★神社のはじまり
神社は現在でも日本人にとっては切っても切れない縁があります。しかし、神社についてはほとんど何もわかっていないのが現状です。その証拠に次の質問に答えられる人はいないでしょう。
Q1.神社はいつ、誰が、何の目的で造ったのでしょうか?
簡単なようですが、とても難問です。今のところ、この難問に答えを出せる人はいないでしょう。
それでは少し変わった問題です。
Q2.神社の最も多い県は?、最も古い神社は?
この答えは新潟県です。私が多くの人に聞いて見ましたが正解者はいませんでした。意外にも神社について詳しいと自認している人でも正解を出せませんでした。おそらく、このような疑問を持ったこともないほど、神社は日本人にとっては馴染み深いものです。しかし、その裏には何も知らなかったことと、知ろうともしなかったことに気がつくに違いありません。
Q3.なぜ新潟県に神社が多いか?
この問題はものすごく難問です。おそらく國学院大学の教授も答えられないでしょう。しかし、このページを読み終わると、ご自分で意見を出せるほど、神社のことがわかってくると考えています。
Q2.の質問では神社の多い県は島根県で最古の神社は出雲大社と答える人が多いに違いありません。確かに、出雲大社に行くと、本殿を囲むように摂社がたくさんあるだけでなく、塀(新垣)の外側の境外に出てもたくさんの神社があります。また、本殿の近くから古代・中世高層神殿の
巨大柱「宇豆柱」がみつかっていますから、平安以前からあったことは確かでしょう。
正解のように見えますが大間違いです。実は、出雲大社や伊勢神宮などはとても有名ですが、神社としては新しい方に入るのです。驚くと思いますが皆さんの身近にある、創建時期不明となっている小さな社や、創建時期がわかっているとされている神社でも、実際はそれよりもはるかに古い歴史を持っていることが多いはずです。その理由もここで明かしていく予定です。
●伊佐須美神社社伝の謎を明かすその一
伊佐須美神社(福島県大沼郡会津美里町宮林甲4377)は、岩代の國一ノ宮、名神大社、会津総鎮守とされている神社です(2008年本殿などを焼失、2013年再建)。この神社には次のような社伝が残されています。
「紀元前88年(崇神天皇10年)、四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、出会った土地を会津と名付け、天津嶽(御神楽岳)山頂に國土開拓の祖神として諾冉(イザナギ、イザナミ)二神を祀ったのが起源という。その後、博士山、明神ヶ岳と移転を繰り返し、552年(欽明天皇13
年)に現在地に遷座し、大毘古命、建沼河別命を合祀したとされている。」とあります。
図S1博士山を経由する角度は90.02゜ |
また、江戸時代の文化年間に編纂された新編会津風土記に「博士山山勢高大ニテ其脈支分シテ数山トナル、西ニ引タル峯ニ伊佐須美明神ノ社跡アリ、御神楽嶽ヨリ此山ニ遷座アリテ、又明神嶽ニ遷レリト云、其地二間四方計、今ニ草木生セス」とあるので、四道将軍に関わる件についてはその真偽を判断しかねるものの、社伝にある遷座の伝承は正しいことを伝えているに違いありません。
図S2 存念寺の博士杭 |
ここで注目したことは「博士山」と呼ぶ奇妙な山の名前です。博士山は図S1にその位置を示すように、福島県会津地方のほぼ中央に位置している1,482m(一等三角点)の山です。その名前の由来は「その昔大和朝廷が東北地方を治める時、太刀を佩いて嶺通しにたどったことから「佩(は)かせ」となり転じて「博士」になった」とされています。しかし、この説明はどうみてもこじつけにしか見えません。「博士、はかせ」は古語では「基準」の意味があり、現在も宮大工の専門語として使われています。参考、図S2、存念寺(新潟県燕市粟生津)改築時の基準杭
日本の神社のほとんどの位置が、古富士(およそ3千年前の大噴火以前の位置)を基準として決められていることをこれまで何度も主張してきました。ここで、伊佐須美神社の社伝に書かれた遷座の順番をとりあえず棚上げして、「基準」の意味を持っている博士山から古富士ポイントに到達している図S1に注目します。
ここで、この点を基準にして古富士ポイントから長者ヶ平遺跡に線を引いてみました。すると、図S1に示すように博士山での内角は90.02度と正に神業と思える直角精度で長者ヶ平遺跡に到達します。これは大変な驚きです。
゜
同じように、長者ヶ平遺跡から社伝にある各ポイントを経由する直角線の行き先を見ると、天津嶽(御神楽岳)からは90.27°で浅間神社(山梨県笛吹市一宮町一宮1684)に、明神ヶ岳からは90.84°で二荒山神社奥宮(栃木県日光市中宮祠奥宮)、伊佐須美神社からは蛭ヶ岳(神奈川県足柄上郡山北町)へ90.16°と、どれも神様が決めたのではないかと思うほどすばらしい直角精度になっています。これを表にすると下記になります。
図S3 伝承にある山を経由した直角線は 二つの一宮と蛭ヶ岳に到着 (二荒山神社中宮を奥宮に変更2013.5.27)
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計算は國土地理院の測量計算(距離と方位角の計算)を利用しています。 |
この事実から、甲斐國一宮である浅間神社(笛吹市)や下野國一宮・二荒山神社奥宮の位置は長者ケ平遺跡と御神楽岳、明神ヶ岳の位置によって決められたことが明確になりました。(この事実から、論社であった笛吹市の浅間神社が真の一の宮であるとする説に軍配が上がります)
当然考えられることですが、蛭ヶ岳の頂上にはかつて一宮に相当する神社があったと考えられます。これは、現在ある一宮がはたしてどのような経緯で決められたかを考える重要なヒントになるはずです。
このように、伊能忠敬の生まれるよりもはるか昔からあった伝承が、正確な数値で裏付けすることができたことは、古代人が見通しの効かない遠方の方角を精密に知ることのできた決定的な証拠であると考えています。しかも、その事実を暗号のようにして後世に伝えたことになります。それにもかかわらず、学者は常識にとらわれ過ぎて、その暗号を解くことができませんでした。
ここで、図S3で到達点の二つの神社がどちらも一宮であったことから全國の一宮についても長者ケ平遺跡の位置をを基準にしてHSCPで検討したところ、驚くことがわかりました。この説明は後になります。図S3では省略していますが、この図の端末位置を元にしてHSCPによって派生する神社の位置から、伊豆諸島にある多くの神社の位置を説明することもできるので、このような事象が偶然の一致であることはありません。
こんなことを言っても、常識的歴史感から抜けられない多くの方々は、「そんな馬鹿なことがある訳がない」と、未だに考えている人が多いに違いないでしょう。
ここで、「基準」の意味のある博士山についてもう少し詳しく書いて見ます。図S1を見ると、長者ヶ平遺跡が博士山から直角に伸びた線の延長線上にあることがわかっても、なぜ遺跡の位置がそこにあるかはわかりません。そこで、博士山と同じように古富士ポイントからどこかの山を通って長者ヶ平遺跡に達する例がないかを探してしてみました。
すると、岐阜県下呂市にある湯ヶ峰(1,066.8m、三等三角点)と呼ぶ山の頂上を経由すると89.93゜で長者ヶ平遺跡に到着することがわかりました。
言い換えると。長者ヶ平遺跡の位置は、古富士ポイントから出発した線が、博士山と湯ヶ峰のそれぞれのルートを経由し、そこから直角に伸びた線の交点になっていることです。
しかし、博士山はわかったにしても、「佐渡から遠く離れた岐阜県にある山の位置を博士山の位置と相互に考えて、遺跡の位置を定める」ことなど、とても信じられない、湯ヶ峰からの線は偶然の一致ではないか?と考える人も多いでしょう。ちなみに、湯ヶ峰は下呂温泉の泉源の元ともなっている火山性の山で、この山から産出する下呂石(湯ヶ峰流紋岩)と呼ばれるガラス質の石材が縄文時代の鏃の材料として用いられ、考古学的にも注目されている山です。
まだ確認をしていませんが、長者ヶ平遺跡から検出された石器の中には下呂石で出来たものも必ずあるはずです。ここで図S4を示します。この図からわかるように古富士ポイントー博士山ー長者ヶ平遺跡、古富士ポイントー湯ヶ峰ー長者ヶ平遺跡と、それぞれが作る直角線が正確な矩形を作っていることがわかります。その矩形で、それぞれの辺の距離を測地線長で見ると、
古富士ポイントー博士山 | 140.26(km) |
古富士ポイントー湯ヶ峰 | 141.64(km) |
博士山ー長者ヶ平遺跡 | 239.87(km) |
となり、もし古代人がこの値を承知していて、意図的に長者ヶ平遺跡の位置を決めていたとすると、世界の技術史は根底から崩れることになります。それと同時に、日本の考古学も何か大切なことを見落としていたことになります。
とは言うものの、専門家の中にはすばらしい勘をお持ちの方がいるものだと感心することがあります。ご存じの方が多いと思いますが、國学院大学の小林達雄名誉教授 は著書の中で「古代人が方向を正確に知ることができたのではないか?」と頻繁に書いています。この着想がなぜ得られたのか、先生に直接お話を伺ったことがあります。しかし、先生はその答えを教えてはくれませんでした。おそらく、研究の中から得られた鋭い勘からきているものと考えています。
私が、神社の位置について研究を始めた頃は、まるで豆を床にばらまいたようにランダムに見える神社の分布から、何らかの規則を見つけようとする試みは困難を極め、何度も挫折しそうになりましたが、先生のお言葉を信じて研究を続け、ここまでたどり着いた経緯があります。
図S4 博士山と湯ヶ峰を経由した交点が遺跡位置 |
突然横道にそれてしまいましたが、この話はまだ続きます。日本の神社の原点となる長者ヶ平遺跡は道路工事中にメンヒル状の配石遺構などが検出されたことを契機としていますが、この遺跡に注目された小林達雄名誉教授を団長とする調査団によってはじめてその実態が明らかになりました。そして、この遺跡は県公式ナビ(長者ヶ平遺跡)にも書かれているように「縄文前期末~中期中葉の土器の文様には、東北、北陸,中部,関東の各地との交流や影響が顕著に認められ、離島という特殊な環境の中にあるにもかかわらず、当時の人々が広範な活動域を有していたことを知ることができる重要な遺跡です」として広く知られるようになったものです。
小林達雄名誉教授は学生の頃、長岡科学博物館の中村孝三郎館長(参考;馬高・三十稲場遺跡)が発掘調査(室谷洞窟など)に出かける際は、いつも金魚の糞のようについて行っていた経歴をお持ちです。私が昭和30年(1955年)に新潟県ではじめて弥生式土器を発見したときも、間違いなく弥生式土器であると鑑定をして下さった方が中村孝三郎館長でした。しかし、当時この事実を認めようとする人は皆無に近く、歴史の常識を変えることの難しさと、考古学者の閉鎖的な考え方を嫌というほど経験しました。この鑑定結果が常識になるには、弥生期の高地性集落の存在が広く知られる時期まで待つことになり、数十年以上もの歳月がかかることになります。
参考;田上町文化財調査報告書 第1輯 、新潟県南蒲原郡田上町中店遺跡調査報告 1976年版 田上町教育委員会
図S5 真脇遺跡(ウッドサークル、環状木柱列)の位置は長者ヶ平遺跡と古富士ポイントの位置で決まっている |
神社の位置がそんなに古い時期に決められるはずはないと考える人もまだ多いと考え、さらに説明を続けます。図S5はすでに「縄文遺跡と神社の関係」でも用いた図です。
この図から推定すると、まず、長者ヶ平遺跡の位置が決まり、次に真脇遺跡の位置が決められたと考えることができます。真脇遺跡は環状木柱列を持つ遺跡で、この木柱の伐採された年代が紀元前800年前であることがすでに明らかになっています。この年代は、信頼性の高い年輪年代法による決定ですから、学問的にも認められている数値です。
したがって、長者ヶ平遺跡の位置が決められた時期はそれよりも古いことになります。図S4の祭神を少名彦命とする東金砂山神社と朝日少彦名神社はその古い時期に位置が決められたと考えることができます。神社の位置がこのように明確に説明をした例はほかに見当たりません。したがって東金砂山神社と朝日少彦名神社はその絶対位置が理論的に説明することができた世界最初の神社になります。
それでは、そのように古い神社の姿はどんなものだったのでしょうか?。その神社の様子を想起できるような神社が、大山祇大神 (新潟県胎内市下荒沢)です。
この神社は図S4で示すように、博士山-長者ヶ平遺跡間のピギーバック配列の位置にあります。古代の神社は拝殿がなかったと伝えられています。大山祇大神はちょうどその姿を示しているのではないでしょうか。石碑の裏には「胎内マタギ建之」とあり、マタギによって守られていた神社のようです。
このページは書きかけです。図S4で古富士ポイントー湯ヶ峰間に関わるビギーバック配列が抜けています。これは忘れているわけではありません。誰もが驚く事実がそこにあります。この驚きは後に箸墓古墳や長者ヶ平遺跡の干字状パターンの特性に繋がっていきます。
2013.3.21記
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この項は一部に誤りがありました再検討中です。2013.4.4
再検討が終わりました。さらに驚く結果となりました。やはり、一宮はHSCPによってその元が定められていた重要な神社を後世になってから、適当に選んだのではないかとする推測が益々確かになってきました。
近々にその一部を書きます。全部を書くにはとても大変な作業となる発見でした。その作業は順調に進んでいます。
また、現地の調査で國土地理院の地図にはない消失した神社(新潟県長岡市にある神社群中心)も発見しました。
ここでは、HSCPによる線引と現地に残っている伝承が一致しました。これを契機にして、新しい大発見につながっていきます。
2013.4.14
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真脇遺跡にあるウッドサークルまたは環状木柱列と呼ばれる木柱を環状に並べて立てている例は他にチカモリ遺跡(石川県金沢市)、桜町遺跡(富山県小矢部市桜町)などでもあります。その木柱列に用いられている木材の伐採年代はほぼ同じ時期の紀元前800年頃とされています。これらの木柱列の位置は、それを知ると図S6の説明とは別に、信じられないほどの驚く意味を持っていますが、まだこの段階では理解してくれる人が少ないと考えています。そなわけで、この件も、ここではそれを棚上げし図S6の説明だけにして進めて行きます。
★長者ヶ平遺跡を原点として諏訪大社上社本宮について試す
先の例では、神社に詳しい人ならすぐに理解できると考えていますが、聞いたことのない神社では実感がわかない人も多いと考えています。そこで、恐らく誰でも知っていると思われる諏訪大社上社本宮について試して見ました。ます、長者ヶ平遺跡から諏訪大社上社本宮に線を引きます。そこから直角で東方向に線を引くと神崎神社(千葉県香取郡神崎町神崎本宿1994)に行きあたります。次にそこから直角で北に線を引くと古峰神社(田村市滝根町広瀬赤沼)に行きあたります。これを図にすると図S7になります。
ここで、神崎神社は香取神宮の式年造営のときは「あさめ殿」を造る常役であったり、祭神の天鳥船命は、香取神宮の経津主神と鹿島神宮の武甕槌神が大己貴命と國譲りの交渉をした際、事代主神のもとへ使わされた神とされていたりして、古くから厚い庇護を受けていた神社です。(HSCPで見る限り神崎神社の方が香取神宮や鹿島神宮よりも上位にある)。図S7で見える矩形はほぼ完全な正方形になっています、そして、諏訪本社上社本宮と古峯神社は長者ヶ平遺跡-神崎神社間のピギーバック配列の位置になっていることを意味しています。
一方、古峰神社は福島市街地東部の茶臼山山頂(258m)にある神社です。この場所は北畠顯家の家臣が建武二年(1335年)に移住した茶臼館跡とされていて、古峰神社としては茶臼館跡に大正三年(1914)に鹿島神宮を勧請したことになっています。しかし、HSCPで見ると古富士線も持つ完璧な神社群中心の位置にあるので、古来この場所に神社があったものを懸田定隆が茶臼館を建てるときに取り壊したに違いありません。ちなみに、古峰神社-神崎神社間のピギーバック配列にある照崎神社(福島県南相馬市原町区上渋佐前屋敷197)は2011年の東北地方太平洋沖地震による津波の際に、周辺まで津波がきたにもかかわらず、被害のなかった神社として知られています。
図S7の正方形の一辺は長者ヶ平遺跡から時計回りで書くと、測地線長で200.0km、204.3km、206.0km、202.5kmとなります。実は、ここで驚くことは、この正方形ではありません。図S7で桃色の線で示したように、長者ヶ平遺跡-諏訪大社本宮間のピギーバック配列に位置する神社が無数に存在することです。しかも、図では省略していますが、四つの辺すべてに同じように数えきれないようにピギーバック配置された線が存在します。実は、同じように、図S4の矩形でも、湯ヶ峰-古富士ポイント間に対するピギーバック配列される神社も異常に多くの神社が該当します。このような、特異な神社配置は、偶然にして起きる事象ではありません。古代からHSCPによる神社配置が存在した決定的証拠となります。これは、後に詳しく説明します。
図S7正方形を作る長者ヶ平遺跡-神崎神社間のピギーバック |
★長者ヶ平遺跡を原点にすると天孫降臨の地も説明できる。
図S8に示すように、①長者ヶ平遺跡から、これまで、日本の神社の原点としていた②最上位経王大菩薩(島根県十六島町)や、天皇陵が直線に結んだ線の終着点である②本宮神社に対して線を引き、そこから直角に線を延長すると、御蔵洞、天ノ逆鉾に到着します。 一方、安房國一宮である、⑦洲崎神社、⑥氷川神社からも直角で③天ノ逆鉾と⑤御蔵洞に到着します。直角からわずかずれている理由は地殻変動によるものと思われ、その傾向は良く似ています。
神話にある天孫降臨の地として、九州南部の霧島連峰の山である「高千穂峰」と、宮崎県高千穂町の双方に降臨の伝承がありましたが、どちらの場所が比定されるかは定説がなかったのが現状でした。そこで、高千穂以外に九重連峰や久住山、はてはソウルが変化したとされる福岡県の脊振山など色々な場所が提案されていましたが、どれも確かな裏付けがなく、謎のままになっていました。ところがその地は図S8を見れば一目瞭然です。宮崎県西諸県郡高原町にある高千穂峰の山頂標高1,573mの場所です。ここには天ノ逆鉾があります。 高千穂峰の山頂で逆さに刺されていた鉾の由来は不明ですが奈良時代には既に存在していたといわれています。この鉾は後の火山噴火で折れてしまい、現在残っているものはレプリカです。柄の部分は元のまま地中に残っていることになっています。
剱岳へ1907年に國土地理院の前進である陸軍参謀本部の観測隊がはじめて登頂したときも、それまで未踏であったはずの頂上に青銅製の錫杖があり、それが立山博物館にあります。ここで使われていた青銅と、逆鉾の柄の部分の青銅をぜひ分析し比較してもらいたいと希望しています。
山形県飽海郡遊佐町吹浦字女鹿三崎山の縄文時代の遺跡からも青銅の刀子が発見され、こちらは國立博物館にあります。常識的な先入観を捨てて、それらを分析すると意外な結果が出る可能性があります
図S8長者ヶ平遺跡を出た線が直角で天ノ逆鉾と御蔵洞に到達する図 (地図の原点は図の中央付近に設定、地図の歪で角度は正確な値を示さない) 2014.10.22補正内角に変更 赤色文字で示した角度は補正内角による値を示しています。この角度の方が地図を持たなかった古代人の意図していた角度に近いと考えます。 ①-②-⑦の補正内角は誤差が大き過ぎ、この線は意味を持たない可能性があります。⑦の点を須崎神社に代わって若宮神社(横須賀市浦賀 5-1-2)にすると、その補正内角は90.45゜となり、さらに誤差が少なくなりますが、これも果たして意味があるかどうかは現在のところわかりません。 注;若宮神社も神社群中心の位置にあります。 2014.10.22日追加 |
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注; 氷川神社の摂社として門客人神社があり、この理由を元々は荒脛巾(あらはばき)神社で、あったものを |
★天孫降臨の地とシュメールの関係?
これまでの説明で、紀元前千年以上も前から、見通し外にある遠距離の方角を精密に知ることができたことが明らかになりました。これは、これまで考えられていなかった高度の文明を持った人達が日本列島に到来していたとしか考えようがありません。先に上げた縄文時代の遺跡から出土した遊佐の刀子などはその証拠であると考えています。また、これとは別に日ユ同祖論の中で神社神道とユダヤ教の類似などから、古代にユダヤ人が日本に渡来しているとした根強い説があります。確かに、この説の中には納得できる点も多くあります。このようなこともあり、HSCPによって日ユ同祖論に関係するものがないかを追い続けてきました。そして、シュメール=妙高であることを知りました。「シュメール」はサンスクリットのスメール
Sumeru,メール Meru の音写、玄奘三蔵法師は妙高山と訳しています)。仏教用語としては須弥山とも呼ばれ仏教の宇宙説にある想像上の霊山とされています。また、シュメールはメソポタミア(現在のイラク・クウェート)に興った最古の都市文明であるメソポタミア文明ともされているので、妙高山がHSCPによってその位置が説明できれば、わずかながらも、日ユ同祖論にかかわる片鱗が見つかったことになります。
図S13 古富士から妙高山を経由 90.34°(補正内角)で最上位経王大菩薩に到着 |
そんな背景もあり、もしかしたら?と考え、古富士ポイントから越後富士とも呼ばれている妙高山(新潟県妙高市)へ線を引き、そこから直角に伸ばすと最上位経王大菩薩(島根県出雲市十六島町252)へ行き当たりました。私がこれまで、神社の原点と主張してきた神社です。正直言ってこれには本当に驚きました。最上位経王大菩薩はHSCPによる線引きで長い間手間をかけ、苦労した末に求めた神社でした。これがこんなに簡単に求められることなど考えたこともありませんでした。
出典(吉野裕子著?)を忘れてしまいましたが、「日本に初めて到来した神が妙高山に降りてから高天原へ行った」との記載を読んだことがあるような記憶がありました。そこで、最上位経王大菩薩の位置と天ノ逆鉾の位置をHSCPで調べて見ました。その結果は再び驚く結果となりました。
図S14 94本もある最上位経王大菩薩-天ノ逆鉾間のピギーバック |
最上位経王大菩薩-天ノ逆鉾間のピギーバック配置をみると、図S14に示したように94本もの線があり、その角度の平均値は90.14゜になっています。図では90゜±1度以内に収まる線を表示し、その角度の計算結果を表1に示しました。(神社名は省略し、その位置を緯度・経度で世界測地系によって示しています。また計算は國土地理院の地球を楕円体とした超精密な計算を利用しています。)
一点を固定して、ランダムに二点を取った場合、その二点に引いた線が1%の角度精度で直角になる確率は約1/100です。さらに、この屈曲点が定まった円弧に接する大雑把な確率は1/70です。したがって、ピギーバック配列が成立する大雑把な確率は1/7,000ほどになります。それにもかかわらず、常識を超えた数の線が存在することはこの神社配置が計画的に配置されていたとする決定的な証拠になります。
このように、かつて地道な苦労の末ようやく見つけた島根県出雲市十六島町にある最上位経王大菩薩の位置がHSCPにより、「シュメール」の意味を持つ妙高山につながっていて、さらに最上位経王大菩薩-天ノ逆鉾間のピギーバック配列となる線が多数存在することがわかりました。ここでは省略していますが、本宮神社-天ノ逆鉾間でも多数のピギーバック配列が存在することがわかっています。これは明らかに神話で伝えられている天孫降臨の地が高千穂の峰にある天ノ逆鉾であることを明示しているものです。
注; 管理人自身としては天孫降臨など全く現実のものでないと考えていますが、そのような言葉が生まれた背景として書きました。
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図S14 の屈曲点にある神社位置とその内角、その平均値は 90.14 度 |
注;妙高山の名前の由来は「越の中山」と呼ばれていたものが、好字二字令により「名香山」と当て字され、それが「みょうこうざん」と読まれるようになり、「妙高山」の字が宛てられたとしたこじつけのような説もありますが、すでに妙高そのものが最高の好字であるので、「妙高」の意味を知らない人の説と考えています。妙高山は南北約160m離れて南峰と北峰の二つの峰があります。南峰(2,454m)頂上には妙高大神を祀っています。半世紀も前ですが、主峰と勘違いして登頂した北峰(2,445.6m、一等三角点の)直下には洞窟と祠があり、岩の間から清水が流出していました。付近には岩しかありません、このような場所から水か出ることだけでも不思議なことですが、この水はどんな日照りでも枯れないと言われています。このような珍しい現象が、この山が古くから特別に崇敬されていた理由の一つと考えています。
2013.3.30記
★忠生遺跡は古代祭祀場跡
(関東でも見つかった縄文遺跡と神社の関係、香取神宮・位置の謎を解明)
これまで、縄文遺跡の位置と神社の位置が幾何学的に強く関係していることを何度も実例を上げて説明してきました。しかし、これまでの常識を超えた説はなかなか受け入れられません。とくに、専門家ほど、この傾向が強く、「素人の戯言」として相手にされない事もあります。このような中で、今度は関東でその実例が見つかりました。これは、私もこれまで予想したこともなかった衝撃的な実例で、まだその興奮がおさまらない状況が続いています。本当に不思議なことがあるものです。
掲示板でも書いたように、3月18日町田市立博物館へ「忠生遺跡 町田市内最大遺跡の発掘と成果」の展示を見に行きました。ここで注目したのは安山岩製の巨大な石棒です。ここでは、粉砕された状態で発掘されたものを復元した実物が展示されていました(図S15、長さ約184cm、幅17cm)。この石棒は主に東北地方で多く見られる男根をモチーフにした石棒とは明らかに異なります。実物を見ていませんが長者ヶ平遺跡(新潟県佐渡市)もメンヒル状のものが道路工事中に発見されています。さらに、この遺跡から出土した土器の中にも吉備の特殊器台を連想するような大型のものもあるので、もしかしたら、この遺跡でも、長者ヶ平遺跡のように神社群中心があるのではないかと直感しました。
自宅に戻り、早速神社群中心を求める作業にとりかかりました。忠生遺跡の発掘面積は約70,000平方メートルもあり、その面積は広大です。そこで、住居跡が高密度で検出され、先の石棒の検出された忠生遺跡A1地点付近をHSCPにしたがって地図上に線引きし、周囲の神社から引いた直角線の収斂する点を試行錯誤によって探索しました。この方法は熟練が必要であり、仮に収斂点が見つかったように見えても、結線が進むにつれて矛盾が増え、失敗に終わることも多く、場合によっては運も必要とする難しいものです。しかし、今回は探索範囲を絞ったことで、意外なほど簡単に収斂点を求めることができました。
その位置を緯度、経度で示すと、
北緯 35度34分10秒53 東経 139度24分56秒28 (世界測地系)
となりました。
その収斂点は完璧で、古富士線もあり、広い範囲にわたってHSCPが成立するだけでなく、派生する神社群中心も全く矛盾がないことがわかりました。特に、伊豆大島差木地にある春日神社や円通殿(長野県下伊那郡大鹿村鹿塩入沢井)などのように、これまでの方法では見つからなかった神社群中心まで求めることができました。
以後、忠生遺跡で見つかった神社群中心を「忠生遺跡A1地点」と呼ぶことにします。この住所は東京都町田市木曽西2-17-21になります。現在、遺跡は埋め戻され、忠生ショッピングセンター305と呼ばれる建物が建ち、ノジマ、三和忠生店、ホームピックなどが入っていて、神社群中心に相当する位置にはホームピックがあります)。残念なことに、この位置は石棒が検出された位置と概略一致していることはわかっていますが、現状の位置と遺跡の詳しい位置関係がわかっていないので、その詳細はわかりません。線引で求めた神社群中心の位置の精度は10m以内程度に収まっていると考えています。
いつまでも脳天気でいて、学問的に物事を考えることができない人達の中には、未だにHSCPを認めようとしていない人もいるので、とりあえずここでは中心付近のHSCP線は省略して、この点が古富士ポイント、長者ヶ平遺跡、伊佐須美神社などと、どのような位置関係になっているかを見てみます。これらのポイントを選んだ理由は先の「★神社のはじまり。」から察しがつくと考えています。
その位置関係を示したものが図S17になります。この図でも図S4と似た方形が再び現れます。この図から①の忠生遺跡A1地点は④長者ヶ平遺跡を起点として、②木曽駒ヶ岳(長野県木曽郡木曽町2,956.0m)、③高頭山(富山県富山市、1,203.3m)の二つの山岳を経由した直角線の交点にあることになります。①の忠生遺跡A1地点の地名は「木曽」となっていて、②木曽駒ヶ岳の「木曽」と同じ発祥を持っているのではないかと考えられます。
③高頭山(たかずこやま)は富山県富山市にある1,203.3mの山です。マイナーな山名ですが、この山の頂上も神社群中心の位置にあるので、古代人が神社の位置を決める際に参照していたことは間違いありません。また、木曽駒ヶ岳の頂上には現在も神社があり、もちろん神社群中心の位置にあります。
図S17を見ると、まず長者ヶ平遺跡の位置が定められ(図S3から図S5を参照)、次に木曽駒ヶ岳と高頭山の位置から①忠生遺跡A1地点が決められたと考えられます。その次に、香取神宮の位置が①忠生遺跡A1地点と伊佐須美神社(式内社、名神大社)の位置によって決められたことになります。(伊佐須美神社は図S3にあるように、長者ヶ平遺跡の位置と蛭ヶ岳の位置によって決まっています。)
ちょうど、全國の一宮の位置についてHSCPで説明しようと試みていたところでしたが、香取神宮(式内社、名神大社、下総國一宮)の位置(絶対位置)を詳しく説明することができず、大変困っていたところでした。ここで、①の忠生遺跡A1地点の神社群中心が見つかったことで、ようやくこの絶対位置を説明できるようになりました。
町田市立博物館の見学は思ってもいなかった成果を与えてくれました。
図S7や図S17は古代人が意図的に考えたものではなく、「恣意的な線引の結果に過ぎない」と未だに考えている脳天気な人もいるので、現在も崇敬の厚い香取神宮と諏訪大社上社本宮の位置について最も単純な線で示したものが図S18です。未だに確率論も無視する脳天気な人たちには無用の言葉ですが、このような精度の高い特異的な事象が続けて起きることは滅多にないことを数値で示すことができます。
香取神宮の位置は、図S17とは別の視点から見ても長者ヶ平遺跡を発した線がまるで神が決めたような正確な直角精度で諏訪大社上社本宮から香取神宮に到達しています。
何度も書いていますが、この角度の計算式は國土地理院の超精密な計算式を利用しています。個人の意図が入る余地は全くありませんし、捏造もできない確かな事実です。
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図S18 香取神宮と諏訪大社本宮の関係 |
ここで、香取神宮の絶対位置を完璧に説明することができました。手前味噌ですが、これまでこのように香取神宮の絶対位置を説明できた人はいないので、はじめての成果であると自負しています。そして、HSCPをいつまでも認めようとしない脳天気な人たちにお聞きします。2000年以上も前の事象でこれだけ科学的に実証されたものを知っているでしょうか?
どんなに、無理をして探しても、まだ文学の世界にあるようなあいまいで不確かなものしか見つからないはずです。HSCPによって、神秘の世界にあった神社に関わることが、科学的に検討できることがはじめて可能になったことをぜひ知ってもらいたいと希望しています。
同じようにして、陸奥國一宮である近津神社(ちかつじんじゃ、式内社、茨城県久慈郡大子町下野宮1626)も長者ヶ平遺跡と①忠生遺跡A1地点の位置によって決められたことがわかります。「忠生遺跡A1地点」についてはさらに驚くことが続きます。
また、HSCPを認めようとしない人たちの考えている、「日本は神社が多いからどんな規則で線を引いても必ず何らかの神社に行き当たるのは当たり前だ」とした考えも、ここで間違いであったことが良くわかるでしょう。一宮はその地域を代表する神社とされていて、とても数が少ないのです。
今回見つかった神社群中心「忠生遺跡A1地点」の位置が全國の一宮の位置に強く関係していて、北海道の神社の位置まで影響しているとした驚愕する事実もあります。この位置が住居跡ではなく、重要な祭祀場であったことが益々はっきりとしてきました。
2013.4.28記
忠生遺跡A1地点を起点とした図S17が出来過ぎと考えた人は多いでしょう、縄文期の遺跡の位置と神社の位置が関係していることなど、誰も予想もしていない常識を超えた主張をこれまでしてきました。この主張は確率から考えても間違いないものですが、その結果があまりにも常識を外れているので、数字を専門とする数学者ですら、疑いを持ってしまったこともあり、学者がご自分の専門も肝心のときに使うことができないのでは、一体学者は何のために学んできたのだろうかと疑問に思ったこともありました。
数学の専門家ですら、この状態ですから、一般の人はさらに疑いを持つに違いありません。図S17だけではまだ満足できない人も多かったと考えています。そこで、図S19を示しました。この図は忠生遺跡A1地点を起点として全国の一宮の相互間の結線で直角を満足した線を表したものです。この図に付属した表からわかるように、すべてが1度以内の直角精度に入っています。(東北、北海道に伸びる線の誤差は一度を超えていますが、これは地殻変動によるもので、この変動を除けば1度以内の誤差に入るはずです)。
一宮はその名の通り同じ地域に一つしかないものです。このように希にしかないもの同士の結線で正確な直角線が多く出来ることが偶然ではあり得ないことは数学を知らなくてもわかっていただけると考えています。ここでも、北海道まで線が伸びています。ここから、北海道の神社が明治期にできたなどと言っている学者の意見が、如何にいい加減な説であるかがわかるはずです。また、この図だけでも、現在の常識的な歴史観が大間違いであることがわかるでしょう。また、長年謎となっていた一宮成立の謎にも迫る決定的な図でもあると考えています。
図S19を見ても忠生遺跡が如何に重要な祭祀場であったかが推測できます。そして、記紀や伝承から得られた歴史観が如何にでたらめであるかもわかるでしょう。ところで、忠生遺跡で検出された石棒は粉砕されていました。その粉砕された時期は何時なのでしょうか?、誰がどんな理由で粉砕したのでしょうか?、それは大いに興味のあるところです。まだ、出土の状況が良くわからず、何とも言えないので、町田市立博物館で5月12日に行われる谷口康浩氏(國學院大學教授)の講演「縄文人の石神 大形石棒の意味を読み解く」を聞きに行く予定です。
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図S19 忠生遺跡A1地点を神社群中心とした結線(式内社、一宮は論社、争いのある社を含む) すべての屈曲点の直角誤差は一度以内に収まっている。誤差の許容値を少し増やすと更に多くの一宮が出現する。 注;⑧、⑫。⑳に到達する線の角度誤差は一度を超えるが、これは地殻変動による(誤差の傾向は良く似ている)。 この図からは古富士ポイントの位置が神社の位置の決定に無関係のように見えます。しかし、まだ説明していませんがその位置決定に古富士ポイン の位置が深く関わっていることが後にわかってきます。 もしこの図を伊能忠敬が見ていたら驚きのあまり、気絶していたに違いありません。 考古学者や神道の研究者はこれでもHSCPを無視し続けるのでしょうか?、すでにこのような研究者が国賊に相当することが明らかになっています。 その理由は、ここでは書くことのできない国益に関する重要な問題が背景にあります。メールがあればその理由を明らかにします。 図S17に表示したポイントと、縄文遺跡の位置を使って全国一宮の位置のほぼ全部ををHSCPで説明できることがわかりました。2013.5.8 |
2013.5.2記
図S19-2 北海道一宮と本土一宮の関係(神社はすべて一宮) |
5月12日に町田市立博物館へ「縄文人の石神 大形石棒の意味を読み解く」の講演を聞きに行きました。講演後の学芸員の説明から、先の石棒の検出された詳細な位置を聞くことができました。これによると、私が神社群中心として求めたポイントから東南東約70mの点であることがわかりました。たった70mのずれでしかないと考える人とそうではないと考える二つの意見があると思います。私から見ると、この70mのずれは許容することができない距離です。そこで、私の求めた神社群中心の位置からはどのような出土があったか聞いたところ、この位置は昭和30年代に工場が立てられ、すでに遺跡が破壊されていて発掘を断念した場所だそうです。このポイントの付近からも、何かが検出されたのではないかと考えるととても残念でなりません。
残念ながら、破壊されてしまった場所を云々することができなくなりましたが、このポイントと一宮の驚く関係から、非常に多くのことを学びました。そして、これを契機にして私の研究はまた急速に前進しました。石棒の粉砕状況からは、その石棒が後世になってから破壊されたのではなく、住居跡と見られる場所が実際に使われている時期に石棒が焼かれ、その後粉砕された様子であるとのことです。私の求めたポイントがこの石棒を焼く何らかの儀式と関係があったかどうかはわかりません。この時期は今から4500年前になりますから、一般的に考えられている神社のはじまりの年代とは大きく乖離しているので、偶然の一致として考えられないこともありません。
私は、神社の発祥は縄文時代から始まると主張してきました。その年代をどんなに新しく見ても今から約2,800年前よりも前と見ています。遺跡が、どのくらい伝承されるかとの問に対して、谷口教授の話によると500年くらい伝承されたのではないかとする例があるそうです。神社群中心の位置が、遺跡にあった何らかの場所か、それとも遺跡の伝承によって、そこが神社群中心とされたのかはここでは結論付けることができません。
ところが、掲示板にも書いたように、縄文遺跡の位置と、全国の一宮の位置の関係から、一宮の位置が決められた時期が縄文時代に決定されたに違いないとする決定的証拠が新たに数多く見つかりました。さらに、これまで謎とされていた、石の宝殿(兵庫県高砂市)、益田岩船(奈良県橿原市白橿町)も同一時期に位置が決められたとする新しい証拠も見つかりました。その証拠は、見るとだれでも驚き、しかもHSCPの存在と遠距離にわたって正確に方向を知ることができたことを如実に示しています。この詳細の発表は都合により、少し後になります。
これとは別に、図S19で、北海道まで伸びた二本の線について詳しく説明します。一般的な常識では、北海道の歴史は本土の歴史とは異なるので、本土の遺跡と関係がある訳がなく、しかも北海道の神社は明治の開拓期にできたものとされているので図S19の線は偶然であると考えた人は多いでしよう。そこで図S19-2を示します。
ここで各神社間を長者ヶ平遺跡を経由して引いた線の内角は
岩見沢神社-長者ヶ平遺跡-都々古別神社 (陸奥国一宮、福島県石川郡石川町下泉269) | 89.40゜ |
姥神大神宮-長者ヶ平遺跡-石都々古和気神社(陸奥国一宮、福島県東白川郡棚倉町棚倉馬場39) | 88.99゜ |
都々古別神社(つつこわけじんじゃ)、石都々古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)
となって、直角に極めて近い値になっています。ここでも、直角からのずれの主要な原因は地殻変動によるものでその傾向は良く似ています。都々古別神社 と石都々古和気神社はどちらも陸奥国一宮を名乗っています。このように、滅多にない一宮同士を結んだ線が正確な直角となるのは、この神社配置が計画的に配置されたとしか考えられません。それが偶然の結果であると考える人は全国の一宮間を長者平遺跡を経由して結んで見るとわかります。多くの線が正確な直角になることに驚くでしょう。こんな事象が偶然にして起きることがあり得ないことは、確率論を出すまでもなく、わかるでしょう。(全国一宮の直角配置については後に詳しく書く予定になっています。)
注;都々古別神社と石都々古和気神社はどちらも陸奥国一宮を名乗っています。図S19から見るとどちらも幾何学的には同じ特性を持っていて、優劣をつけることはできません。やはり、一宮は、元は神社配列に特徴があって、特別に崇敬されていた神社をその本来の事情を知らずに、時の為政者が勝手に付けた呼び方ではないかとする考えを確かにするものです。
ここで、岩見沢神社は明治の開拓時に、姥神大神宮は建保4年(1216年)に創建されたと伝えられています。伊能忠敬が全国を測量した時期は1800年代の初めの頃です。大日本沿海輿地全図が完成したのは伊能忠敬没後の1821年になっています。この時期の測量の精度では図S19や図S19-2のような角度精度で神社を配置することはできなかったはずです。姥神大神宮が1216に建てられたとすると、この位置は誰が決めたのでしょうか。律令以降の古代の記録などからはそのような精度で測量がされていた記録はなく、1800年代になってようやく、全国の地図が完成しています。
やはり、北海道の神社は、はるか古代に優れた能力を持った何者かによって、あらかじめその位置が定められ、小祠のようなものが建てられていた位置に、開拓時に神社を建て本土から色々な祭神を勧請してきたに違いありません。明治政府が「怪しい迷信に惑わされて小祠を信仰することを禁ずる」令を出しているのはそのような小祠が開拓時には北海道の原野にたくさんあったことを物語っています。民族学者でもある谷川健一氏が書いているように、杉の根の位置を神社の位置にしたような例は確かにあったのかも知れません。しかし、もし小祠がすでにあれば、その正体がわからなくても、その位置に神社を建てたに違いありません。しかし、禁令も出ているので、その事実はその後永久に葬られることになってしまったのです。古代に人が渡った記録の全くない離島にある神社の配列が正確なHSCPを満足している事実も同じような理由によるものでしょう。それは、これからさらに明確になって行きます。
2013.5.15 記
★神社のはじまりその2
「神社のはじまり」では伊佐須美神社の社伝から神社のはじまりが新潟県からはじまったことを説明しました。しかし、このような考えは記紀のどこを探しても見つかりません。これまで誰も想像していなかったことで、未だに疑問を感じている人も多いに違いありません。ここで、多くの人が日本の文化の発祥地と常識的に考えている近畿とどのようなつながりになっているかを説明して行きたいと考えています。「伊佐須美神社社伝の謎その一」では、まだ書き残している部分がありましたが、急遽その2に移ります。その理由は、これまで誰も想像もしていない非常識と思われる説を書いたことで、やはりこのサイトはトンデモサイトだと勘違いしてしまう人が多く、特に専門家ほどこの傾向が強いので、その疑いを早いうちに晴らす目的もあります。専門家のすべてではないのですが、意外にも専門家の方が常識から抜けられない人が多いのです。その第一の理由は、自分の知識と考え方に対する自信でしょう、歴史家であれば、自分の持っている歴史観は絶対に間違いないと思い込んでいる人が多いのです。それ自体は決して悪いことではないと考えますが、その分視野が狭くなっていることに気が付きません。そして、少しでも考えの異なるものがあると、興味を持つどころか、遠退いてしまうのです。
古代史は、まだわかっていないことの方が多いので、権威者の意見が勝つのがこの世界です。ここで、権威者の意見は確かである証拠もないまま、体制の意見にすり替えられます。すると、逆に歴史観は一つではなくなります。その理由は、判官贔屓をする人達が逆に増えてくるからです。難解な古文書(専門家ですら意見がわかれるほど難しいことが多い)を読めない人達が多いことにかこつけ、やさしい言葉で反体制の歴史観で売り出します。それは理解しやすいことが多く、人氣を呼ぶものも出てきます。常識的な歴史観はこのような中で出来てきます。これをさらに複雑にするのはマスコミの対応です。NHKですら、全く不確かな歴史を確かなような語り口で興味本位で放送することもあります。もうこのようになったら確かな歴史観など誰も持たなくなるのは当たり前です。竹島や尖閣列島だけではなく、沖縄や対馬、壱岐まで、どこかの国に占領されてしまってもおかしくないほどになっています。このHPは日本が将来そのようなみじめな事にならないように切なる願いを持って開設しているのです。残念なことにまだその機は熟していません。
●伊佐須美神社社伝の謎その二
図S20 伊佐須美神社の伝承が東海、近畿の神社にに影響を与える図 |
先の図S19-2の説明で、一宮同士が長者ヶ平遺跡を屈曲点として互いに正確な直角を保って配置されていることを実例を上げて説明しました。それでは、社伝の伝えられていた伊佐須美神社や「基準」の意味があると推定した博士山の位置に対して直角の成立する線の上にはどんな神社があるのでしょうか?
それを示したものが図S20です。日出町(ひいちょう)ポイントはエレキジャック サイエンス No.1では伊豆諸島からの直角線が到達する収斂点として八柱神社(八桂社は誤り)と誤認していたポイントです。このボイントの干字状パターンから、干字状パターンと一宮の関係に関わる新しい規則を発見しました。
2013.5.17 記
また、 掲示板に書いた、石の宝殿と益田岩船の関係を示す図は図S20とは全く異なる図になります。この図を見れば小学生でも石の宝殿と益田岩船の位置が同じ思想で決定されたことがわかるでしょう。そして小学生でも、HSCPを未だに頑強に否定している人達が、月から帰還した宇宙飛行士に向かって「月には兎がいるはずだと」虚しい主張をしていると同じほど滑稽に見えて来るでしょう。この図の説明は都合により、少し後になります。
図S21 御神楽岳、明神ヶ岳からの直角線は伊射波神社(志摩国一宮)に到達し、駒ヶ岳からの線と交わる |
次に、伊佐須美神社の社伝にある残りの山、御神楽岳と明神ヶ岳から長者ヶ平遺跡へ到達した線の直角線がどこに行くかを示した図が図S21です。この図から、その線はどちらも長者ヶ平遺跡を経由して伊射波神社(いざわじんじゃ、三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1210)に到達します。伊射波神社は志摩国一宮とされている神社です。さらに、古富士ポイントから出た線も木曽駒ヶ岳を経由して伊射波神社に到達します。この事実は伊射波神社の位置が御神楽岳または明神ヶ岳の位置と長者ヶ平遺跡遺跡、古富士ポイントと木曽駒ヶ岳の位置関係によって決められたことを意味しています。木曽駒ヶ岳は図S17でも忠生遺跡A1地点の位置を決める重要なポイントとなっています。
注;伊佐須美神社のある会津美里町やもう少し離れた会津若松方面からは博士山、明神ヶ岳は良く見えます。しかし、御神楽岳はこの方面から見ることはできません。長者ヶ平遺跡から見た御神楽岳と明神ヶ岳の角度は約0.3度ずれています。このずれが図S12の者ヶ平遺跡遺跡における角度の差になっています。これが意図的なものか、何か別の理由があったかは今のところわかりません。また、図S20、図S21に示す角度の直角からのずれの主な原因は地殻変動によるものと考えられ、その傾向は似ています。それぞれの線が富部神社、日出町ポイント、伊射波神社に到達するまでにフオッサマグナの領域を通るので、そのずれが大きくなっています。
伊射波神社のはじまりは、稚日女尊(わかひるめのみこと)を海の道から加布良古崎へ祭祀したのが起源とされています。しかし、先の事実から見ると、それは後世になってから、勝手に語られたものであって、事実を示しているのではありません。このようにHSCPで見る限り、神社の創起にかかわる伝承はほとんどが事実を示していないことがわかります。 しかし、伊佐須美神社の社伝はその内容が正しいかどうかは別にして、社伝では遷宮地となっている御神楽岳、博士山、明神ヶ岳、伊佐須美神社の位置そのものはそれぞれ重要な意味を持っていて、日本の神社の位置を左右する重要なポイントになっています。それが暗号のような形で社伝の中に隠されていたことになります。
伊佐須美神社の社伝に関わる説明はまだ全部が終わっていませんが、伊佐須美神社はその社伝にあるよりも古くから、その位置が決められ、日本の神社の位置を決める重要な位置にあったことがわかります。このように重要な神社の拝殿が2008年10月3日に不審火によって消失してしまったことは残念でなりません。現在は図S22のような仮本殿が建っていますが、図S23にあるような、旧出雲大社(平安期)の予想図に良く似た壮大な神社を建てる予定があるようです。完成予想図は、この神社のはじまりから見てもまさにふさわしい姿をしていると考えています。
図S22 伊佐須美神社仮本殿 | 図S23 社殿造営姿図 |
2133.5.27 記
さて、伊佐須美神社の話の出たところで、図S20に戻ります。ここでは伊佐須美神社から出て、長者ヶ平遺跡を経由した線が日出町ポイントに到着する図を書きました。ここに書いた日出町ポイントには現在は神社がありません。たいていの人は、図S20で、日出町ポイントから出た線が、富部神社を経由して直角で石の宝殿に到達する点を選んだに違いないと考えるでしょう。しかし、もしそんなことをしたら、図S20はとんでもない誤魔化しをしたことになります。この疑いを晴らすために、エレキジャック サイエンス No.1に書いた図-16の「三つの島から伊良湖岬の八桂社に到達する図」を参考にしてください。ここで書いた「八桂社」は地図の間違いであって、実際は「八柱神社」であることがその後の現地調査でわかりました。しかし、この場所は神社群中心のようにも見えますが、古富士線がないとした疑問があったり、まだ説明していない真の大神神社(奈良県桜井市三輪の大神神社付近にある神社群中心)の位置から到達する線にも矛盾があったりしていて再検討を必要としていた場所です。
そこで、八柱神社付近に仮想神社群中心(その場所に神社がない仮想神社群中心)がないか慎重に調べました。この方法はいつも書くように、試行錯誤の作業が続く難しいものです。しかし、ついにその場所を発見しました。その点を日出町ポイント(ひいちょうぽいんと)と命名してその位置を世界測地系で示すと、
北緯 34度34分59秒15 東経 137度02分36秒96
となり、その位置を図S24に示します。
図S24 日出町ポイント(十字印の中心位置、愛知県田原市日出町長畑)
その住所は愛知県田原市日出町長畑になります。これまで、図S25に示すように伊豆諸島から到達する直角線の収斂点が八柱神社としていたものが誤認であった可能性が生じてきました。HSCPでは、遠方から到達する線は必ず神社群中心に到達する規則があります。日出町ポイントは八柱神社の北東約260m、帰命寺の北約88mの点になります。かつてこの位置には間違いなく何らかの神社に相当するものがあったはずです。このように、極めて高い直角精度で直角線が収斂して来る特異な点ですから、何か特別な意味を持っている点になっているはずです。その意味について伊豆諸島から日出町ボイントに到達する特異な収斂線と日出町ポイントの干字状パターンを見てみます。
★伊豆諸島から日出町ポイントに到達する正確な収斂線
注;伊豆諸島から到達する直角線に大島、神津島、三宅島(一本追加)からの線を追加いたしまたした。同時に、八丈島の神社名の間違いを訂正いたしました。神津島の阿波命神社の位置は国土地理院の地図では神社の位置を示すドットの位置が間違っていました。
そこで、現状の本殿の位置に訂正し、角度計算をやり直しました。ところで、阿波命神社(長濱神社)境内入り口付近右崖側の立ち上がり部分に古代の神社様式を持つと言われている石積の祭壇のような場所があり、この場所が阿波命神社の旧蹟地とされていて、都の文化財に指定されています。しかし、この旧蹟地の位置を用いると、日出町ポイントへの直角線が大きくずれてしまいます。
旧蹟地の位置は、他の島の例から見ても、古代から本殿があった位置とはとても考えられない位置にあります。現在、本殿のある位置には昭和6年に本殿(1988年に崖崩れで倒壊する以前の建物)が建てられ、それ以前は旧蹟地に本殿があったように語られています。しかし、HSCPで見る限り、古代に神社の配置が決められた時から、現在本殿の建てられている場所に元々何らかの神社に相当するものがあったところに、昭和になってからその跡地に本殿が建てられたと考えざるを得ません。旧蹟地とされている場所は、本来は阿波命神社の本殿ではなく、別の神社または阿波命神社に関わる何らかの祭祀場であったに違いありません。
島の人達が集まって盛若を飲むと必ず歌う神津音頭では「阿波の命の伝えも古きよ~ゆかし懐かし神津島・・・」と「阿波命」が歌の冒頭からはじまっていますが、HSCPから見ると、阿波命神社の位置は神社群中心の位置にはなく、物忌奈命神社が神社群中心の位置にあります。これは伊豆諸島に伝わる多くの伝承が神社配置が決められた時期の伝承ではなく、すでにHSCPの伝承が途絶えてしまってから創作されたものではないかと考えられます。下記表にある伊豆諸島にある延喜式内社に該当する神社の中にはHSCPから見ると、重要と思われる神社の多くが抜けているだけでなく、すでに忘れられているような神社があることからも、その考えが正しいことを示しています。
2013.7.15 注を追加、同時に図も変更
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大島、利島、新島、神津島付近 (大島から90.55度利島から90.28度で日出町ポイントに到達 |
八丈島付近拡大図(89.65度で日出町ポイントに到達) |
神津島から90.51度、三宅島から90.57度と90.74度の正確な直角で日出町ポイントに到達する | |
図S25 伊豆諸島(利島、神津島三宅島、八丈島)から日出町ポイントに収斂する6本の直角線 |
★母島・月ヶ岡神社や西日本の一宮と関係する日出町ポイントの干字状パターン
次は、日出町ポイントを中心とした干字状パターンに何か特徴がないかを見てみました。そのパターンを図26に示します。
図S26 日出町ポイントを神社群中心とした干字状パターン (筥崎宮、玉祖神社、西寒多神社、阿蘇神社、南宮大社はすべて一宮) |
ここでは、干字状パターンの中心線は日出町ポイントから古富士ポイントに引いた線になります。日出町ポイントから南側の線は海域になるので省略されていますが、驚くことに、松尾神社からは90.09度の直角精度で小笠原の母島にある月ヶ岡神社へ到達しています。さらに、干字状パターンの北西側端点である加茂神社(福井県福井市鮎川町、式内社)と白髭神社(福井県あわら市)またはその途中の南宮大社(岐阜県不破郡垂井町、美濃国一宮)から直角に伸びた線がすべて一宮に到達していることです。
各端点から南西方向に伸びた線の角度は直角からわずかずれていますが、その傾向は良く似ています。このずれも、地殻変動が原因と考えられます。一宮は一般の神社と違って桁違いに数が少ないので、このような事象が偶然にして起きることは滅多にありません。図S26も古代人が見通し外の遠距離に渡って正確に角度を決めることができた決定的な証拠となります。また、この神社の位置が決められたときは、すでに小笠原の位置も正確に把握されていたことを認めざるを得ません。
図S27 博士山を発した線が石の宝殿を経由して九州南端の枚聞神社に到達する
伊和神社、西寒多神社、宇佐神宮、上一宮大粟神社、枚開神社はすべて一宮 |
図S20を更に範囲を広げて九州までの結線を示した図S27 では、日出町ポイントを出発した線は富部神社を経由して石の宝殿(兵庫県高砂市)に到着します。 さらに、図7で示したように石の宝殿を出発した線は最上位経王大菩薩(島根県出雲市)を経由して91.40度で西寒多神社(ささむたじんじゃ、大分県大分市、豊後国一宮)に到着します。また、石の宝殿を出発したもう一つの線は伊和神社(いわじんじゃ、兵庫県宍粟市、播磨国一宮)を経由して宇佐神宮(大分県宇佐市、豊前国一宮、神社群中心は亀山神社の位置にある)に到達します。一方、最上位経王大菩薩を出発した線は上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ、徳島県名西郡神山町、阿波国一宮の論社)を経由して枚開神社(ひらききじんじゃ、鹿児島県指宿市、薩摩国一宮)に到着しています。
このように、博士山を出発した線は兵庫の石の宝殿に到着し、そこから出雲、九州北部に到達するだけでなく、四国、九州南端まで到着しています。その経由点と到着点となっている神社はすべて一宮であり、稀にしか存在しない一宮でこのような規則的な幾何学的関係があることは偶然では考えられません。
一宮は、神社の位置が決められた古い時期にその特異な幾何学的配置から、特別に崇敬されていたものを、後世になって時の為政者によって地域の中で最も格調の高い神社として一宮の格が与えられたもので、本来は一地域に一つとして決められたものではなく、あくまでも幾何学的都合で決められたものであって、各地に一つとして決められたものではなかったものと推測されます。したがって、各地に一宮の論社が多くある理由も、本来の由来を知れば、当然のことと考えられ、それを地域別に議論すること自体があまり意味のないことのように思われます。
2013.6.18 記
注;プラウザがFirefoxでは画面が黒くなってしまうことがあります。その場合は他のプラウザに変更してください。 |
★伊佐須美神社の社伝に端を発する謎の巨大石造物
先に、博士山を出発した線が石の宝殿を経由して九州南端まで到達することを示しました。これまで、長い間謎とされていた石の宝殿が神社の位置と同じ思想で配置されていたことに疑問を感じる人もまだ多いかもしれません。そこで、念のため、益田岩船の位置についても同じような配列思想があるかどうかを試して見ました。
図S28 博士山を出発した線が益田岩船を通り九州南端の枚聞神社に到達する 一宮神社(論社)、倭文神社、枚開神社は一宮 |
図S28がその図です。ここでも、博士山を出発した線が一宮神社(佐渡市羽茂飯岡、一宮論社)を経由して91.62゜で益田岩船に到着し、更に益田岩船を出発した線は、倭文神社(しとりじんじゃ、鳥取県東伯郡湯梨浜町、伯耆国一宮)を経由して91.55゜で枚聞神社(ひらききじんじゃ、鹿児島県指宿市開聞十町1366、一宮)に到達しています。しかも図S27と比較すると
佐渡では
図S27 | 長者ヶ平遺跡での角度は | 91.51度 | 差は0.11度 |
図S28 | 一宮神社 での角度は | 91.62度 |
出雲地方では
図S27 | 最上位経王大菩薩での角度は | 91.40度 | 差は0.05度 |
図S28 | 倭文神社 での角度は | 91.55度 |
となっていて、その傾向はよく似ていて、直角からのずれが地殻変動によって起きていて、本来はもっと正確な直角であったことを推定することができます。
ここで、日本三奇の一つであった石の宝殿と飛鳥で最大の大きさを持つ謎の石造物益田岩船が同じ由来を持つことが明確になりました。この巨大な謎の石像物は伊佐須美神社の社伝にある博士山から端を発していることになります。偶然ではないかとも言われていた、二つの遺跡が持つ1.6mの共通の溝幅は偶然の一致ではなく、共通の意図を持っていたことになります。
この二つの遺跡は更に驚く共通点を持っていますが、ここではまだ説明を残しておきます。
2013.6.19 記
★石の宝殿、益田岩船と妙高山の奇妙な関係
天孫降臨の地とシュメールの関係?では妙高山とシュメールの関係を書きました。「妙高山=シュメール」は単なるゴロ合わせに近い戯言か、それとも真実を含んでいるものかは今のところわかりまません。しかし、現在知られている古代文明で、高度の幾何学的知識や、天文学が存在していた可能性のあるのはシュメール文化しか見当たりません。ここで、仮に「妙高山=シュメール」としても、図S13は一本の線だけで、しかも「古富士ポイント」や「最上位経王大菩薩」など、このHPを初めから良く読んでいない人にとっては何のことやらさっぱりわからなかったに違いありません。 そこで、今度は良く知られている、日本三奇の一つである石の宝殿と飛鳥で最大の謎の石像物・益田岩船の二つの遺跡の位置と妙高山、一宮の配列関係について書いてみます。
図S29は図S27と図S28の図を合成した結線(青線)と、妙高山から引いたHSCPによる線を赤色で引いて重ねたものです。まず、①博士山から出た線は佐渡の④一宮神社(いっくうじんじゃ、一宮論社)を経由して⑬益田岩船に到着し、更に倭文神社(しとりじんじゃ、伯耆国一宮)を経由して㉓枚聞神社に到着します。一方、もう一つの線は妙高山で直角に進み三嶋大社(伊豆国一宮)に到着します。さらに、⑥水無神社を(飛騨国一宮)経由して⑬益田岩船に到着し④一宮神社を経由してきた線と交わります。このとき、⑥水無神社における内角は92.24度と直角からのずれが大きくなっています。この理由は、ちょうどこの線がフオッサマグナの西縁部分を跨いでいて地殻変動の影響を大きく受けていることに起因するものと考えています。
次に、②妙高山を出発した線は⑤射水神社(越中国一宮)を経由して⑦砥鹿神社(三河国一宮)に到着します。さらにここから⑭籠神社(このじんじゃ、丹後国一宮)を経由して⑯石の宝殿に到着します。妙高山を出たもう一方の線は⑧富士山本宮浅間大社(駿河国一宮)を経由していきなり九州の宇佐神宮(豊前国一宮)に到達します。また、⑧富士山本宮浅間大社から出た線は⑮出石神社(但馬国一宮)を経由して益田岩船に到着し、籠神社を経由してきた線と交わります。⑧富士山本宮浅間大社は世界文化遺産に登録されたばかりで、富士山との関わりだけが強く考えられていますが、本来は妙高山と石の宝殿や宇佐神宮を結ぶ重要な位置にあることになります。
くどいようですが、ここでは稀にしか存在しない一宮だけで、このように幾何学的に完成された見事な線を見て、HSCPを未だに認めない人達はどのように考えるでしょうか?彼らがうわべだけで考えて「日本は神社が多いので、どのような規則で線を引いても必ず何らかの神社に行き当たるのは当たり前だ」とする主張が成立しないことは明らかです。 未だに、確かかどうかわからない歴史観から脱することができず、HSCPを認めようとしない人達はやはり、月から帰還した宇宙飛行士に向かって「月には兎がいるはずだ」と主張していると同じように滑稽なことを言っていることになります。このような人達は正当な学問である確率論も認めていないことになり、学問そのものを否定していることになります。残念なことに、九州王朝説を盲信している著名な数学者の中にも、数学ではわかっていながら、常識的な歴史観から抜けられず、せっかく学んできた理論を生かせない人がいることは残念でなりません。
図S29 博士山を出発した線が②妙高山、⑬益田岩船、⑯石の宝殿を通り九州南端の㉓枚聞神社に到達する。 神社は富部神社と最上位経王大菩薩を除いてすべて一宮(論社を含む) |
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注;㉑宇佐神宮の本殿の位置には神社群中心はありません。代わりに、そのすぐ近くにある亀山神社の位置が神社群中心(角度計算の位置にも使用)となっています。これは初期の神社配置が決められたとき、現在の宇佐神宮はなかったことを意味しています。この時期には出雲大社も、伊勢神宮(内宮)も同じようになかったと考えられます。この時期に、現在著名で古社と考えられている神社が揃って存在していないことは不思議なことです。これらの神社は後世になって建てられたに違いありません、ただし後世といってもその時期は弥生時代まで遡るのではないかと考えています。それは、出雲大社や伊勢神宮の境内付近から検出された埋蔵物によって推定することができます。言い換えれば、一宮に相当する神社の位置が決められた時期はそれよりも遡ることが明らかです。それをさらに確かにする証拠もあります。もし、それが真実であるとすると、神社の由緒や社伝のほとんどは後世に勝手に創作されたもので、歴史的に見ると、ほとんど価値のないものが多いことになります。
石の宝殿と益田岩船は更に驚く共通点を持っていますが、ここでもまだ説明を残しておきます。
この驚く事実はとりあえず棚上げして次に進みます。
2013.6.25 記
★一宮の位置からも説明ができる天孫降臨の地
★天孫降臨の地とシュメールの関係? では「神話で伝えられている天孫降臨の地が高千穂の峰にある天ノ逆鉾であることを明示しているものです。」と書きました。これまで天孫降臨の地として色々な場所が提案されてきました。しかし、どれも語呂合わせのようなもので、説得力はありませんでした。元々、「天孫降臨」はあくまでも神話の中に語られているだけで、そんなことが実際にあったわけでないことは誰でも承知しています。しかし、神話が歴史上の何かを暗示しているものとすると、HSCPによってはじめて確かな証拠を持ってそれが意味付けされたと考えています。
ところで、その中でも図S8や図S14などに表した天ノ逆鉾の位置と、図S29の図は全く無関係のように見える矛盾はどうしたのか?とか、更に過激な意見では、元々どちらもデタラメだから互いにつながりなどないのが当たり前だとする意見もあるようです。このようにいつまでも脳天気でいる人達のためにも図S29にさらに説明を加えることにしました。この説明によって、先ず天孫降臨の地である天ノ逆鉾の位置が先に決められ、その後に一の宮に相当する神社の位置が決められたことがわかってきます。
傾向を示している。そのずれは地殻変動が原因と思 われ、本来はもっと直角精度が高かったと推定できる。 |
久保 は島の中では飛び抜けて高い位置になる。 |
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図S30 九州の一宮と天ノ逆鉾、古富士の関係 |
図S30に示すように、天ノ逆鉾からその周辺の高所を経由して直角で宇佐神宮、西寒多神社、枚聞神社に到達するする場所がないか探索してみます。その結果、神社では安良岳(やすらたけ、607m)、西寒多神社では高熊山(412m)、宇佐神宮では六ヶ所山(541.7m)を経由し、それぞれ90.10度、91.04度、90.51度で到達します。ランダムで経由点を取った場合、その経由点の内角が1%の精度になにる大雑把な確率は100回に一度程度しか起きません。このような高い精度で似た事象が連続に起きていることから、この神社の配置も計画されて配置されていたとしか考えざるを得ません。
まさか?と思う人は多いと思いますが、さらに驚くことが現実にあります。今度は、九州の一宮である宇佐神宮、西寒多神社、枚聞神社などから周辺にある高所を経由して古富士ポイントを結んだ線が直角になる点を探索した結果をも図S30に示しています。どの角度も87.**とすばらしい精度で一致しています。この角度は実際は直角になるように配置されていたに違いありません。それが長い期間の地殻変動によって直角からずれてしまったのでしょう。経由点は図S30の表に示したように、どれも三角点として適すような見通しの良い場所になっています。それぞれの経由点となる高所の頂点はすべて神社群中心となっていて周辺の神社とHSCPが成立しています。この事実が、上記それぞれの経由点の位置を考慮して一宮の位置が決められたことを如実に示しています。
経由点の一例として、種子島にある上大久保の例を図S31に示します。極めて正確な直角でHSCPが成立していて、上大久保の位置が計画的に利用されていることがわかります。後に説明しますが、種子島の神社配置は非常に複雑で島の中に神社群中心がいくつもあります。その結果、上大久保を中心とした場合、周辺の神社の中でHSCPが成立しない神社もあります。これは、その神社が別の神社群中心に関係するように配置されているからです。内陸にある六ケ所山や高熊山などを神社群中心とした場合はそのようなことはありません。ぜひそれらを中心としてHSCPによる結線をして見ることをおすすめします。やはり、高い精度の直角線が数多く引けることに驚嘆するに違いありません。また、枚聞神社、西寒多神社、宇佐神宮(亀山神社)の位置も、もちろん神社群中心となっています。特に、枚聞神社を神社群中心とした場合の干字状パターンの端点の一つは種子島の中にあります。
種子島、上大久保のHSCP線 | 上大久保付近拡大図 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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図S31 種子島、上大久保を神社群中心とするHSCPによる結線 |
ここで神社の位置が決められる順番を考えて見ると、まず図S13と図S14にあるようにして天ノ逆鉾の位置が決まってから、天ノ逆鉾の周辺にある高所の位置が決められ、その高所の位置と天ノ逆鉾と古富士の位置から一宮である宇佐神宮、西寒多神社、枚聞神社の位置が決められたことになります。このような神社配置は、日本全体の地理を正確に把握していなければとてもできるものではありません。古代人の優れた能力に驚嘆するばかりです。
2013.7.20 記
★山岳経由の直角線でさらに意味付けられた最上位経王大菩薩の位置
先に九州の一宮が、古富士または天ノ逆鉾から山岳(三角点に選ばれるような高所なども含む)を屈曲点として直角線が引けるような位置にあることを説明しました。ここでも、HSCPに懐疑的な人は、山岳は日本にはたくさんあり、そのような点はいくらでもあるので、別に驚くことでも何でもないと考えるに違いありません。これも、実際にやらずに頭だけで考えた人の陥りやすい間違いです。実際にご自分で線を引いて見ればわかりますが、屈曲点が直角で、しかも神社群中心の位置にあって周辺の神社とHSCPが成立する点はそんなに簡単には見つからないことがわかるはずです。
先の例では、九州にある一宮の中で図S29にある宇佐神宮、西寒多神社、枚聞神社の三例例を取り上げましたが、他の一宮でも同じように直角線を引くことが可能です。九州の一宮の中で、海神神社(長崎県対馬市峰町木坂247)、益救神社(鹿児島県熊毛郡屋久島町宮之浦277)はこれまでの結線の方法では神社群中心であることはわかりませんでした。ところが、その二つの神社でも山岳経由の直角線が古富士、天ノ逆鉾の両方から引けることがわかりました。ここでは一宮が必ずしも神社群中心の位置にあるとは限らないことを教えてくれました。
前置きが長くなってしまいましたが先のような山岳経由の直角線の実例として、最上位経王大菩薩(島根県出雲市十六島町)の例を図S32に示します。
最上位経王大菩薩(島根県出雲市十六島町)はこれまで度々登場してきました。はじめのころは、日本の神社の原点としていましたが、その後長者ヶ平遺跡が日本の神社の原点であることがわかりました。しかし、現在でも出雲地方の神社の原点となっているだけでなく、出雲大社、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡が最上位経王大菩薩の位置を基準として配置されていることがわかっています。
最上位経王大菩薩は出雲大社から10kmばかり北東の十六島町(ウップルイちょう)と呼ぶ場所にあります。ほとんどの人が聞いたこともない神社であるだけでなく、大抵の人は十六島町の読み方も知りません。このような場所に古代に重要な神社があったなどと言っても誰も信じてくれません。そこで、最上位経王大菩薩のある位置についてこれまで何度も説明してきました。ここではその位置の秘密が山岳の位置にあったことを説明します。やはり神社配置の基本の中には山岳の頂点の位置が強く関係していてアニミズムの思想がここにも流れていたことになります。
これまで、 最上位経王大菩薩の位置についての説明は、日本の神社の原点とした長者ヶ平遺跡と最上位経王大菩薩の関係について図S13の関係があることをすでに説明しています。さらに、図S8によって御蔵堂と 最上位経王大菩薩との幾何学的関係をすでに明らかにしています。
注;①から⑨のボイントはすべて神社群中心の位置にあり周辺の神社から直角線が収斂する。
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図S32 最上位経王大菩薩の位置は①、②、⑨、⑧の山岳の位置によって決まっている |
図S32の⑨天神丸は劔山に属す位置にあり、劔山にはアーク( 契約の聖櫃)が隠されているとする説もありますが未だにそれは発見されていません。もしかしたら、⑥天神丸の位置がその埋蔵位置と関係している可能性が出てきました。
注;宇野正美著「古代ユダヤは日本で復活する」
また、⑤弥山の位置は古くから聖地とされていて、この位置には弥山神社があります。
図S32から③最上位経王大菩薩の位置は聖地である ⑧高千穂峰と①古富士の位置に加え聖地である⑨天神丸と②妙高山の位置によって決められていることがわかりました。
図S32で見る限り、④長者ヶ平遺跡の位置は③最上位経王大菩薩の位置と⑤弥山の位置によって決められているようにも見えます。
⑤弥山の頂上にある弥山神社は天河大辨財天社(奈良県吉野郡天川村坪内107)の奥の院とも言われています。弥山神社 の位置ももちろん神社群中心となつていますが、奇妙なことに図S33に示すように弥山神社から天河大辨財天社に引いた線の直角延長上には歓喜神社(阪田神社、和歌山県西牟婁郡白浜町1)があります。その時の屈曲点の内角は90.07゜となっていて、まさに神様がきめたようなすばらしい直角精度になっています。
さらに、図S13の①古富士ポイント-②妙高山-③最上位経王大菩薩でシュメールの意味を持つ妙高山で88.11度の内角を持つことを説明すると共に、図S14によって②妙高山と⑧天ノ逆鉾がつながることを説明してきました。ここで、図S32の①最上位経王大菩薩-⑨天神丸-⑧天ノ逆鉾の関係が新たに加わったことになります。
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図S33 弥山から天河大辨財天社を経由90.07゜で歓喜神社に到着 |
歓喜神社は1,300年前に南紀の氏子が祀っていたものが津波で埋まり、それを昭和38年に発掘したものを御神体としている神社です。その御神体は男女の性器であり、古代の祭祀の例を示しているとも言われています。歓喜神社も神社群中心の位置にあり、周辺の神社から引いた直角線の収斂点になっています。
2013.7.31 記
★神社配置が鉱山の位置を示している証拠
謎の石造物とされていた石の宝殿の位置が全国一宮の位置と関係していることを説明しました。一の宮は各地域にある最も社格の高い神社とされています。しかし、どのようにして一宮が決まったかは古文書にも記録が見つからず、まだ誰もわかっていません。延長5年(927年)に延喜式神名帳が定められたとき、「神祇官や国司などから諸国の神社へ移送布告などを伝達する神社を予め各国に1社定め、国内諸社への伝達および諸社からの執達をその神社に行わせた」とする神社が一宮であるとする説もありますが、それも確かな証拠があるわけではありません。
これまで書いてきたように、HSCPから見ると、ほぼすべての一宮が神社群中心であるとする大きな特徴があります(例外は屋久島の益救神社と対馬の海神神社)。しかし、神社の配列規則にかかわるような記載は延喜式神名帳にも全くなく、記紀などの古文書にもありません。710年には条理制の都市計画のもとで平城京が作られたので、ようやくこの頃から測量が行われたことが知られています。これらの常識から考えると、古代人が遠方の方向を正確に知ることができたなどと言うことは無謀そのものに聞こえるのは間違いありません。しかし、縄文遺跡と神社の幾何学的配列を見ると、古代人が精密に方向を知ることができたことは疑いのない事実なのです。呼び方を一宮としたかどうかは不明ですが、一宮のほとんどが神社群中心の位置にあることから、神社の位置が決められた当初から一宮に相当する神社が決められていたに違いありません。
先にも説明したように、一宮の位置の決定は、国土地理院が三角点としている高所の頂点と同じ場所が多く利用されている事がわかってきました。この事実は、アニミズムから来た山岳信仰とつながるようにも考えられますが、それよりも神社の位置の決定が、現在の三角測量と同じ手法で、高所から可視的に見て、その位置を決めていた証拠であるようにも考えられます。しかし、陸からは決して可視できない離島の位置も正確に把握していたことがわかっているので、やはり天体の位置を利用しない限りそのようなことは不可能ではないかと考えると、古代人がどのようにして神社の位置を正確に決めることができたかは依然として大きな謎のままです。
古代人が遠方の方向をを、どのような方法で知ることができたかはわかりませんが、道路などの完備していなかった古代では、数多くある神社の配列を正確な規則で配置することは、決して容易ではなかったと考えられます。しかし、なぜそのように苦労をしてまで、神社の位置を決めたのでしょうか。しかもその配列規則をを見ると、古代ではとてもできなかったと考えられる正確な直角を使っています。なぜ直線を使わず難しい直角をわざわざ使ったのでしょう。 もしかしたら、神社の位置は大切な物のある位置を示していて、直角を暗号のように使って、それを知っている者達だけがそのありかがわかるようにしていたのかも知れません。もしそうなら、その大切な物とは「金」などの鉱物資源のある位置を示しているのではないかと考えさせられます。
この考えは、初めてではなく、すでに神社の位置の研究を始めたときから、東北や北海道の神社と遺跡、鉱山の位置関係から見てもその可能性があることを指摘していました。はたして、この考えが正しいかどうかを確かめる目的で、検証しようとする位置を中心として、周辺の一宮に線を引き、直角線がないかを調べる一宮テンプレート方式と名付けた方法を、鉱山の位置で試して見ました。
その結果、足尾鉱山の本山坑跡(栃木県日光市)、神岡坑口(岐阜県飛騨市)付近、和銅遺跡(埼玉県秩父市)、甲斐金山遺跡黒川金山(山梨県甲州市)などの位置が一宮テンプレート方式から見て特異点である可能性が出て来ました。さらに、そこで得られた特異点付近をHSCPによって探索して、神社群中心となる点がないかを検証したところ、その予想は驚くほど的中していました。古代人が鉱山の位置を意識して一宮の位置を決めていたことは確率を持って証明できることがわかったのです。
その後さらに一宮テンブレートによる検証で、竜山鉱山(岡山県久米郡久米南町中籾)、鐘内鉱山(金内鉱山、京都府船井郡京丹波町)、別子銅山(愛媛県新居浜市)でも特異点が見つかりました。古代の青銅を研究しておられる、新井宏氏によると、佐賀県久里大牟田遺跡と福岡県八女市野田遺跡から出土した鉛製矛は、「金内鉱山、生野鉱山の鉛同位体比と極めて近い鉛同位体比を持っている。」としておられます。新井宏氏の説は、一宮テンブレートによる検証でも裏付けされたことになります。続日本記には武蔵国秩父郡和銅(現在和銅遺跡となっている場所)から和銅( ニギアカガネ、自然銅)と呼ばれる銅塊が発見され、それを祝って年号が和銅に改められたとする記載がありますが、この記載から推測されるよりもはるかに古い時代から日本の鉱山の位置を知っていた人達がいたことが明らかになったのです。
このようなことを書くと、金属の利用時期に関わる常識的な説を唱えている専門家は、そんな馬鹿な話はないと言うに違いありません。そのような研究者に質問します。「日本の縄文遺跡からなぜ全く金製品が発見されないのか」の質問にも答えを出すべきです。上御殿遺跡で発掘された双環柄頭短剣の鋳型から見ても、これまでの常識的な歴史観など、どこまで正しいか全くわかっていなかったことを示しています。特に、「金」に関して書けば、原始の古代には自然金が豊富に存在していたことは明らかです。しかし、なぜか日本の縄文遺跡からは全く金が発見されていないのです。これは、当時「金」が厳しく管理されていたとしか考えられません。誰がそれを管理していたのでしょう?、私は神社の配列を決め、それを実行していた優れた知識を持っていた人達がいて、その人達が金を管理していたに違いないと考えています。
★一宮テンプレート方式による足尾鉱山本山抗口の検証
前置きが長くなりましたが、足尾鉱山(栃木県上都賀郡足尾町)付近で仮想神社群中心(神社の存在しない神社群中心、周辺の神社から引いた直角線の収斂点)がないかHSCPで探索していたところ、足尾鉱山の本山抗口付近、その正確な位置は
北緯 36度39分50秒60 東経139度26分12秒92 (世界測地系)
の位置で、本山坑口から南南東約22m付近にあります。この点を仮想神社群中心(神社の存在しない直角線の収斂点)としてHSCPで結線すると、周辺の神社と例外なく極めて高い精度の直角線が引けることがわかりました。さらに、その点を一宮テンプレートで検証した結果を図44に示します。
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図S44 本山坑口付近(本山坑跡から南南東約22m)の一宮テンプレートによる検証 |
ここで注目することは、地域を代表する神社とされていて、一般の神社と比べて桁違いに数が少ない一宮(論社を含めて全国で約120社)だけでこんなに数多く直角線が引けることです。直角の精度は地殻変動によるずれを考慮すると実質1%の精度に十分入っていると考えています。原点を固定してランダムに二点を取り、その二点を結んだ端点から原点に引いた線の角度が1%以内の精度になる大雑把な確率は1/100です。もし一宮の位置がランダムに分布しているとしたら、全国に論社を含めて約120社ある一宮に対して、大目に見ても、せいぜい一本か二本の直角線しか引けないはずです。ところが、その一桁以上もの正確な直角線が引けるのは、一宮の位置が①本山坑口の位置を意識して配置されていると考えざるを得ません。
さらに、⑭石の宝殿からは㉒氷川女体神社を経由して88.75゜で①本山坑口、⑮益田岩船からは⑲洲崎神社を経由して89.61゜で①本山坑口に到着していることです。稀にしか存在していな巨大石造物と一宮の組み合わせでも直角が成立していることは、この巨大石造物も本山坑口の位置を意識して置かれていると考えられます。言い換えれば、巨大石造物の位置も神社の位置も同じ人達が決めたことになります。
ここは書きかけです。2013.9.12記
★一宮テンプレート方式による神岡鉱山神岡抗口の検証
図S45 神岡坑口の位置(カミオカンデの南東約10kmの位置にある。) |
図S45は
神岡鉱山(岐阜県飛騨市)の中にある神岡坑口(廃坑)の位置を示したものです。神岡鉱山は亜鉛・鉛・銀鉱山で奈良時代からあった歴史のある鉱山とされています。廃坑を利用したニュートリノ観測装置がある茂住坑は神岡坑口から北西10kmほどの場所にあります。広い鉱山の領域を初めから神岡坑口に絞ったのは、全国の一宮から線を引いて直角線の収斂点が多くありそうな点としてあらかじめ見込みを付けていた場所です。この方法は試行錯誤の作業もあり、経験と勘、場合によっては運も必要な難しい作業が必要です。
あらかじめ、見込みをつけてあるとはいうものの、果たして何本の直角線が引けるかを気にしながら一宮テンプレートを使って作業を始めました。ところが、大変な驚きです。作業をすると、次から次と直角線が引けることがわかりました。さらに、まさかと思いながら引いた環状木柱列を持つ、真脇遺跡、桜町遺跡、チカモリ遺跡を経由する線もすべて直角線が成立しました。さらに、先の三つの遺跡と同じ形状の半截材木柱が検出された矢瀬遺跡(群馬県みなかみ町)でも直角線が成立しました。この遺跡は水源遺跡もあり、すでに現地調査もしていた遺跡です。
この遺跡は縄文遺跡ですが、掲示板のスレッド83に書いたように、陣山墳丘墓(広島県三次市四拾貫町)の四隅突出形墳丘墓二号墓の張り出しと同じパターンを持つ炉跡?がある不思議な遺跡です。
図S46 神岡坑口の一宮テンプレートによる検証(赤線は縄文遺跡と関係する線) |
結局、図S46に示すように一宮に縄文遺跡を加えると、30本近い直角線を引くことができました。本当に驚きです、これは一宮が神岡坑口の位置を意識して配列されていたことは確率から見て間違いありません。もし、神岡坑口の位置が、一宮の位置と無関係に配置されていたとしたら、多めに見ても数本の直角線しか引けないはずです。
図S46では遺跡と関係している線を赤線で示しています。この線だけを選んで取り出し、図S47として示します。ここで特に注目することは、③、④、⑤の環状木柱列を持つ縄文遺跡が含まれていることです。ここで使用されていた木柱の伐採時期は信頼性の高い年輪年代法で紀元前800年前であることがすでに知られています。これから、神社の位置が決められた時代が縄文時代にあったことがわかります。また、神岡鉱山のはじまりは奈良時代とされていましたが、それよりもはるか昔に発見されていたことになります。参考;縄文時代晩期における環状木柱列の形成時期、建立は紀元前800年 金沢・チカモリ遺跡の環状木柱列
この事実は環状木柱列だけなく、著名なストーンサークルである大湯環状列石に直角線が届いていることからもわかります。これが偶然ではない証拠に、同類のストーンサークルが存在していたと予想される是川石器時代遺跡にも直角線が伸びています。是川石器時代遺跡の範囲は広く、その全部を発掘しないまま遺跡は埋め戻され、住居跡が密に分布していた土地の上には八戸市縄文学習館が建てられています。もう少し西側まで発掘すれば、恐らくストーンサークルが見つかったに違いありません。
また、⑩千居遺跡(せんごいせき)、⑲三嶋大社における屈曲点の内角は88.50゜、88.54゜と直角からの誤差が多くなっていますが、その傾向は良く似ています。これは、真の神社群中心が神岡坑口より少し西側にずれているのではないかと考えています。残念なことに、この付近の周囲の神社に対する直角線の正確な収斂点を求める作業はまだ終わっていません。千居遺跡は大規模なストーンサークルがあったことで知られています。そしてその遺跡の位置が富士山の近くにあることから、古代の富士山信仰の場であるとの説もありました。しかし、HSCPで見ると鉱山の位置も関係していることになり、そのような単純な考えでは、古代を良く知ることができないことを示す好例であると考えています。
注; 千居遺跡も神社群中心の位置にあり、干字状パターンで古富士に到達する線との直角線(横一本は現在のところ不確定)は神社群中心である八丈島の渡り明神(八丈島町末吉、図S25⑫)から千居遺跡を通り石川県珠洲市川浦町2-1-1の八幡神社に到達する特異な線を持っています。
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図S47神岡坑口の一宮テンプレートによる検証(図1から遺跡に関係する部分を抜粋) 注;桜町遺跡における環状木柱列の中心位置は 36度41分19.79秒 東経136度52分09.97秒(小矢部市教育委員会生涯学習文化課からの連絡によるものです) |
2013.9.18記
★寺地遺跡の木柱列
環状木柱列の真脇遺跡を出発した線は、下記写真で示した寺地遺跡の木柱列を経由して直角で神岡鉱山の廃坑の位置に到着することがわかりました。
図S47に疑問を感じた人は、この点も考慮して再考されることを希望しています。
想像もできないほど古い時代から、この鉱山が知られていたことを示す新たな証拠です。
注;掲示板スレッドNo150参照
写真は寺地遺跡の木柱列
2015-3-21追記
★一宮テンプレート方式による甲斐金山遺跡黒川金山の検証
続いて甲斐金山遺跡黒川金山(山梨県甲州市塩山)0を一宮テンプレートで検証して見ました。その結果を図S48に示します。この場所も遺跡周辺の神社間の直角線の収斂点を正確に求める必要がありますが、まだその概略の作業しかしていません。甲斐金山遺跡黒川金山は金鉱山で、良質の砂金と銀が採集できたと考えられる鉱山です。当然自然金もあったと考えられるので縄文時代は採掘せずに金を得ることができた可能性が考えられるのですが、不思議なことに日本の縄文遺跡からは全く金が検出されません。
この場合も図S47の神岡坑口と同じように環状木柱列を持つ⑩真脇遺跡と⑬桜町遺跡を通りますが、なぜチカモリl遺跡は通りません。代わりにストーンサークルで著名な㉖伊勢堂岱遺跡と㉕釜石環状列石に到達する線があります。また、図S47では石の宝殿と益田岩船は直角線を作るものの、中心の神岡坑口には到着せず、桜町遺跡に到着するとした、イレギュラーな結線になっていましたが、図S48では⑱石の宝殿からは㉔三嶋大社を、⑲益田岩船からは⑳南宮大社を経由して中心の①甲斐金山遺跡黒川金山に到着しています。
図S47と図S48はどちらも縄文時代の遺跡と神社が同じような位置関係にあることから、神岡鉱山と黒川金山は似た時代から採掘されていたものと考えられます。また①甲斐金山遺跡黒川金山から㉓中山金山の位置を経由して㉒水無神社に到達する線は、中山金山の屈曲点の内角が90.18゜と極めて正確な直角に近い値になっているので㉓甲斐金山遺跡中山金山も同一時期に利用されていて、㉒水無神社の位置も①㉒の二つの金山の位置を考慮して決められたものと考えられます。
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図S48 甲斐金山遺跡黒川金山(山梨県甲州市塩山)の一宮テンプレートによる検証) |
★一宮テンプレート方式による和銅遺跡の検証
続いて和銅遺跡です、興味ある事実として、和銅遺跡を一宮テンプレートに適応した場合、図S49に示すように、和銅遺跡を原点とすると、第一、第四象限方向には一本も線が行かない(一宮と直角を作る線がない)ことです。他の鉱山では、全国に線が伸びていて、図S46の神岡坑口では北海道まで伸びていました。しかし、和銅遺跡だけはなぜこのように北側に線がないのでしょうか?
日本の神社の配列はHSCPで見る限り、北海道から沖縄まで連続的につながっていて切れ目がありません。これは、一般的な常識からは考えられないことですが、古代の日本では、争っていない平和な時期があったことを意味しています。記紀では、東北を蝦夷として体制に従わない地域としています。これはそのような時代があったことは確かでしょう、またそれよりも古い時期は三国志や後漢書に見られるように国内が別れて互いに争っていた時期もあったとされています。このようなことは常識です。しかしこの記載は古代のほんの一部の時期のことであり、そこに書かれている事がはたして正しいか、またその解釈にも色々な意見があります、さらに、その他の時期は全くと言って良いほどわかっていないのです。常識の裏には全くわかっていないことが隠れていることが多く、これを忘れると確かな判断ができなかったり、ろくろくわかってもいないくせに、まじめに研究している人と無益な争いをしたり、足を引っ張ったりすることが多いので注意をする必要があります。
ここで常識を持ち出すと、和銅遺跡が発見されたのは時期が遅く、いわゆる蝦夷の領域がすでにできていて、その地域に対応する神社を作ることができなかったのではないかとすると、なんとなく辻褄が合います。もしそれが正しいとしても、図S49には⑰の戍立石器時代住居跡と⑱の寸沢嵐石器時代遺跡二つの特異で平坦な敷石を使用した配石遺構を持つ縄文遺跡が入っているので、常識で考えるよりもはるかに古い時期になります。関東にある扁平な敷石による配石遺構は神社群中心の位置にあることから、以前からこの場所は住居跡ではなく、何らかの祭祀場であると主張していましたが、一宮テンプレートでもそれが確かめられました。
続日本記には武蔵国秩父郡和銅(現在和銅遺跡となっている場所)から和銅( ニギアカガネ、自然銅)と呼ばれる銅塊が発見され、それを祝って年号が和銅に改められたとする記載があるあります。しかし、この記載から推測されるよりもはるかに古い時代から鉱山の位置を知っていた人達がいたことが明らかになったのです。この事実は、8月9に亡くなられた森浩一氏(元、同志社大)も弥生時代から自然銅が使われていたはずであり、三角縁神獣鏡も国産であるとの主張をされていましたが、一宮テンブレートによる検証でもそれを裏付けたことになります。また、小林行雄氏(元、京都大)が弥生時代の銅鐸、銅剣、銅矛の原料は大陸からスクラップとして持ってきたとする説を否定するに十分の証拠になると考えています。小林行雄氏の説は亀井清氏(元、関西大)もスクラップでは失われているはずの成分が日本の青銅製遺物に含まれていることから、小林氏の説を否定していたので、小林氏の説は金属科学と数学による確率論の二つの科学的根拠によって否定されたことになります。
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図S49 和銅遺跡の一宮テンプレートによる検証 注;⑥三国神社は延喜式内社ではあるが、なぜか一宮のリストにない |
以下は準備中です。
★一宮テンプレート方式による竜山鉱山(岡山県久米郡久米南町中籾)の検証
図S50準備中
★一宮テンプレート方式による鐘内鉱山(金内鉱山、京都府船井郡京丹波町)の検証
図S51準備中
★一宮テンプレート方式による別子銅山(歓喜坑、愛媛県新居浜市)の検証
図S52準備中
★一宮テンプレート方式による木浦鉱山(大分県佐伯市)の検証
図S53準備中
★一宮テンプレート方式による市ノ川鉱山(愛媛県西条市市之川)の検証
図S54準備中
反論は大歓迎です。HSCPを理論的に否定された方には500万円の礼金を用意してあります。
専門家、団体からでもかまいません。2014.5.2 礼金を10倍に変更