クイズ
★巨大古墳仁徳天皇陵の向きと氷室
 

ここで、生意気な事を書いて申し訳ありませんが、クイズを出します。
これを理解すれば、未だにHSCPやピギーバック配列、古富士ボイントの実在を認めようとしない脳天気な方も考えが変わるものと期待しています。こんどは、
日本書紀にも関係する問題ですから、これまで横を向いていた方も興味を持たれるのではないかと期待しています。
注;この回答から、仁徳天皇に関する日本書紀の記載に奥深い真実が隠されていることがわかります。そして、近畿の支配者の支配領域の広さとともに、氷室を使った優雅な生活実態がこの時代にあったことが証明され、近畿における支配者の能力を不当に過小評価して九州王朝?を誇大に見せようとしている九州王朝説は難しい立場になると考えています。


下の図-57のピンクの線はどこを向いているでしょうか?

   図−57 ピンクの線はどこを向いているか?
◎ ヒント
1.江戸時代には熊野三社権現と呼ばれていた、延喜式内社 丹後國熊野郡 熊野神社に比定されている熊野神社(京都府京丹後市久美浜町河梨大谷)はなぜこんなに場違いの場所にあるのでしょうか?古文書からは、仁徳天皇と熊野神社はとても縁が深かったことを推測できます。

2.日本書紀巻第十一仁徳天皇、六十二年夏五月の項から天皇は「氷」を特に好まれたと推測することができます。徳川幕府が六月朔日(新暦7月1日)を氷室の日、氷室の節句としたことが知られていますが、この風習はもしかしたら仁徳天皇の時代から続いていたのかも知れません。仁徳天皇の陵の向きは天皇の好まれた氷を貯蔵する氷室(雪倉、雪蔵)に関係していると考えています。

3.
宮内庁が13日に歴史学系15の研究者団体に立ち入 り調査を許可したと発表した手白香皇女衾田陵(奈良県天理市、別名は西殿塚古墳、国土地理院の地図の表記は衾田陵)の向きをヒントとして追加いたします。この古墳の向きは鞍馬山(京都府京都市左京区)の東方向約1.1kmにある525.0mのピークを指しています。 参考;箸墓・西殿塚古墳赤色立体地図の作成
2013.2.14追加

参考  1 サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(氷室の節句)
参考 2お氷さまと富士参り

参考 3日本氷業史・氷室文献雑録

2013.1.26記


クイズの答えです。

仁徳天皇陵(百舌鳥耳原中陵、大仙陵古墳)の向いている方向は
富士写ヶ岳でした。仁徳天皇陵はその真偽論争もあって大仙陵古墳とも呼ばれていますが国土地理院の地図では仁徳天皇陵となっています。ここではクイズの答えとともに、やはりこの古墳は仁徳天皇陵とするのがふさわしいとする意見と、仁徳天皇陵が自然地形を利用したものであるとする説に対する疑問を書き加えました。      

 
          
図-F1 仁徳天皇陵の向き

 注;上の図に示した角度は地殻変動の影響を含んだ値。古富士ポイントを基準とすると長期間における地殻変動によって、@、A、Cは時計の針が回る方向へ動いたことを表しています。(@からDの端点はすべて神社群中心の条件を満足しています) 

  富士写ヶ岳は石川県加賀市にある標高941.9mの山です。その名の通り、郷土富士の一つで、富士山に似ていることでそのような名前が付いたと言われています。図−F1からわかるように、C熊野新宮神社は@−A間に引いた線のピギーバック配列に位置しています。仁徳天皇と熊野神社は縁が深かったことが知られているので、場違いの場所にあった熊野新宮神社の位置の謎はこれで解けたことになります。

 同じように、D雪倉岳もA−Bに引いた線のピギーバック配列の位置にあります。雪倉岳(2,610.9m)は万年雪があり、日本で最初に氷河が見つかった山で、言わば天然の氷室そのものです。この事実は、日本書記の記載の中に、文章を理解するだけでは到底わからない、奥深い意味が込められている部分があったとする好例であると考えています。同時に以前から主張しているピギーバック配列の持つ重要性を知ることができます。

 江戸時代になっても、加賀藩が雪を4日かけて江戸へ運び、将軍に献上していた記録もあったり、奈良時代に氷を王族が利用していた事実が、木簡に記録されて長屋王邸遺跡から昭和63年に出土したりしています。木簡には、「都祁冰室」の記載があり、「日本書紀」仁徳天皇六十二年、額田大中彦皇子が、氷室を発見したと記された場所「鬪鷄」(つげ、2005年まで奈良県都祁村と呼ばれた)とも一致しています。

 全くの推測になりますが、雪倉岳の万年雪を奈良の氷室に貯蔵し、真夏でもオンザロックを楽しんだ天皇の優雅な生活や、その珍しい雪を民にも与えて慕われていた姿が想像されます。もしこの推測が正しければ、この陵は仁徳天皇陵と呼ぶのが最もふさわしいと考えています。

  ところで、仁徳天皇陵は自然地形を利用したものであるとする説があります。これは、墓域面積が世界最大とされるこの巨大な陵を作るにはそれなりの、優れた管理システムが必要とされることは明らかであって、これだけでも、九州王朝説が崩れてもおかしくないほどです。
注;大林組プロジェクトチーム「現代技術と古代技術の比較による仁徳天皇陵の建設」『季刊大林第20号 王陵』大林組 1985年

 言い換えれば、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が近畿に多数存在している事実は、九州王朝説の最大の弱点になっています。そこで考えられた詭弁の一つに巨大古墳はすべて自然地形を利用したものであるとする説です。確かに奈良県北葛城郡広陵町に見られるように、古墳か山か判別もできないほど古墳の多いところを見ると、自然地形を利用している古墳が多いことは明らかです。また、山間部ではなく、孤立している古墳でも黒塚古墳のように自然地形である土山を利用しているものもあります。しかし、天皇陵もすべて自然地形を利用しているとする説には大きな疑問があります。

 まず、第一に★古墳の位置と神社の位置の関係図−27で示したように、多くの天皇陵が正確に直線状に並び、その線が対馬鰐浦の本宮神社(延喜式神名帳にもないが、その位置の重要性はこのHPのいたるところで説明をしています)に到達するとした、きわめて規則正しい位置にあることです。これを自然地形を利用したとしても、それぞれの古墳のピークをこの線に正確に合わせるには必然的に大きな労力を必要としたはずです。さらに、この天皇陵などの多くの墓で、その位置と墓室の方向に共通した規則があることを発見しました。この発見で益々自然地形を利用したとする説には無理があることになり、九州王朝説の大きな砦の一つが崩れることになります。以降にその発見と検証の結果を書きます。


2013.2.26記

この項は書きかけです。後は続きになります。