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タイトル伊佐須美神社・社伝の謎
記事No75
投稿日: 2012/12/10(Mon) 01:49
投稿者管理人
参照先http://w312.k.fiw-web.net/hscp/
会津美里町にある延喜式内社・伊佐須美神社(奥州二宮、名神大社)に
は不思議な社伝が残され、それが由緒にも書かれています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BD%90%E9%A0%88%E7%BE%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE

ここに書かれていることをHSCPで説明できないか長い間検討して
きました。しかし、まだその全部を説明する至っていません。

その中で、博士山については明確に説明することができました。
博士山の「はかせ」という奇妙なび名は、「その昔大和朝廷が東北地
方を治める時、太刀を佩(は)いて嶺通しにたどったことから「佩は
)かせ」となり転じて「博士」になったといわれている。」
とされています。しかし、これは後世の付会であろうと考えています。

「はかせ」は古語で「基準」の意味を持っていました。現在でも宮大
工は寺や神社を建造するときに基準点を設け「はかせ」と呼びます、
その点を基準にして建造している例を新潟県で実際に見て来ました。

この考えを入れて、HSCPで博士山の位置を検討したところ、見
事に説明することができました。

新潟県北部の神社の位置の多くは、博士山山頂の位置を基準にして
配置されていることが明確になりました。また、長者ヶ平遺跡(佐
渡にある縄文遺跡)の位置は博士山山頂の位置と、古富士ポイント
と)の位置によって決められていることがわかりました。

長者ヶ平遺跡は私のHPでも繰り返して登場し、注目する第二の位
置にあります。
本当に驚きです。

未だに、HSCPを認めようとしない人は、この事実をどう説明す
るのでしょうか?

この例に漏れず、このところ、一目瞭然にHSCPを実感出来る例
がたて続けに発見されていて、HPの更新に手が回りません。来年
早々にはそれを発表しようと考えています。

HSCPは純粋で学問的な説です。常識にとらわれてこれを否定し
続けている脳天気な人達も間違いなく降参する日も近いでしょう。

タイトルRe: 伊佐須美神社・社伝の謎を解明
記事No84
投稿日: 2013/03/06(Wed) 08:25
投稿者管理人
参照先http://w312.k.fiw-web.net/hscp/
> まだその全部を説明する至っていません。

先に上のようなことを書きましたが、ついにその謎のほとんどを解明
することができました。

 江戸時代の文化年間に編纂された新編会津風土記に「博士山山勢
高大ニテ其脈支分シテ数山トナル、西ニ引タル峯ニ伊佐須美明神ノ
社跡アリ、御神楽嶽ヨリ此山ニ遷座アリテ、又明神嶽ニ遷レリト云、
其地二間四方計、今ニ草木生セス」

と書かれていることがわかったのです。伊佐須美神社社伝にある遷宮
の伝承は事実を伝えていたのです。

 さらに検討した結果、驚くことがわかったのです。社伝に書かれ
ていた御神楽岳、明神ヶ岳、博士山、伊佐須美神社の位置それぞ
れに重要な意味があることがわかりました。

 ここから、古富士を基準とせずに、蛭ヶ岳(神奈川県相模原市緑
区と足柄上郡山北町の境界にある1673m)の山頂位置を基準とした
神社配置を用いた時代があったこともわかりました。

 それらの結果から、E.Jscience 1号に書いた、八桂社(愛知
県田原市、後に八柱神社に訂正)はその時代の神社群中心であるこ
とがわかりました。

 ここから、伊豆大島岡田にある福聚寺が神社群中心であることが
わかり、八柱神社との密接な関係もわかりました。いくら引いても
釈然としなかった伊豆大島の結線が満足できる状態で完了しました。

 また、八柱神社と福聚寺の密接な関係から、八柱神社が古代から
重要な神社であったことが益々明確になって来ました。

 それに引き換え、八柱神社のすぐ近くにあり、著名な伊良湖神社
の位置(砲台を作る前の旧位置)からは何も読み取るこができませ
ん。これは過去に神社を比定する時に何かの間違いがあつたものと
考えています。

 また、この中で御神楽岳に対応する神社は山梨県笛吹市一の宮町
にある浅間神社(90.27゜)であり、この時代にすでにこの神社が
存在したことが明確となり、三大実録の記載が間違いであることが
明確となりました。(他の浅間神社は大きくずれる)

 HSCPで見る限り、論社であった笛吹市の浅間神社が延喜式内社とし
て有力候補となります。これは数字で明確に表すことができるので、
今後この説を崩すことはできないでしょう。