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タイトル吉野ヶ里の銅鐸埋蔵地点も仁徳陵の位置で決められていた
記事No306
投稿日: 2019/07/13(Sat) 15:47
投稿者管理人
参照先http://w312.k.fiw-web.net/hscp/tumulus_facing/tumulus%20facing.html#%E2%98%85%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC%E3%81%8C%E4%B8%80%E7%9B%AE%E7%9E%AD%E7%84%B6%E3%81%A7%E5%B4%A9%E5%A3%8A%E3%81%99%E3%82%8B%E5%9B%B3
 待望の吉野ヶ里遺跡で出土した銅鐸の出土位置が佐賀県文化課文化財
保護室から届きました。

 九州は銅鐸の出土が少なく、しかも小銅鐸しか出土しません。参照にあ
るリンク先の図F−9では、到着点が九州にありましたが、小銅鐸の埋蔵
位置については未確認でした。この位置も同じ規則にあれば、九州王朝説
を完璧に崩し、もし裁判になっても絶対に勝てる、矛盾の全くない説にな
ると期待していました。

 早速、佐賀県から頂いた位置データを計算したところ。ピッタリと予
定通りの計算結果になりました。しかも、このデータから、対馬も間違い
なく近畿と同じ祭祀領域にあったことが明確になりました。

 これで自説は完璧になりました。以後これを無視して平気で自説に反
する説を拡散している人達は注意をしてください。

 紀元前に九州から関東まで、すべてが近畿の「青銅器祭祀圏」にあった
ことが明確になったのです。教科書に載っていた、銅鐸文化圏と銅矛文化
圏とした言葉も、もはや不要になりました。

 これはHSCPを用いないと絶対にできないもので。HSCPを馬鹿
扱いをしていた人たちは以後逆さの立場に立たされます。