってみなければ名前もわからず、逆に地図会社へこちらから情報を提供をするような状況でした。図F-8に示した三柱神社も例にもれず、Wikipediaでも三柱神社のリンクに載っていません。しかし、この神社が如何に大切だったかはもうすぐ明らかになります。まだ確かめていませんが、三柱神社の多くは明治期にこの神社名に強制的に変更させられたと聞いています。変更前の神社名は明治政府に取っては不都合な神社名だったようです。

  しつこく書きますが、
このような名前の知られてない神社はレイラインの手法では絶対に見つけられないのです。これがレイラインの手法の決定的な欠陥となって使い物になりません。HSCPの手法では神社のすべてに規則通りの線を引くと、ランダムに見えた神社配列の中から見事な規則的な姿が見えて来るのです。この作業はとても手間のかかる作業です。簡単に引いたように見える線からは、その苦労は全く見えないことを知ってください。


 前置きが長くなってしまいましたが、
九州王朝説が一目瞭然で崩壊する図を次に示します。


面倒な計算も全部終わりました、現在図を書いている最中です。明日になってしまいますができ次第アップロードします。

2019.7.7  記



★九州王朝説が一目瞭然で崩壊する図


  まず、仁徳天皇陵を出発し銅鐸埋蔵地点を経由する直角線を図F-9に示しました。先に書いたように、経由点である銅鐸埋蔵地点はどんなに新しく考えても紀元前に設定された銅鐸埋蔵地点の配列です。もちろん、この時点ではまだ古墳が造られていません。このときでも、
すべての銅鐸埋蔵地点が仁徳天皇の位置を考慮してその位置が決められて埋蔵されているのです。小銅鐸しか発見されていない九州にも直角線が到達し、その到達点も天孫降臨地点とした高千穂峰や図-F3で示した吉武樋戸遺跡の干字状パターンの一段目・南端点である黒尊岳に到着していることに注目してください。ここには、九州の王朝どころか、多元王朝の姿も全く見えません。

 
◎ 九州王朝説を未だに唱えている人達にお聞きします。
 
 すでに紀元前でも銅鐸祭祀の中心であった仁徳天皇陵の位置が、なぜ土着・豪族の墓に成り下がってしまったのでしょう。その理由をお聞かせください。
もし、何ら答弁をお聞かせできないとしたら、九州王朝説は完璧に破綻したことになります。

◎この部分は2019.7.16にgoogleから検索可能になりました。しかし、今のところ反論は皆無です。「真実は一つです」  2019.7.16 追加

反論やご意見がありましたら管理人宛連絡フオームからお願いいたします。


 
仁徳天皇陵は紀元前からあった聖地に造られました。九州王朝説はこの事実を知らず、土着豪族の墓と決めつけた滑稽な説です
ここで桜ヶ丘銅鐸出土地の位置は暫定値です、なぜかその正確な位置の回答が博物館からまだありません。桜ヶ丘銅鐸出土地の位置は特別で、今後話を進めるには
とても大切なのです。もう少し博物館からの回答を待つことにしました。
 図F-9 仁徳天皇陵を出発し銅鐸埋蔵地点を経由する極めて正確な直角線

今回はこの図とその説明で終わりますが、まだまだ驚くことが続きます。


このページは現在編集中です。

2019.7.8 記


  さて次に驚く事実を続いて書く予定なのですが、肝心の銅鐸出土位置の正確な緯度・経度の値がなかなか集まらないないのです。暫定位置ではとても良い結果が出ていますが、どうせ発表するなら、正確な値を書きたいと考えています。いつも思うのですが、考古学者はものすごく詳しい発掘報書を書きますが、肝心の位置の緯度・経度には全く無関心なことが多いのです。大抵の博物館はそのデータを持っていません。考古学者がご自分の足元しか見ていない証拠です。図-F9のように日本全体の広い視野で見ると、これまでなかったすばらしい知見が得られます。
 
  同じように、古田先生の研究は誰にも負けないすばらしいものがあるのですが、ある特定の地域にのめり込んでしまう癖があります。そして、研究の対象となる地理的な範囲を勝手に狭めてしまうのです。この癖が大きな失敗につながってしまったと考えています。

  例えば、天孫降臨地に関して次のように述べて高千穂の峰を否定しています。

では、この「日向」とはどこだろう。それは(2)、(6)の「筑紫(竺紫)の日向の」という表現で明らかだ。つまりこの筑紫は福岡県、それも筑前なのである。 それについて、従来の学者、さらには宮崎・鹿児島両県の地元の人々から大きな非難がおこるかもしれない。しかし、どのようにはげしい罵声を浴びようとも、わたしのなすべきことは一つ。自己の解読のルールを守ることだけだ。

  実は、これが間違いであることを掲示板のNo225からNo233で示しています。この主張に関して現在まで反論は皆無です。それよりも、以前から公開していた天孫降臨地に関する古田先生の論文がいつの間にかネットから消されてしまい、現在は参照することができなくなってしまいました。関係者が古田先生の間違いを認めてネットから消したのでしょう。
 
  ではなぜ、このような大間違いをおかしたのでしょう。最も簡単な理由は「
自己の解読ルール」が間違っていたことになります。という事は、この解読ルールで書かれた古田先生の著作はでたらめだと言うことになり、身も蓋もないことになってしまいます。そこで、その原因をさらに考えて見ると、福岡県の糸島に神降神社が異常に多いとした情報に飛びついてすっかり糸島にのめり込んでしまったのです。そうすると宮崎のことなどすっかり忘れてしまったのでしょう。そのような状態で結論を出せば、どうしてもおかしな結論になってしまいます。

  のめり込み方の異常さの例では、「糸島の神降神社の配置は配置が規則的で意味がある」とした言葉が残っています。実際糸島にある神降神社を全部回ってみましたが、とても規則的と感じることはできません。ましてやそこに、意味があると考えることなどとても無理だとわかります。そうです、先生は興味のある場所に出会うと恋に落ちてしまうのです。そのとき、突然に視野が狭くなって間違いを起こしてしまうのです。このとき、図-F9を見てくれればその恋も冷め、素晴らしい結論を出していただけたと思うと残念でなりません。
 
  もうひとつの問題は「
自己の解読ルール」にあるかどうかわかりませんが、難しい問題に、適切な解が見つからないとき、必ずと言っていいほど語呂合わせや何だか訳のわからない「縄文語」と言う言葉を勝手に作って読者を納得させる癖があり、悪いことに、苦し紛れに作った言葉にもかかわらず、ご自分まで酔ってしまうのです。

  その好例がおのごろ島の比定です。この比定の間違いも掲示板のNo210、No211、「★赤村の丘陵は卑弥呼の墓、玉石甌穴のある斑島はおのごろ島
に書いてあります。語呂合わせで決めた古田先生の説はネットでも参照できたのですが、いつの間にかこれも消されてしまいました。この語呂合わせの古田説は「盗まれた神話」の第13章にあります。自説のおのごろ島=玉石甌穴についてはわずかの反論がありましたが、納得していただけたと考えています。「こおろこおろ」の解釈では、私の説が語呂合わせの古田先生よりもまさったのです。

  ついでに、先生の間違いに何の対策もせず、大笑いされるような、虚大古墳説を拡散させてしまった責任は東京古田会の
元幹部H氏と会を私物化しているA氏をはじめとしてその他大勢にあります。自浄作用の全く働かない会ですから、これらの人たちは誰も責任を取らず、いつまでも会に居残るでしょう。そのときは、惰性で居残るのではなく、私の説を論理的に潰すことです。もちろん、これまでのように卑怯で陰険、横柄なやりかたでなければ、それが最良の責任のとり方です、期待して待っています。

  最初にやるべきことは「
紀元前に、すでに銅鐸祭祀の中心であった仁徳陵の位置が、なぜ土着豪族の墓に成り下がったか」の経緯を説明する必要があります。しかし、古田先生の説は時間軸で見ると断片的で、通史を作ることが難しいとする問題もあります。このような問題のある説で、先の経緯を説明することは困難が伴うことは当然承知しているでしょう。会の総力をあげて、がんばってください。


2019.7.10  記 






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